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週末に終末を感ずる。

「自分は大丈夫」という仮想のもとに生きている。
ここに、真実は明らかにはなっていないという闇があります。
私たちの命は常に臨終を生きているのです。
顕在化していないだけのことで、じつは全ての人が苦しみ(終末期において体験されるさまざまな苦)の種を宿しているのです。

            西原祐治


先日仕事をしていて気付いた。

昭和の記憶はけっこうある。

昭和58年10月は?と、問われれば、
あぁ〜、あの頃か。
あぁいうことがあったよな。
こういうこともあったよな。
と、おぼろげだが、おおざっぱだが、なんとなくだが思い出せる。

ところが、平成になると、もうほとんどわからない。

ぎり、平成元年くらいだな。
昭和64年。
それならなんとなく思い出せる。

2年を超えると、その年に何があったかなんて、ほとんどわからない。

この30年に色々あったことややったことは思い出せるが、それが何年のことだか、何歳のときのことだかなんて思い出せない、そんな自分がいる。

これが老化ってやつだな。

近々のことは思い出せないが、昔のことは覚えている、ってやつか。

そんなことをふと感じた次第。

で、よくよく考えてみると、結局は、覚えていないというのもあるが、感動がなくなってきているのだな年々、と、思い至った。

若い頃は、記憶力もあるだろうが、いろんな事に気づき、ひっかかり、感情がうごめいていた、それこそ毎日毎日、時々、度々。

だから、印象に残る。
心に刻まれる。

歳を食って、それがないわけではないが、感受性が鈍くなり、刻み込まれ方が薄くなってきているのだろう。
だからすぐに、あらたな事象で塗りつぶされてしまう。

そんな感じだ。

なるほどな、これが空過ということなんだな。
歳を取ると、空過というものが目前でわからせてもらえるという特典もあるようだ。

これは若いうちは、たとえ充実していたとしても、自分の思いと自分の損得に嵌まり込んでいて、実は空しく過ぎ去っているいまを生きているんだぞ、と言われてもわかろうはずもない。
だって、そんなことを感じるヒマもないくらい、忙しく感性を刺激されているし。

年取りゃ取ったで、良きもあり。

やばいのは、覚えている思い出が、歳食ってくると、どんどん勝手に塗り替えちゃっていることだな😅

事実ではなくて、長年掛けて修復したまったく別物の思い出になっていることもあって、それがいい方に出ればまだいいのだが、その時一緒にいた人々に感謝できたり、大好きになれたりするから。
やばいのは、往々にして悪い方に出ることがある。
そうなると、恨んで、憎んで、もうたいへんだ。
恨まれた方からしたらたまったもんじゃない。
なんせまったく見に覚えのない、まったく事実と異なる理由で恨まれるんだから。
事実をもって以上に、自分で作り込んだ恨みは根深く、決して消えることがない。
これが怖いんだよね、若い頃の思い出しか亡くなってくると。
おそらく自分もそのうちにそうなる可能性は非常にあると思う。

これは誰でもがもっていると思うよ、種は。

だから、少しでもそれを避けることを考えるのであれば、過去の思い出を後生大事に、「昔はよかったなぁ〜」で生きるのではなく、今を大事に、もう少しだけ感性を研ぎ澄ませて、発見が一つでも多い日々を過ごすことを心がけたい。

過去を振り返って懐かしんでいる隙も、未来を夢見ている隙もないくらい、今は実は大事なんだってことだよなぁ。

でもね、ここで一つ思うのは、自分自身がそういう風に生きようとする姿勢は大事だけど、今の日本の社会ではそれを安心して、ゆっくり今だけを大事に生きるなんてゆとりがないのが事実。
どちらが先ではなくて、自分からそうあるよう生活を大事にする、と同時に、誰でもが安心して過ごせる社会を構築するよう、常に互いに語り合うことが大事なんだよな。

弱者を作り出してふんぞり返っているようなやつがいる社会ではダメ。

誰でもが、同じ儚い人生を生きているんだし、支え合うために群れるならまだしも、暴力(言葉も含めて)を奮ってウサを晴らす、群れることで「ボクだけじゃない」と逃げる、そんな哀れな集団化は必要ない。

どうせさ、長くても100年ちょい、あと130年もすればみんな死んでいるんだろうし、いがみ合って、人を貶めて、そんな腐れた生き方するのもったいないよね。

もっと自分の置かれている命の終末に目を向けないとな。


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