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一心同体

自己の唯一無二性への感謝。
たとえいまから一〇〇万年がたっても、自分とまったくおなじ人間はあらわれない。
自分とまったくおなじような世界をながめ、おなじように世界に反応する人間はいない。

エリザベス・キューブラ・ロス


一心同体って言葉がある。

「君と僕とは一心同体」
「そうよ、わたしとあなたは一心同体よ」
「いままでも、そしてこれからも」
「永久の愛を」
「We are 一心同体❣」

危険だ。

一心同体思考はともすると非常に危険だ。

一心同体はミスを許さない、どんな些細なミスをも許さない。

ミスした瞬間、齟齬が生じた瞬間、関係はどんな対象よりも最悪の関係になることもある。

可愛さ余って、ってやつだ。

裏切り者は許されないのだ。

一心同体なのだから、わたしがラーメンを食べたい時はラーメンを、そこに餃子とライスを付けたい時は同じくあらねばならない。

「ライスよりもチャーハンのほうが良くないかな?」

なんて意見が出ることも許されない。
だって一心同体だもん。

やばいね。

ま、大抵は、
「も〜、一心同体って言っていたのに信じられない!プンプン!」
「ごめん、ごめん、ごめんよ〜」
「わかった。許しちゃう」
「ありがと〜う。だから好きなんだよ」
「だって一心同体だもん」
「そうだね、愛しているよ」

みたく終えるだろうから心配はないが、万が一にも、一心同体感を持った際はお気をつけあそばせ。

だいたい、ありえないし、どんな気の合う、どんな信頼する、どんな尊敬する、どんな愛している相手であろうが、まったく同じものを同じように見ることも、感じることもできるわけがない。

近い感覚はあり得るが、同じ感覚は有り得ない。

わたしがみているところから、同じものを、同時に、まったく同じ視点で、対象物のどこに焦点を置くかも同じで、それをどう感じ取り、そこから何を思うか、皆バラバラだ。

だから、個々の存在は尊い。

個々の視点、見解、感覚、感性は尊重されるべきである。

それをするためには、先ずは、自分の唯一無二性を認めることは必須。

ぼくが ここに   まど・みちお

ぼくが ここに いるとき
ほかの どんなものも
ぼくに かさなって
ここに いることは できない

もしも ゾウが ここに いるならば
そのゾウだけ
マメが いるならば
その一つぶの マメだけ
しか ここに いることは できない

ああ このちきゅうの うえでは
こんなに だいじに
まもられているのだ
どんなものが どんなところに
いるときも

その「いること」こそが
なににも まして
すばらしいこと として

思える思えないではない。

それが事実であると認めること。

そして隣の人も虫も花も同様であると認めること。

そして、人間だの、動物だの、男だの女だの、私だの貴方だの彼だの彼女だの、そうした壁を取っ払うことができたなら、好きなあの人とだけではなく、嫌いな、悪い、認められない、そんなものとでも共にあることを認められたとしたら、そいつぁ〜「一心同体」といえるかもね。

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