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知識で見ているその目には何も見えてない。

人間の知識には影があります。
その影は知識が進むにしたがって、いよいよ黒くなるのであります。
されど私たちは知識の表面の明るさに欺かれて、その影の暗さを知りません。
知識は事物について明るくとも知識自身の暗さを知らないのであります。

            金子大榮


石神井公園の三宝寺池では自生したと思われる藤の花が見頃だ。

この藤、年々、だんだん範囲を広げ、「おいおい、このままいくと藤だらけの公園になんじゃね?」というくらい、特にここ数年の拡張の仕方はすばらしい。

上の写真だと、真ん中の上から垂れさがている箇所だけだったのよ最初。
で、それが4、5年前には向かって右側に、数年前には、向かって左側と下の桜の木に、で今年はついに写真を撮っている遊歩道のあたりまで藤の花が咲き出した。

遊歩道脇の藤の花。

桜が散って少し経つと藤の花が咲きだし、藤が終わって少し経つと睡蓮が咲き出す。

花に全くといって興味がないと言っても言いすぎじゃないわたしでも、こういうふうに公園を毎日歩いていると、気がついたら桜だ藤だ睡蓮だ、それプラス野草や野花に自然と目が行くようになるもんだ。

自分で見てると思っている、認識しているものしか見ていなければ、こんな風に見ることはできないだろう。

わかりやすく言えば、梅とか桜の花に始まり、したら藤だとか睡蓮に目が行くようになり、その流れで、野花にも目が行くようになる。
写真を趣味にできないかな、と思って、写真を撮るようになり、何を撮っていいのやら解らないで、冬場に始めたものだから枯れ葉ばっか撮り歩いていて、枯れ葉さえなくなってくると枝や落ち葉、そこにいる鴨を始めとする水鳥を撮って、そのうちに花が咲き出し、「これ何?へぇ〜これがコブシですか」となっていった。

で、この枯葉や落ち葉や枝を撮っていたころが結構一番楽しんでいたかも。

パシャパシャ、あれもこれも撮って、それでも飽きなくて、毎日同じとこで同じような写真を撮っていても飽きなくて、日が出ていようが曇っていようが雨だろうが雪だろうが楽しかった。

ところが上手い下手は別として、なんかわかちゃってくるんだな、知識というのかよくわからんが。

なんもわかっていないのだけれど、つきつめてもいなのだけれど、そのくせにわかった気になっちゃう。
で、飽きてくる、毎日同じ公園で写真を撮っているのが。

数年前、時間を取って、ある桜の名所に桜を撮りに出かけてみた。
有名な桜の木が在り、それを撮ったのだけど、なんかピンとこなくて、結果、桜の花の接写ばかりを撮って、それでも出かけられたというだけで嬉しくてヘラヘラ帰宅して、撮ってきた写真をチェック。
殆どが、朝、石神井公園で撮った桜の花の写真と同じようなもんばっかだった😅

同じことを彼岸花でもやっている😅

で、桜も彼岸花も、石神井公園で撮ったほうが、この時間はこのあたりの花が日のあたり方や影の感じが良い、てのをなんとなく知っているし、後ろの感じも知っているのでぼかし方なんかも自分なりにわかっていて、良い写真が多かったりした。

知っていることの利点もある、という話になってしまっているな😅

逆を話そうとしていたのに。
知っちゃっているがために(本当は知ってないのだけど)、同じ写真なんぞ二度と撮れないし、同じ出会いは絶対ないのに、それを楽しめない、ということを話そうとしているのにね😅

目に見える変化、確実にわからないこと、そんなものにしかしょせんは目がいかない、気が回らない、興味が持てない自分が確実にいる。

変化がないと思えている、変化がないと思い込ませている知識が、確実に見えなくさせている。

たまにだけど、ごくたまにではあるけど、まったく気が乗りそうにないなと思えるような朝、「写真を撮るぞぉ〜」スイッチを入れるために2〜3枚意味なくレンズを適当なところに向けてシャッターを押すことがある。

帰ってから撮った写真を確認すると、思わぬ発見があったりする。
人に見せれるような写真ではないけど、その風景・情景のなかに、例えば気づかなかった花が写り込んでいたり、このあたりのこの季節のこの時間帯はこんな日のあたり方(影のでき方)なんだ、とか気が付かされることがある。
見えてないんだないつも、とも気付かされる。

知識というものは、知識として得た情報の範囲でしか見えないのかもしれない。

そして個人で所有している知識はたかが知れている。

基本は何も見えていない、わかっていない、知っちゃない、と思うようにしている。

そうすると少し元気が出てくる。

やっぱ知りたがりだからね。
知りたい!ってなるのよ。
同じカルガモを撮るにしても、習性とかそんな専門的なことはわからないけど、鳥を撮るのが好きな方のように飛び立つ前の仕草とかもわからんけど、こちらを覗き込むような視線をくれたり、困惑したような視線をくれたり、カルガモの目にも表情があることに気づいたりすると、もうなんか上がるのよ。(基本勝手にこちらがそういう目をしているって決めつけた勘違いだと思うけどね😅)

初期経典を読むとさ、釈迦はやたらと「愚者」とか「凡夫」とか「愚か者」とか呼びかけてくるんだな。
若い頃は、「なんて失礼な!自分が悟ったからって、ちょっとそれは違うだろ!」なんて思っていたけど、「シッタカになってるぞぉ〜、気をつけろぉ〜、まだまだわかってないんだぞぉ」という気づきをくれるための呼びかけなんだな。

まだなんもわかっちゃないし、一生わからないから、安心しな、おもしろい人生だから!、そんな呼びかけにも聞こえる。

さぁ、明日も懲りずに写真を撮りに行こう。

そして、安心して、
「昨日となんも変わんねぇなぁ〜、なんも撮るもんがみつかんねぇ」とぼやきながら過ごそう。
そんな事あるかい!ってツッコミはすでにもらっているのだし。

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