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勧善懲悪

わたしは学ぶ
あなたから学ぶ
わたしとは違う秘められた傷の痛み
わたしと同じささやかな日々の楽しみ

そうしてわたしたちは学ぶ
見知らぬ人の涙から学ぶ
悲しみをわかちあうことの難しさ

わたしたちは学ぶ
見知らぬ人の微笑みから学ぶ
喜びをわかちあうことの喜びを
        谷川俊太郎

わたしは、基本、勧善懲悪が大好き。
善を勧め、悪を懲らしめる。
気持ちが良いんだよね。
完全に悪が懲らしめられるのは。

そう、いまのわたしたちの社会では、
「善を勧める」という「勧善」ではなく、
「完全」になっている。
非常に危険な考え方だ。

そもそも、「善」て何?「悪」て何?

自分自身の中で考えてみよう。
そうすると、自分に都合のいいことが「善」。
都合の悪いことは「悪」。
自分以外は受け入れない。

流れに乗って、いい感じで車を走らせている。
そこに、その流れの前方を行く車が
その流れを無視するかのようにゆっくり走っている。
例え、その車が法定速度ギリギリで、
もしくは若干スピードオーバー気味で走っていようが、
せっかくいい感じで流れていた「私たちの車の流れ」を邪魔するようだと、
こちらがとんでもないスピード違反の「流れ」であったとしても
私にとっては、「流れ」を邪魔する前方を行く車は「悪」になる。

この「流れ」というものが社会性だ。

どんなに善行を勧めていたとしても、
社会性という何一つ根拠のない「正義」に合わなければ悪とされる。
社会的に騒がれた事件の弁護を引き受けた弁護士が、
何故か社会から叩かれる。
社会正義に相反する奴の弁護をするからという理由だけで。
もうメチャクチャだ。
善を勧めるために悪を懲らしめるのではなく、
気分が悪いから叩く。
叩かれる奴が悪いんだ。
気に食わないヤツを叩く。
これが社会が作り出す「善」であり、
わたしが大好きな「完全(勧善)懲悪」。

その「社会」は、
一人ひとり「善は我に有り」と勘違いしている
そんな「わたし」が集まって作り上げている。

シャカは「善を勧める」ために「自我という悪」
自分の中に確実に存在している「悪」と対自した。
そして、「自我」「煩悩」という「悪」を懲らしめ
「善」を勧めた。

「善」をなしていると思った時に
その心根に「悪」があり
「悪」をなしているとの自覚を持っても抜け出せないのが「悪」である。
そんなわたしせあり、「勧善懲悪」はできないのがわたしだ。

どこまでいっても好きだ嫌いだに捕らわれ、
社会的立場としがらみにがんじがらめになって、
どんなに善行を勧めようとも、
その善行自体が、愛だの名誉だのという欲望からなるもので、
そうだと分かっていてもどうすることも出来ない。
(自己満足な)善行はやめられない。
そんな自分だと理屈では言っていても
実際には何をするにしても、
それが善いことだという確信を持っている。
わたしの「善」を否定する、
否定しないまでも同調しない奴は、
完全に「悪」とみなす。
そして、悪を懲らしめたいと望む。

悪を懲らしめるにも
自分勝手な思い込みでしかなく、
だれも賛同するももなく、
思いどおりに懲悪できない、
そんな力も何もない、
そういううちはまだましなのかもしれない。

怖いのは、わたしにとっての「善」が、
多くの人、社会的に力や立場の強い人と共通の「善」であった時だ。
その時にはたらくのが「勧善懲悪」という力による弱者の排除。

戦争、イジメ、差別、殺人等の愚行が無くならない背景には、
ゆがんだ「勧善懲悪」という正義が間違いなくある。
そして「ゆがんだ勧善懲悪」が大好きなんだ。
自分からすり寄っていく。

今の社会でわたしたちがいう「善悪」はご都合主義でしかない。
「ご都合」は、その日によって、時間によって、
入ってくる情報によって、場所によって、相手によって、
くるくると目まぐるしく、自分の意志とは無関係で変わっていく。
そんな「自らのご都合」に振り回されているのはわたし自身。
わたしは、
縁さえ整えば、
勧善懲悪の名のもとに
「弱者」「意見のあわないやつ」を叩きのめす
「正義の人」といつでもなりうる。

その危険性を持っていることを頭では理解しているつもりでも、
実際はいかんともしがたい自分であり、
厄介な自分なのであることを生活の些細な事柄から学び、
だからこそ、一生をかけて自身に手をかけていくしかない。

隣の人の悲しみ、傷の痛み
隣の人の喜び、ささやかな楽しみ
涙、苦汁
わかるはずがない。
ただ、そこから教えてもらえる。
わたしにも「あるんだ」ということ。
悲しみ、涙、苦汁が。
ささやかな楽しみが、喜びが。

他を傷つけた時に目をそらさずにその涙を見よう。

笑顔に出会った時にそっと自分の心を覗いてみよう。

善をなしたときの偽善を恥じよう。

悪をなしたときの言い訳の善を恥じよう。

恥ずかしい自分を大切にしよう。
手をかければかけるほど
いかなる自分であろうが大事だと思える。

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