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日本でヒップホップが流行らないのはダウンタウンのせいではない

昨今のポップミュージックにおいて、ヒップホップの存在感はかつてないものとなっている。ローリングストーン誌の偉大なアルバムランキングではカニエのMy Beautiful Dark Twisted Fantasyが17位、ケンドリックラマーのTo Pimp A Butterflyが19位に突如としてランクイン。これは前回一位だったサージェントペパーズを抑えてのものだ。

しかし、日本ではそれほどヒップホップは市民権を得ていない。トップランナーのcreepy nutsのspotifyでの月間リスナーは2022年12月現在、160万人だ。official髭ダンディズムが525万人、king gnuが360万人であることを考えると全体でトップには来ないことがわかる。

この原因として挙げられるのがダウンタウンだ。言わずと知れた平成のスターであり、その後のお笑いシーンに絶対的な影響を与え、数多くの信者を生み出した。

彼らと彼らに続くお笑い芸人たちがHIPHOPのいわばアウトサイダーな文化を一手に引き受けてしまっているため、HIPHOPは流行りづらいというのがこの言説の言い分だ。既にコーヒーが流行ってるから紅茶は流行らないみたいなことだ。

これは事実であろう。ただそもそも日本ではお笑いが根付きやすく、HIPHOPが根付きにくい環境にあるのだと僕は思う。今回はそれについてちょいと。


そもそもなぜヒップホップが流行り出したのか?


まず、海外でなぜヒップホップがここまで力を持っているのか?それは社会構造そのものの変化にあると僕は思う。前回、ニルヴァーナに関しての記事を書いたのだが、これはその話の延長線上にある。

ヒップホップが力を持つ理由、それはズバリ


自分の足で歩くことに親和性が高いからだ。


国民国家による支配は91年のソ連崩壊によって完全な終焉を迎え、代わりにグローバル資本主義の時代がやってきた。

50年代まで、国民国家は神なき時代の人間たちにとって絶対的な帰依の対象(宗教)となっていた。国民は国家と命を共にし、共通の敵を持ち、それに対置される形で国民と言う仲間を持った。しかしそれが崩壊し、私たちは心の拠り所を失った。

私達には想像しづらいが、そんな心の喪失感をより切迫した形でアメリカ人に感じさせたのが9.11テロだ。

1920年代から絶対的な超大国として君臨していたアメリカの富の象徴がテロリストに木っ端微塵にされ、その後の一連の報復行為によってアメリカ政府の腐敗が周知のものとなり、そこにリーマンショックまでもが重なった。

国家の力、正義、そして従来の自明性の崩壊..サブカルチャーはそんなアメリカ人の喪失感を埋め合わせるために機能した。代表的なのがマーベルを筆頭とするアメコミ映画だ。

しかし、ただ単に正義を執行するだけではこの喪失感を埋め合わせることはできなかった。なぜならこの時代のアメリカは正義が揺らいだだけでなく、
”超大国アメリカ”という大きなもののから国民が放り出され、世界は新たに自明性そして正解を欠いた無秩序な”個の時代”にシフトしたからだ。

自分の信念のために、自分で歩く。そんな決意を謳ったのがグリーンデイの
Boulevard Of Broken Dreamsだ。

グリーンデイを単なるキャッチーなメロコアパンクと捉えるのは早計だ。"
I walk alone"はまさに”個の時代”を端的に表しているし、sometimes I wish someone will find me, Check my vital signs To know I'm still aliveなど、戦う男の孤独をこれ以上ないほど巧みに表現している曲だ。

日本にもよく似た曲がある。中島みゆきの空船だ。

おまえが消えて喜ぶ者に おまえのオールをまかせるな

この曲は先程のグリーンデイと本質的に等価である。ただ日本ではアメリカほどの切迫感がなかったため、それほど広く受け入れられはしなかった。それはそうと中島みゆきの凄さが世間に伝わってなさすぎるように思えてならない。ここまで象徴性の高い歌詞を書けるアーティストは本当に貴重だ。

話を戻そう。この”個の時代”に(歌詞ではなく)音楽的にマッチしたのがヒップホップである。

HIPHOPとは、つまるところビートと韻の音楽である。メロディーではなく、心臓の鼓動のような、何かに何かを打ちつけるような”ドッドッ”と言った音の真理を追求する音楽である。これが自明性なき現代社会を自分の力で闊歩するという感覚に繋がるのだ。

特にアメリカでは開拓時代の名残で”自立”や”独立”への志向性が強い。それに比べて日本ではどうだろうか?

学校なり会社なり、日本は何かしらの集団の中にいることを好むし、組織も育成することに対する意識が高い。人を包むこと、そして包まれることを好むいわば母性的社会がそこにはある。社会保障や正社員制度などが現れだと思う。

お笑いに話を戻そう。世界的な観点で見たとき、日本の笑いには大きな特徴がある。それは、”ツッコミの存在”だ。

ボケが常識から外れた言動をし、それを必ずツッコミがそれを修正し、常識という概念の中に引き戻す。日本のお笑いも、アイトサイダーなカルチャーとはいえ、あくまで常識というものの範疇に留まることを非常に重視しており、”独立”しているとは言い難い。

ってなわけで、根本的に日本人は”自立”をする気がない。よってHIPHOPは流行りにくい。


と言いたいのだが、意外とそうじゃないかもしれない。可能性はある。というのも、この日本人の心理から逸脱したある漫画が空前の大ヒットを飛ばしたからだ。

この作品が革命的な理由、それは”自分がやるしかない”感に極めてフィーチャーしていることだ。

平穏な日常に突然、巨人が現れる。組織だの常識だのといった具合でうだうだしていたら喰われて終わり。そんな逼迫した状況の中で日本国民の何かを強烈に刺激させた。

この作品は、普段どこか怠惰でなあなあでやっている僕たちに対しての強烈なカウンターパンチとして機能しているのであって、厳密に言えば、自立することがいわば自明となっているようなアメリカでのHIPHOPと本質的に同質ではない。

しかし、今の日本人も、やはり心底では”自分がやるしかない”という感覚は持っているのだ。

現代のアーティストがマスに訴えるには、この現在の日本人の感覚、つまり自立が自明ではない一方で、”自分がやるしかない”感も確かに存在するという厄介な感覚を絶妙に刺激する必要があると僕は思う。


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