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彼が抱える果てしなく深い孤独の語彙への嫉妬

■ポール・オースター『孤独の発明』

先日、『幽霊たち』を読んだときの記事で、こんなことを書いた。

その共通項──からりと乾いたニューヨークの街だったり、洒落て見え隠れするユーモアだったり、過剰なまでに没個性的な主人公だったり、周囲の人物に対する不安や怯えだったり、文学作品や文字に対する執着だったり──そういうものはきっと、ポール・オースターという人物の内面が滲み出た結果なのだろうな。という感じがした。

私が感じた上記のような「オースターらしさ」。その種明かしとも言える内容がこの『孤独の発明』には書かれている。

ここまで自分のことをさらけ出している文章は、プロアマ問わず、はじめて読んだかもしれない。作家のエッセイでも、素人のぶっちゃけブログでも、ここまでの深みに到達している文章はそうそうないだろう。ただ「書こう」「ぶっちゃけよう」という気持ちだけでは、ここに到達できないのだ。

なぜか?いくつかの要因があるだろう。

まず“掘る”べきものがそもそもない、という人がいる。苦しみ、痛み、挫折──そういう経験を欠いた人間がいる。私はたぶんこのパターンで、早々に脱落する。

次に、苦しみを抱えながらも直視できない人。直視することが怖く、逃避してしまう人。ここでほとんどの人が脱落するのではないかと思う。悪いことではなく、むしろ健全な反応だと思う。

しかし、自分の苦しみをとことん直視してもなお、ほとんどの人にとってこの文章は書けないだろう。最後の関門、それは──語彙と感性の圧倒的な欠如である。

オースターは苦痛を抱え、それを正面から直視して自らの中に抱えこみ、なおかつ「文章」という形で記すことができる人だった。彼の孤独や苦しみがここまでリアルに匂って届くのは、彼の果てしなく深い語彙、あるいは感性ゆえではないだろうか

英会話をしていて感じるのは、圧倒的な語彙力の不足が自分自身をすごく物足りない人間に変えてしまう、というもどかしさだ。

英会話をする際に「日本語で考えた内容を英語に変換する」というプロセスは基本的に踏まない。そのプロセスでは会話のスピードについていけない。だから「英語で考えて英語で話しなさい」と昔から教わってきた。

するとどうだろう、私の英語の語彙力の貧弱さはそのまま「中身の薄さ」に直結してしまう。ぺらっぺらの適当なことしか言えない。例えば「朱色が好き」と言いたくても「赤色が好き」となってしまう。朱色と赤色が違うことが頭ではわかっているのに、「朱色」という単語を知らないので咄嗟に「赤色」と置き換えて思考し発言してしまう。そんなことの繰り返しがいつも、もどかしく、悲しくなる。

日本語なら、もっと語れるのに。私はこんなに浅い人間じゃないのに。

そう──確かに私は日本語を母国語にしている。でも、普段は疑わないだけで語彙の不足が私の思考を縛ってはいないだろうか?ふいに、不安になった。

「語彙」は、ただの洒落た言い回しではない。言葉と経験がセットになった「語彙」はすなわちその人の「感性」でもあるのだ。

思考は、言葉で行われる。他人に伝えるためには言葉で表現しなければならないから、言葉で思考しなければならない。

であるならば、ツールたる言葉の語彙が不足している場合、私の思考はお粗末なものになっているのではないだろうか。英会話で感じたもどかしさと同じように。ただ普段はそこまで深い思考を必要としないから、気づいていないだけで。

私は、オースターの語彙と感性に嫉妬している。

最初からこの人の文章に親近感を抱いたし、どんなに暗い内容でもどんなに興味のない作家が登場しても嫌にならず読めた。根底で通ずるフィーリングがあるのだろう。

でも私は、オースターの語彙と感性からは程遠い場所にいる気がする。なぜだろう、ノーベル賞作家(※)と自分を比べてみればそんな差は当然のはずなのに、今まで他の作家に一度もそんな感情を抱いたことがないのに、私は、悲しいほどにこの人に嫉妬する。

そもそも彼のような苦痛もなかった私の人生は不運だったんだ、と開き直ってもいいのか?──いや実は私の人生には苦痛がたくさんあったのかもしれず、苦痛を苦痛とも感じられず孤独を孤独とも感じられないのは、自分の語彙と感性が彼に比べて非常に貧弱だからかもしれない

そんな感覚、そんな恐怖。

自分という人間をここまで信用できなくなったのは久しぶりかもしれない。彼の作品は、読むたびに、私に新しい発見を与えてくれる。

私はひとつの傷を抱え込んでいる。それがひどく深い傷であることが、いま私にはわかる。書くという行為がそれを癒してくれると思っていたのに、書いても書いても傷口は開いたままだ。(P.87)


(※:すみません。オースターはノーベル文学賞を今のところ受賞していませんでしたが、流れを切りたくないので残しておきます)

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