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純文学を愛する理由が突然わかった朝のこと

今朝、電車の中でポール・オースター『幽霊たち』を読んでいたときに、突然きた。それは稲妻のように突然で鋭い感覚だった。

なぜ、純文学が好きか。突然、わかった。

ちょっと小難しいから?
筋があいまいだから?
ブンガク的だから?
かっこいいから?
教養として?

違う!違う、全然違う。

純文学は、作家の魂の叫びだったのだ。私は、その魂の叫びに耳を傾けて、言葉を摂取しているんだ。そうして、一人一人の作家がどのように生きていたか、どのように世界を見ていたかという「目」そのものを集めているんだ

突然、わかってしまったのだ。

今朝オースターを読みながら考えていたのは、これまでに読んだ『ムーン・パレス』『ガラスの街』『幽霊たち』の三作品がどれも似ている。ということだった。

ワンパターンといえば聞こえは悪いが、まぁ、そうとも言える。

しかし私は決して否定的に捉えたわけではない。むしろ、その共通項──からりと乾いたニューヨークの街だったり、洒落て見え隠れするユーモアだったり、過剰なまでに没個性的な主人公だったり、周囲の人物に対する不安や怯えだったり、文学作品や文字に対する執着だったり──そういうものはきっと、ポール・オースターという人物の内面が滲み出た結果なのだろうな。という感じがした。

私は、一冊目を読んで彼にときめきを覚えた。二冊読んで彼に惚れ、三冊読んで彼の人間性に興味を抱いた。もちろん物語あるいは小説として面白いのだが、それ以上に、作家の「世界の見方」が興味深い。

オースターに会ったことなどないし、素性はほとんど知らない。でもなぜだか私は彼のことがよくわかる。何がわかるかを言葉にするのはとても難しいけれど、とにかくわかる。

この小さな文庫本を通して、この電車の中にいながら、私は別の世界を見ている。オースターの「目」で世界を見ている。ふいに、そんな感じがした。

ワンパターンで、何が悪い?だって、そもそも──

その瞬間、突然だった。

だって、そもそも純文学は、作者の魂の叫びなのだから。一人の作家がどのように世界を見て生きてきたかを追体験できる場なのだから

という感覚が、お腹の底のほうから湧き上がってきた。

思えば2019年11月から、馴染みのないミステリーというジャンルを意識的に読みはじめた。それに伴ってこのnoteを書きはじめ、読んだ本のほとんどについて感じたことや考えたことを書き連ねた。

この1年半の間に読んだ本は何冊だろうか、100冊には満たない程度かもしれない。冊数はともかくとして、反復は間違いなく意味のあることだった。それが今朝という瞬間に突然閃きへと変わったことは、自分にとっても貴重な体験だったと思う。

「純文学は、作者の魂の叫びなのです!」

と誰かに教えられたとして、意味がわかるだろうか。わかる、といえばわかるかもしれない。でもそれは、今の自分の感覚のように、腹の底から溢れるような強烈な実感ではないと思う。

私は、この事実が本当に「わかる」。その感覚に、強い確信が持てる。

武者小路実篤という人間がわかる。太宰治が、遠藤周作が、村上春樹がわかる。彼らがどのように違うかがわかる。彼らが「何を書いたか」ではなくて、彼らが「何を見ていたか」がわかる。そんな感覚だ。


この点において純文学は、“まさにこの”世界を個人がどのように見ているかを表現する営みではないだろうか。

対して大衆文学は、“まさにこの”世界とは違う新しい世界を創造する試みと説明できるのかもしれない。


私は、やっぱり純文学が好きだ。心から大好きだ。

なぜなら私は、この世界そのものが好きで、この世界そのものに対して尽きない好奇心を抱いているからだ。この世界を見る「目」を一つでも多く得たい、小さな本を通して、新しい「目」を得たい。それは他では得がたい体験なのだ。映画でも漫画でも旅行をしても恋をしてもみつからないような誰かの叫びがそこにはあるんだ。

だから、純文学を愛してしまうのだ。

自己満足だと自分でも思うけれど、雷に打たれたように痺れる啓示だった。

もしかしたらこんな言葉を過去に誰かに言われたことがあるかもしれない。すごい発見だなどとは思っていない。一般的な価値観だよと言われても驚かない。

でも、自分で得たのだ。この手で、この目で、この心で得たのだ。

こうして手にしたこの感覚を、私はきっと二度と失わないだろう。

そのことが、とてもとても、嬉しかった。

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