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【読書】数学者が抱く孤独と夢

■加藤文元『人と数学のあいだ』


新刊本はふだんあまり読まないのだけど、以前から著作を愛読している数学者・加藤文元さんの新作ということで、買ってみた。

数学者(加藤さん)と、数学者「ではない」4人との、一対一での対話をまとめた一冊である。4人はそれぞれサイエンス作家(物理学専攻)、小説家、精神科医/脳科学者、IT関連企業の社長──という肩書きをもつ。

すらすら読める分量と内容なので、もし文庫化するなら急いで読まなくていいかも……というのが正直な感想。でも、「数学者×異分野の専門家」という対談でかつここまで読みやすい本は多くないだろうから(加藤さんの著作はどれもかなり読みやすい)、ピンときたら読んでみていいかもしれません。


数学者の孤独は小説家の孤独と違うのか?

個人的に特に気になった内容が2つ。

ひとつは、小説家の岩井圭也さんとの対談パートで出てきた「数学者にとっての孤独、小説家にとっての孤独」という話だ。

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まず数学者の孤独について。

天才である以上、一般人の理解を超えているわけで、そこには必然的に孤独がつきまとうのではないでしょうか。

『人と数学のあいだ』P.77

と岩井さんは言う。つまり「他人に理解してもらえない」という孤独だ。この本ではラマヌジャン、ガロア、ペレルマンという歴史上の天才数学者たちが例として挙げられている。

(注:ここから私の咀嚼が混ざります)

一方の小説家も、原則として一人で執筆する孤独な職業だ。しかしその孤独は「他人に理解してもらえない」孤独、言い換えれば「他人と脳内を共有できない」孤独、とは違う。なぜなら、小説家は自分の脳内を一般人と共有する(=思考を作品化し読んでもらう)ことに成功して初めて職業として成り立つからだ。ゆえに大衆に向かって歩み寄るスタンスが必要とされる。

むしろ小説家は、その「脳内を一般人と共有する」以前の創作過程において孤独を感じる──という話だ。「産みの苦しみ」という言葉も出てくる。

経験や思考というのは、そのままでは言語化できていない非常に個人的なものです。それを共有可能なものとして昇華したものが、小説などの知的生産物なのではないでしょうか。その昇華に必要なものが、孤独という装置だと思うのです。だからこそ、小説を生み出すためには、自分と向き合う孤独な時間が必要なのではないか。(岩井)

『人と数学のあいだ』P.105

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そう考えていくと、数学者も小説家も根本は同じに思える。つまり彼らはいずれも「自分の脳内にある非言語の思考に形を与えたい(言語化したい)」ともがく点で、同じではないか。小説家だけでなく数学者にも「産みの苦しみ」的孤独はあるはずだ。

しかし、数学者の場合に世間との乖離がもたらす孤独に焦点が当てられがちなのは、数学者が成果物において「普遍的な正しさ」を最上位概念として追求するからだろう。

つまり数学者にとっては「いかに普遍的に正しいと言えるか」が最重要であり、わかりやすさ(共有しやすさ)は二の次となる。だから理解されづらい。その点が、読み手の存在を前提として創作する小説家と違う辛さの源なのだろう。

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何かを他人にわかりやすく伝える際には、物語や起承転結、比喩など「大袈裟さ」とでも呼ぶべき装飾が欲しくなる。

小説家は、そうした装飾を上手く使いこなして伝える可能性を追求する。一方の数学者は、過度な装飾が真実を歪めることを恐れるので、言語化しても伝わりづらい。違いが面白い。

なんとなく、また一歩、数学者という存在への理解が深まった気がする(我ながらニッチな方向に進んでいる模様)。


ロボットは「夢」をみることができない?

もうひとつ気になった内容は、脳科学者の上野雄文さんとの対話で出てくる「夢」の話だ。

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はじまりは「AIやロボットにも数学はできるのか」という加藤さんの疑問である。そこから話は「クロネッカーの青春の夢」に飛ぶ。

 クロネッカーは、その時点では分かっていなかったけれども、そうなったらいいな、つまりそうだなという「夢」を持って、そこを目指して数学の研究をしていったわけです。そういう夢とか願望のようなものをロボットが持つことができるかというのは、まだ疑問で、これからの課題となっていくでしょう
 夢というのは飢餓感でもあるわけです。人は放っておかれれば空腹感を感じます。電源さえあれば永遠に動くことができるし、死ぬこともないロボットが持つ感覚と人間の感覚では、やはり大きな隔たりがあるように思います。(上野)

『人と数学のあいだ』P.149

「クロネッカーの青春の夢」を私は聞いたことがなかった。今も詳しく知らないけれど、簡単に説明するならば、クロネッカーという数学者がたてた「予想」のようなものだと思う。「たぶんこうなるんだけど、まだ証明できていない」もの。最近では「ABC予想」が証明されて話題になった(関連:以下の記事)。

自らたてた予想の証明を、クロネッカーが書簡の中で「私の最愛の青春の夢」と表現したことから、このように呼ばれているらしい。

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加藤さんが別の著書(たしか『数学の想像力』だと思う)の中で、こんなことを書いていた。「AIは一つ一つ計算を積み重ねることは素早くできるけれど、それらを俯瞰して法則を発見するという人間らしい機能はもっていない」、つまりメタ的思考はできない──という内容で(手元にないのでうろ覚えですみません)、すごく面白いなと思ったのを覚えている。

この夢の話も似ている。

例えばロボットが「お腹がすいたからご飯を食べさせて」と自分で言うことはできるだろう。電池切れや燃料切れを知らせるようプログラムすればいい。けれども「夢」における願望は、そうした本能と次元が違う。

あるいは、ロボットが地球温暖化の過程をシミュレートして解決策を提案することはできるだろう。しかしそれは、ロボットが「地球温暖化を止めるのは良いこと」とすでに知らされている、あるいはそれすらも計算によってはじき出しているからである。善悪の判断が難しい場合に、諸条件を総合的に思考して「こうしたい」と訴える能力はない──のではないか。

願望という意味での「夢」って面白いものだな、と思った。高次の夢は、ロボットのみならず他の動物も抱くことがなく、人間に特有のものだ。人間には「夢」あるいは「直観」があるからこそ、まず数歩先をイメージし、そこに向かうことができる

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夢というのは間違いなく数学を動かしている原動力の一つだと思います。人間というのは有限な生命を持った動物だからこそ、何かを目指そうとする意志の力が生まれるのかもしれません。

『人と数学のあいだ』P.150

この加藤さんの考え方も興味深いけれど、私は夢の「なぜ」をもう少し深く考えたいと思った。

「なぜ人間は夢をみることができるのか?」

脳のメカニズムという意味でも(How)、生きる上での必要性という意味でも(Why)、その理由が気になる。



編集後記

個人的「noteあるある」なのですが……特に読書感想文において「書きはじめるまで頭の中が空っぽで何を書いていいかわからない」という状態がよくあります。

でも何か書きたいような気がする。という感覚が漠然とある場合は「まず何かしらを書こう」と、著者名を書いたり、Amazonのリンクを貼ったり、適当に(?)紹介したりしているうちに、気づけば「あ、こんなこと考えてたんだ」と自分でも驚く文章ができている。そんなことがあります。

もしかしたらそこに書かれた内容は私が抱いた感想と違って、noteを書きながら振り返ることによって作り上げている論理かもしれません。その意味で正しい感想文と呼べるかどうか、自分でもよくわかりません。

いずれにしても、別に読書感想文が「正しい」必要などないですし、私はこうやって書いたものを何度か読み返すことによって思い出したり考えたりできるので(記憶力が悪いので書かないと全部忘れる)、続けていきたい営みだなぁと感じています。書かなかった時と書いた時では、その本に対する理解の深まり方が違うようです。



参考記事


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