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「私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ」

■太宰治『走れメロス』

私は、今宵、殺される。殺される為に走るのだ。身代りの友を救う為に走るのだ。(P.172)

解説に、こんな風に書かれている。

太宰に対しては全肯定か全否定しか許されない。(P.287)

言わんとすることが今回よくわかったような気がする。


この『走れメロス』(新潮文庫)に収録されている短編は、以下九編である。

◎「ダス・ゲマイネ」
・「満願」
◎「富嶽百景」
・「女生徒」
・「駆込み訴え」
・「走れメロス」
◎「東京八景」
◎「帰去来」
◎「故郷」

このうち、太宰治自身を描いているもの(随筆に近い)が◎印で、残りが完全なフィクションだ。つまり半分以上が、独白的内容にあたる(そのうち『ダス・ゲマイネ』だけはフィクション性が強い)。

太宰治の独白は、かなり女々しいと思う。

男女差別的発言になってしまうが、男性作家のわりにはやけに感情ばかりを書くなというのが率直な感想だ。つまり「プロット」とか「表現の巧みさ」とか「文体の美しさ」といったブンガク的要素があまりない。

そのような彼の女々しい心情吐露に対して、純粋に強い共感を抱く人がいる一方で、まったく共感できない場合は嫌悪感になりかねないだろう……ということは、なんとなくわかる。それに、たいして文章が芸術的でもない(とも言える)のにもてはやされるのが気に入らない……という感じも、なんとなくわかる。

わかるけれど、

私はやっぱり太宰治に心を動かされる一人である。その証拠に『走れメロス』のラストと『故郷』の終盤で少し泣いてしまった。

『走れメロス』も『故郷』も、驚くような展開はほとんどない。予定調和と言ってもいい。見えすいた展開。見えすいた友情。見えすいた哀しみ。それなのに心を動かすのは、作家・太宰治の文章力以外の何ものでもないと思う。

本書で最も好きだったのが以下の文章だ。

私たちは、番茶をすすりながら、その富士を眺めて、笑った。いい富士を見た。霧の深いのを、残念にも思わなかった。
(P.58『富嶽百景』)

富士の眺めを期待して高い所に登ったのに、あいにくの天気で肝心の富士山がまったく見えない。富士の眺めを売りにしている茶屋の老婆がそれを気の毒がり、奥から富士山の「写真」を持ってきて「ほんとならここに、こんな風に見えるんです」と懸命に説明する──そんな場面だ。

上の引用の文章には、凝った表現もカッコいい形容詞もない。同じ内容を夏目漱石は、志賀直哉は、村上春樹はどう描くだろうと考える。もっと洗練された言葉遣いが、洒落た表現が、独創的な比喩が飛び出すかもしれない。

でも私は太宰のこの文章がすごく好きだ。この場面の空気と感情を、ありのままに、とてもよく伝えてくれるからだ。


もう一つ。『人間失格』の感想文にも書いたことだけど、太宰治は会話文がとてもよい。

「どうです。もう少し交際してみますか?」
 きざなことを言ったものである。
「いいえ。もう、たくさん」娘さんは、笑っていた。
「なにか、質問ありませんか?」いよいよ、ばかである。
「ございます」
私は何を聞かれても、ありのまま答えようと思っていた。
「富士山には、もう雪が降ったでしょうか」

(P.74『富嶽百景』)

この緩急のつけ方は本当に素晴らしいと思う。音のリズムではなく、意味をもった言葉ならではの「ストン」と落とすようなリズムを感じる。

他も面白い短編ばかりで苦なく読めた。とても有名な史実をモチーフにした『駈込み訴え』も面白い。

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