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文学の圧倒的な力|ユーモアによって中和される悲劇

■太宰治『人間失格』(ややネタバレあり)


恥の多い生涯を送って来ました。

から始まる、言わずと知れた名作。太宰治の自叙伝的作品であり、集大成でもある。その「人間」に対する悲観的な捉え方は読む人に刺激を与えたり、深い共感を呼び起こすこともあるだろう。

しかし、あえて言い切ってしまうと、今回私が感動したのはその内容ではない。太宰治の「文章の上手さ」である。


自分の幸福の観念と、世のすべての人たちの幸福の観念とが、まるで食いちがっているような不安、自分はその不安のために夜々、転搬し、呻吟し、発狂しかけた事さえあります。自分は、いったい幸福なのでしょうか。自分は小さい時から、実にしばしば、仕合せ者だと人に言われて来ましたが、自分ではいつも地獄の思いで、かえって、自分を仕合せ者だと言ったひとたちのほうが、比較にも何もならぬくらいずっとずっと安楽なように自分には見えるのです。 ー 12ページ

このように、読点で長く続く文体に特徴がある。長いし、内容もめちゃくちゃ暗いはずなのに、なぜだか面白い。それは学問的な面白さではなくて、もっと「滑稽」とか「ユーモア」という種類のエンタメ的な面白さだと感じた。

例えば、幼い主人公が、父親に出張の土産の希望を問われて困る場面(主人公は人の顔色をうかがっておどけてばかり、本心が言えない性格である)。

欲しくないか、と言われると、もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです。お道化役者は、完全に落第でした。 ー 18ページ

「もうダメなんです。お道化た返事も何も出来やしないんです」

という口語のリズムが、台詞ではなく“語り”の文章に突然混ざる。一貫してシリアスな内面を吐露しているはずなのに、こういうリズムがあるので、重くない。

それから、

逃げました。逃げて、さすがに、いい気持はせず、死ぬ事にしました。 ー 57ページ

この突然の「死ぬ事にしました」には度肝を抜かれる。こんなにもシリアスなのに読者としては「冗談でしょ?」という気持ちになり、不謹慎ながら吹き出しそうにもなってしまう。

思うに、著者はここで(さすがに)笑わせようとしているわけではないのだろうけど、もって生まれた「お道化もの」精神ゆえのユーモアが、文体のリズムににじみ出てしまうのではないか。

「女から来たラヴ・レターで、風呂をわかしてはいった男があるそうですよ」
「あら、いやだ。あなたでしょう?」
「ミルクをわかして飲んだ事はあるんです」
「光栄だわ、飲んでよ」
 早くこのひと、帰らねえかなあ、手紙だなんて、見えすいているのに。ヘヘののもヘじでも書いているのに違いないんです。
「見せてよ」
 と死んでも見たくない思いでそう言えば、あら、いやよ、あら、いやよ、と言って、そのうれしがる事、ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです。 ー 57ページ

女に甘い顔をしながら内心で

「早くこのひと、帰らねえかなあ」
「『見せてよ』と死んでも見たくない思いでそう言えば」
「ひどくみっともなく、興が覚めるばかりなのです」

と、聞き捨てならないクズっぷり。この痛快さがたまらない。一呼吸を置きもせず、無駄なくたたみかけるように会話と出来事と心情の羅列が進んでいく。


『人間失格』は有名だが、一部の人にとっては「暗そう」という理由で敬遠されているかもしれない。

確かに、暗い。死にたい、死のう、と何度も考えたり、浮上しそうに思えたのにまたしくじったり、そんな救いのないストーリーである(そしてそれが太宰治の生涯だったということだ)。

でも、太宰の文章(あるいは人柄)の根っこにある軽快さとユーモアのセンスが(それは不本意で苦しいサービス精神ゆえかもしれないが)、「人間の葛藤」という重すぎるテーマを上手いこと中和してくれる。だから、読めるし、だから、名作とされるのだ……と感じた。

もし「人間の葛藤」を哲学として語っても、多くの人に届かないだろう。『人間失格』には文学の力強さがあり、物語の力強さがある。その力が多くの人の心を動かし脳裏にテーマを刻み込む。


私はあらためて「文学」の力を感じざるをえなかった。たったそれだけで、恥ずかしながら、目頭が熱くなるほどに感動してしまった。

今年読んだ中でも突き抜けてバランスの良い芸術的作品だったと思う。


ああ、人間は、お互い何も相手をわからない、まるっきり間違って見ていながら、無二の親友のつもりでいて、一生、それに気附かず、相手が死ねば、泣いて弔詞なんかを読んでいるのではないでしょうか。 ー 100ページ
(それは世間が、ゆるさない)
(世間じゃない。あなたが、ゆるさないのでしょう?)
(そんな事をすると、世間からひどいめに逢うぞ)
(世間じゃない。あなたでしょう?)
(いまに世間から葬られる)
(世間じゃない。葬むるのは、あなたでしょう?) ー 101ページ


海外の日本文学研究家たちが谷崎潤一郎、川端康成、三島由紀夫などの文学を読むとまずエキゾチシズムを感じてしまうが、太宰治の文学を読むと、作者が日本人であることなど忘れ、まるで自分のことが書かれているような切実な文学的感動にとらわれてしまうと口を揃えて語っている。 ー 166ページ(解説)

余談ですが。

私は一度読んだだけの本だと内容を95%ぐらい忘れてしまうという特殊能力があって笑(感想を書かなかった場合。だいたい三回読めば概要を記憶できる……)、この本も全くと言っていいほど内容を覚えていなかった。

何度も感動できるという意味で、ラッキーかもしれないけれど。

そういうわけで書いているこのnoteなのですが、書き始めてからもう一年。最近はミステリーよりも純文学に寄っているかな。

noteに記録するようになって、以前よりも本を読むのが楽しい。そのうち、「本」自体に対する考え方も書きたいと思ったりしています。

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