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数学と情緒

■岡潔『春宵十話』


著名な数学者であった岡潔の随筆集。数学者が書いた本を何冊か読んできたけれど、いずれも(おそらく世間一般的なイメージとは違って)言葉が簡潔でわかりやすいという点に感銘を受ける。頭の中がスッキリしているのかな、という印象だ。

岡潔の言葉は、とりわけわかりやすい。……というか、あまり数学者っぽくない。

記事タイトルにもあるように、岡潔という人は「情緒」を大切にしていた。日常生活、人間教育、そして数学にも通ずる「情緒」というもの。その思想が前面に出ている一方で、数学に関して細かいことはほとんど書かれていない(だからいかにも数学者らしい内容を期待すると少しガッカリするかもしれない)。

道義の根本は人の悲しみがわかるということにある。自他の別は数え年で五歳くらいからわかり始めるが、人の感情、特に悲しみの感情は一番わかりにくい。
(P.90)

・・・

それにしても「情緒」とは難しい言葉である。すこし前に『翻訳できない世界のことば』という絵本が流行ったが、「情緒」も翻訳が難しい言葉の一つだと思う。

和英辞典で「情緒」をひくと「emotion(感情)」「atmosphere(雰囲気)」と出るが、どうも言い足りない気がする。「情緒」は人間の「感情」そのものではないし、かといって周囲にある「雰囲気」だけでもない。

おそらく「情緒」には二つの用法があるのだろう。
一つは、人間の“ある”感情を引き起こす、物事の“ある”雰囲気。もう一つは、物事の“ある”雰囲気によって引き起こされる、人間の“ある”感情。

この“ある”の部分が「情緒」の肝だ。“ある”は、そもそも日本人にすら言語化できない。なぜなら“ある”の内容は、私たち日本人が暗黙の了解として知らず知らず共有してしまっているものだからだ。

岡潔は、この“ある”の内容理解と保持に努めなさい、と説く。物事に白黒つけたがりそうな数学者にしては珍しい感性だが、数学者という人たちは意外とこのような非言語の感性を重視しているのかもしれない。

・・・

この本で私が特に「いいな」と思った章が二つある。

一つは「好きな芸術家」。

岡は好きな文学者として「まず芥川、漱石、そして芭蕉」を挙げている。中でも夏目漱石に関する記述に私は共感した。

漱石の言葉を引用しながら、以下のように書かれている。

自分の小説は少なくとも諸君の家庭に悪趣味を持ちこむことだけはしない
 これを初めて読んだときは、平凡なことをいう人だと思っていたが、それがどんなに大切なことかがだんだんわかってきた。いまにして思えば全く堂々と豪語したものであるが、確かにそれだけのことはある。いまの文学者がこれだけのことをいい切れるだろうか。
(P.175)

これを読んで、ハッとした。「少なくとも諸君の家庭に悪趣味を持ちこむことだけはしない」──この覚悟が、夏目漱石を夏目漱石たらしめているものなのだ。そしてこれは、芸術においていかにも大切な感覚である。

言い換えれば漱石の作品には「品がある」ということだろう。

私は、悪趣味で品のない作品も読む。例えば江戸川乱歩の作品などは、悪趣味と形容詞してしまって差し支えないだろう。そうした文学を否定するつもりは全くないし、個人として好んでもいる。

けれど、夏目漱石が貫いてきたこの価値観を知れば、なるほど彼の文学がなぜ他と違うのか、その美しさの理由がよくわかった気がする。

吉村順三という建築家が、こんな言葉を遺している。

真に芸術的なものを一言で表現しようとすれば、「品」ということに尽きると思う。
(吉村順三『建築は詩―建築家・吉村順三のことば一〇〇』)

・・・

もう一つは「宗教について」。

 戦争がすんでみると、負けたけれども国は滅びなかった。その代わり、これまで死なばもろともと誓い合っていた日本人どうしが、われがちにと食糧の奪い合いを始め、人の心はすさみ果てた。私にはこれがどうしても見ていられなくなり、自分の研究に閉じこもるという逃避の仕方ができなくなって救いを求めるようになった。生きるに生きられず、死ぬに死ねないという気持だった。これが私が宗教の門に入った動機であった。
 戦争中を生き抜くためには理性だけで十分だったけれども、戦後を生き抜くためにはこれだけでは足りず、ぜひ宗教が必要だった。その状態はいまもなお続いている。宗教はある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う
(P.57)

この文章に、ものすごく納得してしまった。そう、そうなんだ。「宗教はある、ないの問題ではなく、いる、いらないの問題だと思う」──私がずっと抱いてきた違和感を見事に言語化してもらえた気分だった。

戦後の苦しさの中で自分が宗教に頼らざるをえなくなったこと。冷静に、客観的に分析する視点には、信頼できるものがある。

岡は「神がいる」と主張しているわけではない。宗教はあるとかないとかではないし、神がいるとかいないとかではない。ただその時点その人にとって必要かどうかだ。……ということだろう。

私が神の存在を肯定も否定もしないのは、これと同じ感覚だ。今の私にとって宗教は必要ではない。神に祈りたい時がない。けれど、宗教や神の存在が必要な人の気持ちも理解できる。必要な人にとって神はいるかもしれない、それでいいではないか?

また彼は、宗教の本質を以下のように述べている。

人の悲しみがわかること、そして自分もまた悲しいと感じることが宗教の本質ではなかろうか。キリストが「愛」といっているのもこのことだと思う。
(P.57)

深く頷かされる言葉だった。

宗教は共感力の強さに支えられている。「人の悲しみがわかる」という共感力が、強い団結力に繋がる。しかし団結力がやがて自他の強い区別へと発展し、その対立がさらなる悲しみを生む。

悲しい構造である。

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