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言葉が感覚をつくり、思考が加速する

「くらいよ」

青山のスパイラルを訪れた日のことだ。展示室の天井を指さして、1歳9ヶ月の娘が突然こんな言葉を発した。

「くらいよ」

彼女が「くらい」と言うのを、初めて聞いた。

「そうだね、暗いね!」

私はとても驚いたし、なぜだか、感情が揺さぶられた。

・・・

1歳半を過ぎたころから、娘の語彙は凄まじいスピードで増加している。この現象を一般的に「語彙爆発」と表現するようだが、実際に体験してみると「爆発」とは少し様子が違う。

「爆発」という単語は、大量に溜まった内容物が瞬時に/勢いよく溢れるさまを表す。

対して、今の娘の状況は、適切な言葉を見つけた瞬間に、その意味・感覚を自分の脳に定着させている……という感じだ。だから「爆発」という言葉がもつ、内→外への強い放出ではない。内⇔外と双方向のやり取りが行われ、バッチリはまったら、内=外になる。この「バッチリはまる」というのは「周囲の大人が意味を理解してくれる」タイミングだ。

さて、

「くらいよ」

という言葉を聞いて、私は何を感じたのだろう。説明がとても難しいのだけれど、謎を解明したくてこの文章を書いている。




──これまで彼女が発していた語彙を振り返ってみると、
「アンパンマン」
「パパ」「ママ」
「カバ」「キリン」
「ハート」
など、多くが名詞だった。

名詞以外では
「ばいばい」
「ただいま」
「おいしい」
「いただきます」
など、大人が発している定型的な挨拶を、仕草とともに真似している。そんな状況だった。

しかし「くらい」はどうだろう。

「暗い」という形容詞が対象とする物や状況は場合によって異なる。空が暗い、部屋が暗い、トンネルが暗い。等々。今回の場合はスパイラルという初めて訪れた場所だった。しかも、天井だけが暗い(=天井がとても高くて床付近の光が届かない)という特殊な状況だった。それを彼女は正確に「暗い」と表現できたのだ。

つまり彼女は、形や状況について一対一の対応関係ではなく、より普遍的な「暗い」という意味をいつの間にか理解していた。だから、名詞や挨拶よりも一段階高度な能力のように思えて、感銘を受けたのだろう。

・・・

それだけではない。

私が彼女の言葉を受けて「そうだね、暗いね」と反応したことにより、彼女は「くらい」という言葉が感覚の表現として適切であることを理解しただろう。つまり、先ほど書いた「バッチリはまる」という状況がここで起きたのだ。

彼女の内なる感覚が、言葉という外向きのツールと正確に結び付けられた瞬間だった。

内にある感覚と、
外へ向く(ツールとなる)言葉。
この両者は二つで一つだ。
言葉があるから感覚が現実のものとして定着し、
また、
感覚があるから言葉の意味が真に理解できる。

「暗い」という言葉を知った彼女はおそらく、以前に増して「暗い」という自分の感覚を深く理解することになるだろう。なぜなら、かつてはぼーっと体験することしかできなかった状況を、「暗い」という言葉を使って脳内で表現できるようになるからだ。

つまり、彼女は、これから思考できるようになるのだ。

そのような複雑な段階に彼女は1歳9ヶ月で到達した。これを人間の神秘と表現せずして何と呼べばよいだろう?

・・・

以前、ポール・オースター『孤独の発明』を読んで考えたことを思い出す。

しかし、自分の苦しみをとことん直視してもなお、ほとんどの人にとってこの文章は書けないだろう。最後の関門、それは──語彙と感性の圧倒的な欠如である。

オースターは苦痛を抱え、それを正面から直視して自らの中に抱えこみ、なおかつ「文章」という形で記すことができる人だった。彼の孤独や苦しみがここまでリアルに匂って届くのは、彼の果てしなく深い語彙、あるいは感性ゆえではないだろうか

「彼が抱える果てしなく深い孤独の語彙への嫉妬」

この時考えた「語彙」を、もっと原始的な次元で体感できた出来事だった。最近は本をほとんど読めていないが、代わりに外国語を勉強しているせいだろうか「言葉」に敏感になっている。




「くらいよ」事件は結局、なんだったのか。

娘が「暗い」の普遍的な意味を理解していることに対する、驚き。
感覚と言葉が結びつき、やがて思考が生まれるという過程の神秘についての、発見。

あと、たぶんもう一つ──

彼女はこの先どんどん言葉を覚え、どんどん思考し、どんどん知能を獲得していくのだろう。いずれ彼女は大人になって、物事を複雑に考えたり、悩んだり、感動したりするのだろう。誰かを好きになったり、嫌いになったり、特定の政党を支持したり、投資で資産を増やしたりするのかもしれない。その予感に直面して私は嬉しいのか、悲しいのか。わからない。

この場合に適切な単語は「寂しい」 かもしれない。



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