実写版「美女と野獣」の話

実写版「美女と野獣」のDVDがもうすぐ発売ということで、今さらながら映画の感想です(ネタバレどころかシーンの細部まで話しているので、気になる方は注意を…)。

今回の映画の感想、というよりは実写版を経て得た洞察を加えて改めて「美女と野獣」について考えた、というかんじです。

率直に本当に素晴らしい実写化だったと思います。映像の美しさ、実写ならではの細かい造形、フランス的な繊細な美しさ、どれをとってもですが、やはりストーリーの細部にその凄さの真髄があると思います。

主人公ベルはみんなが認める町で一番の美女です。ベルという名前がすでに「美女」という意味なくらいです。しかし大の読書好き、さらに夢見がちで、変わり者の父がいる。そのことから町の人たちから変人だと言われています。読書好きであることに肯定的な反応をしているのは見る限り本屋のおじさんと父だけなんですね。しかも本屋さんはたずねてきたベルに「新しい本はまだないよ」と言ってるんです。もちろん時代背景や、前の本をすぐに読み切ったベルの表現でもあるのでしょうが、この町でこんなに本を心待ちにしているのはベルくらいなのではと推測できます。

そして彼女は、小説に登場する王子さまに憧れています。以下はそこで流れる歌の一節ですが、
Here's where she meets prince charming
But she won't discover that it's him
Till chapter Three
(気づかないのよ 王子さまが彼だってことに)
という歌詞があります(この歌詞から本はシンデレラと思われる)。ここで大切なのはベルがお金や名声、かっこよさから王子に憧れているわけではないというところです。
その証拠に、町で一番のいい男で一番強いガストンに結婚しようとせまられても冗談じゃないと嫌がっています。
ガストンは変人と言われているベルを認めるわけではなく、美しいという理由だけで結婚を迫っています。戦争の英雄で残虐、みんなを従えたがる、自身の美しさにも自信を持つナルシストです。実写版のガストンは驚くほどガストンそのものでした。苛立ったときに落ち着こう、楽しいことを考えようと言って未亡人をあげるシーンは実写ならではの残虐さの表現と言えます。
こんな風に書くとガストンは随分ひどい男で、結婚を断るのは当然のようにも見えますね笑 時代の問題でしょうか。とかく、ベル以外の町の女の子たちはみんなガストンに夢中なのです。後半、ガストンの号令で町民たちが行動することからもわかるように、戦争の英雄である彼は女性以外からも絶大な人気を誇っています。

さて話を戻しますが、ベルが求めているのは「自由」「思いがけない展開」なのです。出会った魅力的な男性が実は王子様だった!しかも物語の中盤まで全く気づかなかった!そんなわくわくする展開です。先ほどの曲には「小さな町」「いつもと同じ朝」というようなフレーズが何度も出てきます。ベルは小さな町ではなく広い世界を自由に旅し、いつもと違う新しいものに出会いたいのです。

一方で、野獣はベルに城の広い図書室を見せ、全部あげようと言う。まさにここがベルが野獣に心を開きはじめるシーンなのです。もちろんこれだけでは知性や、ガストンにもまさる財産に惹かれているだけではないか?とも思えます。たしかに本を投げすてるガストンよりは、野獣は知性的でしょう。しかし実写版の野獣は書くことが苦手であるとされているし、知性的と言い切るのは難しそうです。ガストンと対照的に描く、ベルと趣味が合う描写という点では効果的と言えそうですが。

そこで、ベルが求めているものを明らかに表しているシーンがあります。ベルと野獣が打ち解け、ダンスをするシーンの後です。アニメ版から既に有名な名シーンですし、実写版もそれに負けず劣らず素晴らしく美しいシーンです。このままベルと野獣は結ばれるのだと誰もが思う。
しかしそこで野獣に「ずっとここにいてほしい」と告白されたベルは「でもここには自由がないわ」と言う。そう、「自由」です。広い世界、新しい出会い。それがベルの欲しいものでした。

そして(私はここがこの物語の一番感動的なところなのではないかと思っているのですが)、直後父のピンチを知り、助けに行きたいというベルを野獣は完全に自由にするんです。
それまでの野獣は彼女を捕虜のように扱おうとしたり、食事に呼ぶにも命令したり、彼女に自由を許していませんでした。最初は、繋ぎとめなければ醜い自分に近づくものなどいないだろうという恐怖があったでしょう。ベルに好意を抱いてから少しずつ改善はされていきますが、完全に自由にしてしまえば彼女は戻ってこないかもしれないという不安は拭えません。さらに、もうバラの枚数が少なく(バラが散るまでに誰かに愛してもらえなければ永久に人間に戻れない)、彼女を逃せば人間に戻るチャンスは永久に失われるというタイミングです。そのタイミングで、彼は戻ってこいとも言わず、ベルを自由にする。実写版で新たに作られた野獣の歌はあまりにも切ない。彼女に出会い、野獣はこんな醜い獣にも愛情をかけてくれる人がいることを知ったのです。もしベルがここを去っても、彼女が野獣の醜さを理由に去るわけではないのだとわかっているから、そして愛しているからこそ彼女を自由にする。彼は永久に彼女の帰りを待つのです。帰ってくると言う約束はない。だから「永久に(evermore)」。
そしてこの行為こそ、彼女が野獣を本当に愛する決め手となったのではないかと思うのです。野獣が彼女に「自由」を与えたということです。

実写版では別に新たなシーンも描かれています。ダンスのシーンよりも前ですが、野獣の持つ魔法の本で、少しの間だけベルを好きな場所に連れていくのです。冒険を望む彼女にぴったりのプレゼントと言えるでしょう。ここからも、野獣が彼女の冒険心を肯定していることが伺えます(この時点では自分の元を去るという不安もありきですが)。

また、このシーンではベルと両親の関係に触れています。ここでベルが向かうのは、彼女が生まれた大きな町です。父はベルのことを愛していながらも、小さなつまらない町に住んでいます。そして、母のことには触れない。その謎がここで明かされるのです。感染病にかかって死んでしまった母のことが伺えるかつての我が家。父はベルを同じ目には遭わせまいと小さな町に越してきたのでしょう。実写版のベルの父はオルゴール職人です。細部まで丁寧に美しく作り上げられたこの小さな箱は、小さな町で大切に大切に育てられるベルへの愛情を思わせます。

さて、物語の終わりです。父を助けに町へ戻ったベルは、ガストンたちが野獣を倒しにいくのを止めようとし、とうとう野獣の元に戻ります。間違いなく自分の意思で。
そして今度は、はっきりと彼を愛して。

ここまでの野獣とベルの思いを考えると、最後のシーンの感動もひとしおです。

実写版「美女と野獣」はディズニーアニメのファンとして、イメージ通りのキャラクターや映像にとても感動しました。ガストンなんて本当にそのものだし、町の作り、野獣の姿、そしてベルのあの黄色いドレス!夢にみたものが現実に浮かぶ興奮は、それがアニメ版に忠実であることを示していると思います。
しかし一方で、ここまでに書いた通りアニメ版では見られなかった新たなシーンや表現は物語にさらなる深みを与えたものになっていました。そしてそのどれもが、実写ならではのものです。実写だからこそ効果的であり、そして実写版そのものを面白くするもの。
未亡人が好きなガストンはアニメのキャラクターとしては怖すぎますが、実写となると戦争が大好き、奪うことが大好きな彼にこれ以上なくぴったりな設定です。ベルの父母の過去もアニメで描けば重くなりすぎて、コミカルで愛さずにいられない父のキャラクターが失われてしまいますが、実写版では家族の愛をしっかり感じられる素晴らしい内容になっています。

最近、漫画やアニメの実写化に反対する意見が多くあります。かくいう私も、既存のものがある以上、それを超えるのは難しいだろうと思うことが多いです。
しかし、こんな風にメディアが変わることで新しく、かつ物語を深める表現が出てくるのなら、許せるどころではなく大好きな映画になるのだなと感じています。
こんな風な実写化(あるいはアニメ・漫画・小説化)がたくさんでてくるといいなぁと思っています。

余談
美女と野獣のエマ・ワトソンはまだハーマイオニーが抜けきっていないという感想をいくつか見たんですが、演技的な話ならともかく、そもそもベルとハーマイオニーとはとても似たキャラクターだなと感じました。そしてさらに言えば、エマ・ワトソン本人とも。
知性的で、自立していて、見た目や名声で差別をしない。
とても魅力的な女性達だなぁと思います。
(ハーマイオニーが差別的でないという点について補足をすると、彼女には魔法界の動物や屋敷しもべ妖精の地位向上を目指す運動をする描写があります。
ハリーポッターシリーズも実写映画が素晴らしい作品のひとつですが、小説、本当に面白いです!映画だけの方、ぜひ!!!)

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