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ちんちんがえろまんを読みました。
えろまんを読みました。
『えろまん エロスでよみとく万葉集』(大塚ひかり 新潮社 2019)
読んだ理由ですが、私はちんちんなのですが、ちんちんなので「ちんちん短歌」を詠もうと日々努力し、女の子を無料で抱こうとし、悲しまれる、といった日々を過ごしています。
で、ちんちん短歌――「ちんちんという語を読み込んだ短歌」を作るにあたり、先行作品はどんなものがあるだろうかと思い、たぶん万葉集にはあるんじゃないかと思い、「エロスでよみとく万葉集」という惹句に惹かれて、図書館で借りて読んだのでした。
内容ですが、古典の研究者である著者が、「異常に多いエロ歌、恋歌」「万葉時代の恋の制約」「今と変わらぬ恋心」「今と昔を結ぶ糸」という部門テーマで、万葉の歌からおもしろい歌をピックアップしている、という感じの本です。
歌の紹介を通じて、
・万葉集はそんなに硬いもんじゃないですよー。
・エロだけでなく、今から考えると猥雑な内容も歌われ、それが現在で言うところのツイッターにも似ているんですね。
・歌われるものから察するに、当時は女性の立場が比較的強かったんですよ。特に恋愛やエロにおいて母の権限がつよかった。
・人妻とセックスしちゃいけないというのは海外から持ち込まれた新概念。
・万葉人やたら死にたい死にたい言う。
・老いらくの恋が笑われたりしつつさかんに歌われたりしてた。
ということがわかった。わかったなあ。
著者に紹介されてて面白かった短歌だと、
・金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
(第9 1739番 高橋虫麻呂)
・通るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣我れ下に着り
(第7 1091番 よみひとしらず)
・かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ地にあらましを
(第11 2693番 よみひとしらず)
・妹が寝る床のあたりに岩ぐくる水にもがもよ入りて寝まくも
(第14 3554番 よみひとしらず)
「金門にし~」は、その前に長歌があって反歌としてまとめられているんだけど、「玄関に男が来たら夜中でもすぐに出てきてどうにでもセックス」みたいな感じで、会えばやれる女の子のことを歌っていて面白かった。著書が万葉集一推しのエロ短歌だそうだ。
この歌は当時有名な遊女を歌ったものであり、遊女(あそびめ)は芸能人並みの知名度のある存在だったらしく、歌に歌われるほどの尊敬のまなざしがあったと指摘する。(とはいえ研究ではこの歌に歌われている女性(珠名さん!)は千葉県在住のただのエロい女である可能性もあるとかないとか)。
「通るべく~」は「通り雨さっさと過ぎろ恋人のパンツ履いてる 濡らしたくない」みたいな短歌。恋人とパンツを交換する儀式が当時あったみたいで、別に変態じゃないとは著者の解説。でも恋人のパンツを履きながら、避けられない雨の中いるってシチュエーションは確かに熱いものを感じる。
「かくばかりか~」は「こんな無駄な恋するよりもあの人が毎日踏んでる土になりたい」てな感じで、わかりやすく、ストレートに、踏まれて土になりたいというのを歌っているなあと思った。
わし、意外とどストレートな性癖なので、別に踏まれたい気持ちはわからない。わからないけど、「僕、むだな恋愛するより、女にずっと踏まれる土になりたいんですよね」と真剣にちゃんと言ってくれてる感じがして、ものすごく、好感度がいいと思った。
「妹が寝る~」は「君が寝る床のあたりの岩間から出る水となり一緒に寝たい」という、自分が水になって布団に染み込んで眠りたいという高度な変態がモロに、これもストレートに性癖をただ歌っていて、すごいなあと思いました。
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で、読んで気づいたのですが、「あ、万葉のエロと、僕が思ってるエロってちょっと違う」と思ったのでした。
なんかこう、万葉集で歌われている(この著者が選んだ)エロの短歌が、どうにも僕には「モロ」に思えたなあと。
性癖はたしかにねじくれているひとが結構いた。しかしそれを隠さず「僕は、好きな人が寝ているあたりの岩になって、岩の間から染み出てくる清水になって、寝床に染み込むみたいな感じに、寝たいです!」と、きれいな目をして告白されている感じがするのだった。
きっと『えろまん』の著者は、こういうストレートな感情の吐露を美しく思い、また古代の人々の雑多なかつ未整理な感情や情感を素敵に思っているんだろうなあと。
でも僕は、「あ、なんか違うかもなあ」と。性癖をストレートに言って、嫌われない時代。そんな空気の中のエロって、僕にはそんなにエロじゃないかもなあ。
こう、「クラスの中で足早い人グループ」のノリを、ちょっと感じてしまうのだ。短歌……和歌は、漢籍がメインカルチャーだとすれば和歌はローカルカルチャー、サブカルであったんだろう。
で、サブカルで、飾り気のないストレートな感情をそのまま歌い上げるって、それはaiko……というより、西野カナだったんじゃないかな。
覚えたてのカルチャーに触れて、自分の中の気持ちの揺らぎをどストレートに表現し、エロい気持ちも隠さず、あけっぴろげに「セックスしたいんだよねー」「やらせてくれる女がいて超おっぱいでかいんだよー」「恋人とパンツ交換中だから雨降ってほしくないんだよねー」みたいなことをいわれちゃうと、こう……「教室の端で自作カードゲーム作って一人で対戦していた勢」としては、困っちゃう。
まんますぎるだろ。モロすぎるだろ、と。
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いや、こういう短歌も紹介されていた。
・妹と言はばなめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも
(第12 2915番 よみひとしらず)
「カノジョって言うなんてそんなだめだって そりゃあ口にはしてみたいけど」と、童貞度の高い短歌もある。
あるけど、こういうことを仲間内で、ストレートに口にできる感じって、やっぱり「足早いグループ」の感じするなあ。
リアル童貞はそんなこと言えないのだ。
そんなことを口にできたり、歌にできたりする時点で、クラスの中で足早い人グループとして権勢を誇る勢力に見えて仕方ない。
なんていうか、天然がよろこばれる感じというか。
「天然」って――「万葉集」みたいな素朴さって、すごくわかりやすいし伝わるし、愛されるんだよなあ。
「天才」は喜ばれるけど、「秀才」は疎まれ、馬鹿にされ、ランドセルを隠される。「わざとだよ」は叩かれる。それが悲しい。
万葉集は、古代の中で「初めてカルチャーに触れたクラスの中で足早いグループの人が、生き生きと、人の目を気にしないで感情を爆発させている感じ」に思えたのだった。そう、観客の視線――というか、世間様の視線、クラスの中心の人からくる、刺すような視線。それが、万葉集にはない。現代では、小学一年生の教室にすら、それがあるのに。
「こんなこと言ったら、変な風に思われるんじゃないだろうか?」という葛藤を感じないなと、この著者の紹介する万葉の歌たちを読んで、そう思ったのだった。
その葛藤――「世間や読者がどう思うかどうか」をめっちゃ意識しつつ、それでもあえて、「性」を歌い、「愛」とか「性癖」とか歌う短歌を、僕はエロいと思うんだろうなと思った。
だから、僕が今のところ一番エロい短歌だなーと思うのは、ぐっと時代が下って与謝野晶子の短歌だよなあ。
・あなかしこ楊貴妃のごと斬られむと思ひたちしは十五の少女
・傘さして去にたる人を憎みけりその雪の傘うつくしきため
・きさらぎの雨となるともきさらぎの雪となるとも寝てあり給へ
・第一の美女に月ふれ千人の姫に星ふれ牡丹饗せむ
・なまめきて散るかと思ふ春の雪われのやうなる掌より
……と、ネットで少し検索してヒットした、与謝野晶子の短歌だけど、僕にとって与謝野晶子の歌のほうが、万葉のモロエロ短歌より、さらにエロいと思った。万葉の歌人とは、ひとつ次元の違うかんじ……。
それは、与謝野晶子は常に人の目にさらされていて、本心を隠しながら本心をさらけ出して短歌作ってたからだと思うんですよ。
その時におこる、観客と作者の自意識と、観客との視線の、そのはざまで起こるワードチョイスを、詩って言うんじゃないかなあ。
万葉集には、観客がいないとおもったのだ。
読者がいない。読者を、万葉のよみ人たちは、想定していない。自分の詩が他人に、時を超えてこうして読まれるなんて思いもしていない。
ただ、自分の気持ちとのみ向き合い、それを「57577のリズムにまとめると面白い」という最新ポップカルチャー様式に乗せて楽しんで作ってる感じがした。
そこに、「クラスの中で足早いグループ」の、楽しそうにしてるけど、なんか恥ずかしくて、そこにノレない感じを受けてしまったんだよなあ。
だから、僕の作る短歌って、常に人の目を気にし、読者を想定し、そのうえで、何かやんなきゃなあと思ってるのかもしれないなあと、万葉の楽しい歌歌を紹介されるこの本を読んで思ったのでした。
著者の伝えたい万葉集の魅力とは違うところに僕は着地してしまったけど、読書感想文としてはそんな感じっす。
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あ! あと、『えろまん』で期待していたのは、万葉集にも「ちんちん」を直接歌うものがあったのか知りたかったという事だったんだが、ちんちんの歌は紹介されていなかった。
まんこだったら、
・我が宿の毛桃の下に月夜さし下心よしうたてこのころ
(第10 1889番 よみひとしらず)
が紹介されていて、まんこは「毛桃」と表現されていたらしい。「意味的には、解釈が2つあるらしく、初潮を歌ったもの説と初ちんちん入れられセックス説があるらしい。「うちの家のまんこに月が差してきて うれしいのかもしれないけれど」って感じかなあ。
「まんこ≒毛桃」を歌ったものは数首ある様子だけど、ちんちんは、ないのかなあ。知り合いの日本文学研究者には「2首くらいあったはず」と言われたのだが……。
僕の出した同人誌『ちんちん短歌』の中のコラムで「ちんちんやまんこ、パンティーやうんこ、しっこは、短歌の世界で歌われていない。これらは無視された領域だったんじゃないか」と書いてしまったけど、この『えろまん』を読んでそれはあやまりで、僕の勉強不足だったことにあらためて気づいた。
万葉集ではまんこや、パンツ交換、変態プレイ、うんこは歌われていたんだなあ。(あとがきで糞や尿を歌った短歌もあると紹介されている)。
だが、かんじんのちんちんは歌われていたのかどうかはいまだ不明だ。
引き続き勉強を進めて、ちんちんが歌われているとすればどんな風にか。あるいは、万葉以降でもちんちんが歌われたことはあるのか。近現代短歌における「ちんちん」使用はどんな風な歴史があったのか、どんなニュアンスなのか。
知りたいので、引き続きちんちん勉強を続けたいです。
ちんちん短歌の勉強を、続けたいのです。
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