ちんちんと正面から向き合うのなら、わたしを真っ二つにし、あっち、社会の方へして、対面させないといかんか。
先日、文学フリマ東京35に参加し、ちんちん短歌同人誌『ちんちん短歌』の増刷したものを、2冊残してほぼ完売。48冊のちんちんが飛び立った。ありがたかったなあ……。入手していただいた皆さん、ありがとうございました。ちんちんです。ちんちんでした。
文学フリマに参加して以来、手とっていただいた枚数では最大だった。参加した実感としては「今までと違って、会場に人が途絶えない」と実感した。今までは凪の時間が存在して、そういう間にお隣さんとお話したり、呆然としたり、ちんちんを想ったりする時間があったのですが、今回は絶え間なく、ちんちんに立ち止まっていただき、手に取っていただけた印象。ありがたいことです。
この来場者数の充実は、文学フリマが継続してイベントを継続し、参加者・来場者を増やしていった結果だと思った。
文フリが終わって帰宅して翌日、あらためて売れ残った『ちんちん短歌』を読み返す。そもそもこの同人誌は2020年にキンコーズで冊子印刷したものが初版で、30部作ったもの。当時から2年が経過している。
ふと、
「これは、今だったらそうは書かないだろうな」
そう思った箇所が出てきた。
昨日の今日で売っておいて、今気づくなよ、という話ですが、例えばこの序文のつもりで書いたコラムの一部。
この、「なじられた」と言う部分。今だったらこうは書かないかもなと思ったり。これ、自虐ネタのようでいて、結局男性である自分を「被害者」っぽく、演出してないか?
つまり、
「ちんちん短歌を作っているボクは被害者男性です。やー僕は年下の女性になじられている生活をしていたんですよ。いかがでしょうか。面白いですね。僕は駄目な人なんです。女性は強いなあ、まいっちゃうなあ」
みたいな風に読み取れる。
これは、今だったら、ださいなあと思うのだ。
時代の変化とともに、ちんちん短歌を作ることで自分自身の考え方も変わっていったのだと思う。特に、ちんちん短歌は、露骨に性を扱っていることが多い。そして性をめぐる考え方は、この2年でも大きく変化した。たった2年でもだ。
ちんちん短歌は、特にそのあたりを気をつけなきゃいけないよなあと思う。ちんちんがちんちんであることに居直っちゃいけない。警戒しなければ。常に考えないと。「男性の自虐で女性を加害者っぽく見せて笑いを取る」というのは、今となっては、それはださい。そのへんの空気に敏感でないと、ちんちんと向き合うことにならない。
こうして考えがなんかどんどん変わる。
過去に作った本が他者になっていく。その他者を、作った人だからと言って、今の自分が、変えていいのか。
たとえば次、この本を増刷する機会があったら、修正していいものなのかどうか。
今、現在、そう考えたからといって、同人誌……書籍、本って、当時に書かれたものを、ただ修正をして、消して、表現を改めていいものなのかどうか。
こんな風に考えているうちに、ちんちんとの向き合い方も変わった。
ちんちんを見ること、触わることは、個人的な事だったが、短歌として扱っているうちに、社会にどうちんちんを見せていこうと考えているのか、考えるようになった。今問われているのは、そういう、ちんちんとの向き合い方の変化なのではないのか。
そうか、おれ、本当にちんちんと向き合ってたのか。短歌を作ることで。そして見せることで。「文学」を、やることで。
向き合わざるを得なくなるんだな、と、本を作って、手渡すという儀を終えて、そう思った。
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