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小説 ちんちん短歌 第21話 『うんこちんちん』

 建はうなだれながら、ちんちんを見た。
 真っ白なはずのちんちんが、茶色だった。
 それはうんこだった。

 川渡しのねぐらにはトイレがない。なのでうんこは普通に外でするのだが、川渡しの男たちは皆、もう疲労と寒さで頭がおかしくなっていた。うんこのために、というか、わざわざ自分の身のために外に行くのも煩わしくなり、寝ながらうんこをする者が後を絶たなかった。
 だからねぐらの床はうんことゲロにまみれていた。寝れば寝るほど、その体に、ごろごろするたびに、ちんちんに、うんこが付いていく。

「け、建さん……」
 いつの間にか建の名前を知っていたオクワが、どうしたらいいか、なんとなくねぐらから出てきた。オクワの肌を「青白い」と言ったが、改めて陽の光の中で見ると、全然茶色い。全体的に汚い。小さい。
 
 建は、タン、と、足を踏み鳴らした。背筋を伸ばす。4尺4寸4分 (168.2cm)の背は、この時代の人間にしては高い方だ。

 まず、服を着よう。そして、うんこちんちんをやめよう。そう思った建。   
 まだ仕事の始まっていない大偉川に向かい、飛び込む。

「建さん……?」
 ぼんやりと後からオクワもついてくる。
 冬の川の水の身を切るような冷たさには、もう感覚がマヒしていた。というか、その寒さを、肌の表面に張り付いたうんこが若干カバーしてくれていたみたいだ。しかし建はそこらに生えていたガマ(蒲)の穂を抜き取り、水に浸しながらその体をぬぐう。ちんちんも、きれいにぬぐう。

「……建」

 オクワは何か助けようとする雰囲気をだすが、何をしたらいいかわからず、ただふよふよしている。
 一方建はひたすらガマ穂を抜き取り、肌を削る様にする。
 清めていた。
 清めれば清めるほど、寒さ、傷み、ひもじさが、ガツンと体に直接やってくる気がする。

「建さ……建。……ムシオは、大丈夫だろうか……」

 そんなこと建が知るはずがない事は、少し考えれば分かるはずだった。
 だがオクワにはそんな想像力はなかった。ただ、不安な気持ちを口から出したかっただけの、自分の事しか考えてない言葉が垂れ流れた。
 やがて清め切った建は陸に上がる。
「……刑場ってさ、どこにあるの。あるんでしょ、そういうの」
 建はオクワに聞く。
 その声は、オクワを硬直させた。
 昨日までと違う人だ、と思った。自分とは違う生き物だ、と。
 建はただ、肌にうんこまみれではなく、清潔で、背筋が伸び、通る声を出しただけに過ぎない。
 でも、オクワには、一生できない立ち方、声の出し方だと思ってしまった。
「オクワさん。あれかな、刑場って……オヤカタのところかな」
 オクワは、やっと役に立つことができるタイミングだと思った。
 建よりは川渡し生活が長い。だから、時々川渡しが罰を受けたり処刑される刑場の場所を知っている。
 刑場は、オヤカタの住居とは違う、まったく反対の、ミヤコガタの、岸の、向こうの、岸の、奥の、道の、穴の……。
 事実そこに、ムシオは引かれていった。
 
「オクワさん……ちょっと行ってくるね。みんなには、よろしく伝えておいて」
 オクワが何も答えないので、建は息を吐くと、一気に吸い、全裸で、全身の筋肉を震わせて、飛ぶようにオヤカタの住居の方面――刑場とは全く反対側へ走って行った。
 服を返還してもらいつつ、死ぬことになったムシオを救おうとして。

 オクワは、何も役に立てなかった。
 刑場の場所を教える言葉が出てこなかった。重大な事を言葉で伝える事が出来なかった。ただ、被害者面をして、ずーっとそうして、ただ居ただけだった。ただ生きていた。
 こうやって今日も、生きる事を選んでいた。
 今日も役に立てなかった。昨日も役に立てなかった。
 そして、建から託された「みんなに、よろしく伝えて」も、多分オクワは遂行できない。

 なぜならオクワは、自分の事――ムシオを救いたいけど自分には何もできないなあという逡巡――で頭がいっぱいで、人の話を全く聞いておらず、何を言われたか全くわからなかったから。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 走る、建。
 全裸の足が交差するたびに、ちんちんが器用に腿の反対側に振れ、その左右の動きの機敏さに励まされる。
 ちんちんが生きている。
 そう感じた。そう、感じたんだ、建。

 やがて、オヤカタの邸宅――といっても、高床式の、大きな、しかし、ほんとう、これはー……弥生なの? みたいな、改めてみると質素なコンテナみたいな建物だ。建が川に流されてきた建が治療を受けたのもここだ。その玄関口に立つ。
 オヤカタの母親らしき老婦人が入口にあらわれ、アラどうしましょうアラアラなんか川渡しさんネすっぽんぽん、と、ぼんやりマダム感で対応しようとしたが、建は手で制する。
 すると、奥から何か空気を察したか、麻の貫頭衣をひっかけた、無冠で太糸目のオヤカタがふらり、ふらありと、高床に立てかけられた木を削っただけの細っそい階段を下りてくる。

「なん――」
「火急の用事にて前段口上の略することをお許しください」
「許さない。ちゃんと言え」
 全裸の建は蹲踞し、手を広げて、武器を何も持たない事を示していた。
 一方、オヤカタは麻の衣服の袖に両手を入れ、身を縮こませながら階段の最下段まで降りてくる。
 武器を持っているのかもしれない。
 そして、一歩、二歩、と容赦なく近づいてくる。

「いいかい若い人。そのほうが結果早いんだよ。それが仕事するうえでの信用なんだよ。火急でも手続きを踏むのが、組織なんだよ。知っときなさい」

 三歩。
 あと二歩もあれば蹲踞する全裸の建のそっ首をのぞき込める距離感になる。
 そしてオヤカタが短刀を持っていたら、建は頭を切りつけられて、死ぬだろう。そんな距離。

「……私は、大納言・大伴旅人が三子・執金吾、大伴家持に従います衛門衆の……」
「ああ、大伴卿の。そういうことはさあ、ちゃんと言っておこうよ。事前にさあ……何、底辺扱いしちゃったじゃない、もー」
 オヤカタは袖から手を抜く。やっぱり武器、というか、刃物というか、黒曜石を割った石剃刀を右手に持っていた。

「……自分は、公孫、建、と、申し……ます」
 で、それで、オヤカタは、自分の髭を、剃る。
 建はペースを乱され、まともな仁義切りもできない。本当、これは、名乗りとしては一番だめな例。

「それで何?」
 建にはオヤカタがまだよくわからない。だが、やろうとすれば、オヤカタは黒曜石のカミソリで、建の頭をかち割ることが十分にできる立ち位置でいた。

「ムシオっていう、川渡しの男の、……あの、大きくて臭い、うんこの匂いがする……」
「なんて? うんこ?」
「何故、……死ななければ、ならないのですか、っていう……それを、うかがい、たく」
 焦る健。
 別に、ムシオがなんで死ぬのかとかそういうのは、いい、いいから、とにかく引っ張られていったムシオを、殺さないで欲しい。死なさないで欲しい、というのを、この人に、言うって言うのは、あれ? なんか、筋違い、か? って言うか……。
 言葉がまとまらない。
 ここに来るという事、というか、何かアクションを起こしたいという事だけに精一杯で、何も考えてなかったのだ。
 普段、短歌だなんだ、言葉に注力しているのに、なんでこんなに言葉が出てこないんだろう。建は昨日のオクワのように顔が下がっていく。

「頭をあげな」
 オヤカタが太い声を出す。
 建、見上げる。
「死なせたくないんでしょ。……よくわかんないんだけどさあ。その? 川渡しのムシオ? が? 死ぬかもみたいな話でしょ? だったらサァ、何でまず目の前のおれを殺そうとか、思わないのよ、一瞬でも」
「それは」
「直で助けに行っても無理っぽいから、ここのボスの所に直談判して何とかしようとか思ったわけでしょ?
 それってさ、拒否する俺を殺す可能性だって考えておかなきゃだめなんじゃないの? なーんで武器の一つくらい、ちんちんの裏だの尻の穴の中だの用意しておかないんだよ。俺、わりと今、ノコノコ出てきたんだよ?」
 まったくそのとおりで、ぐうの音も出ない。
「向いてないねどうも。いろんなこと。……おれもあんたも」
 オヤカタが腕をだらんとさせる。
 その右手の黒曜石の石カミソリが、建の見上げた額に刺さる。

「おおよそ男子が命がけで他の者の命救いたいって大義にお前、何の準備もせぬていか。
 何の覚悟も、何の言葉も、何の殺意も、ないってか」

 笑いながらオヤカタ、黒曜石の尖ったところで、建の額をぐりぐりする。されて建、当然、血が出る。
 正直、覚悟だの殺意だのは全然ピンときてなかったけど、「何の言葉も準備しなかったのか」という指摘は、刺さった。
 刺されるべきだ。これは、刺されるべきだ。
 言葉の人間が、何の言葉も持たず、なにかヒーロー気取ってダッシュしてきて、恥ずかしい。

 その時。
 乾いた空に絶叫が響いた。あーっ、ていう。
 ムシオの声だ。
 それは川の向こう側、ミヤコガタの、岸の、向こうの、岸の、奥の、道の、穴から……冬の空気に乗ってこの二人の耳に届いた。
「そういえば、刑場で一人、郡司に奉じる罪人の処断が、今日だったねえ」

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 建はオヤカタに自身の服の返還を求めた。持てあまされてたっぽいアフリカンパンツはすぐに返還されたが、上半身の韓服は太夫にやってるので、とりま、これを着たらどよ、とオヤカタ自身の着物を取り出す。

「俺、こう見えて従八位の行夜督郎やってんよ」
 浅縹(あさはなだ)色。あわい藍色の、下級ではあるが混ざり物のない麻の朝服。
 建はそれを借りて纏う。袴は洗濯中だったので借りなかった。

 だから、まくれる。

 少しでも正しい姿勢からずれると、尻が丸出しになり、群青のアフリカンパンツが見え隠れする。しかし、いい感じだ。
 建、礼をする。
 オヤカタ、どうでもいい顔をする。

 そのどうでもよいという態度に、建は感謝した。本当にありがたい。
 や、オヤカタがまともなコミュニケーターだったら「や、結局服返す、でいいの? それでムシオってやつを救えるの? なに? 俺も刑場いって、やめろーとかいった方がいいんじゃないの?」とか言い出し、面倒くさいことになってただろう。

 いま、そういう正論言われたら、壊れるだろうなと思ったんだ、建。

 それをいろいろ察したオヤカタが、建とコミュニケーションをしようとせず、無関心でいてくれたのだ。
 情熱を持ってくれなくて、何の関心も持たないでいてくれて、心を動かしてくれなくて本当、ありがたい。俺も逆の立場になったらこうありたい。
 建は今、ものすごく、効率が悪いことをしているのかもしれない。
 でも、それを他人が指摘しないでくれて、無関心でいれてくれて、なんていうか、本当に助かる。俺も今度逆の立場になったら、他人にこうやって無関心をしてあげたい。

 それが、すごく、やさしい。

・・・・・・・・・・・・・

 時刻は昼やや手前。
 刑場に建。急行する。
 行ってどうするか。相変わらずわからない。でも行く。体を動かす。

 ムシオの処刑が始まっているはずだった。処刑って、拷問でもない限り、一瞬で終わるんじゃないのか。
 でも、なんか、儀式とか、死ぬ前インタビューの記録取りとかあるかもしれないじゃないか。その時、何か、何かできれば、ムシオは。ムシオは……助かるのか? 助けられるのか? 

 下袴を穿いてないため、上衣をまくって川を横断する。ただ渡るだけなら慣れたものだった。アフリカンパンツはぐっしょりと濡れるが、しかし素材がいいのか、良く水をはじく。パンツ、パーンッって感じで、大偉川の水を跳ね返す。
 そして、オヤカタから聞いた刑場の場所っぽい細道を行くと、明らかに作業終りの空気の人のバラバラ解散的な流れとすれ違いがあって。

 刑場と言っても、大きな岩場にちょっとした横穴があり、そこを川渡し男連の懲罰場所や処刑場所に使っていたのだった。

 既に掃除すらも終わろうとしていた。

 ムシオの遺体は、建が到着したときにはもう大偉川に捨てられていた。粛々と刑は執行されたっぽい。

 おそらくムシオの首が入ってるだろう首桶が、わりと人の動線になってる雑なところにポツンと床に――床かよ――床に置かれてあり、きっと、偉い人の検分すらも終わったんだろう。

 仕事が早いな、と思った。

 ムシオは死んでいた。
 刑死した。

 太夫たちに運ばれ、待たせていた郡司たちの目の前で、ムシオは何度も首に鉈や斧で殴られ、ついには首を切られた。
 郡司が流れ作業で検分し、原告の高橋氏の仲人に報告し機嫌を伺い、司法的にはこれで手打ちって事になり、はい終り的シャンシャンを郡司、高橋氏仲人、現場監督の太夫の3人でやり、その場で解散。
 今さっきすれ違った集団、あれーが、郡司の手先たちなのだろう。

 建はムシオを救う事は出来なかった。
 ただ、着替えて、刑場に来ただけの人だった。 
 今もぼんやり立っている。

 何もかも手遅れで、何をしにきたかわからない、建。

 オヤカタの所でもたついたのがいけなかったのか。いや、オヤカタの所に向かわず、刑場に直行したとしても、どうだったか。
 突然全裸の川渡しが死刑中止を訴えてやってきても、太夫たちに棒で殴られて終りだっただろうし。だから、オヤカタに一回直談判し服の返還を求めるのは、間違ってない。間違ってなかったはずだ。

 でもだめだった。
 間違ってない方法を取ったからと言って、成功するわけじやないんだ。正しい方法をとったってだめだ。間違った方法を取ったら間違えるだけ。
 正解はなかったんだ。どうあがいてもだめだったんだ。止められなかったんだ。最初から。ずっとそう。生まれてきてからずっとこんな感じだったから、今さらだ。日常じゃん。

 だから、別にいいじゃん、とも思い始めた。別にムシオとは親しいわけではない。なんとなく短歌の話をしただけ。そして、短歌を作るところを見てた。ずっとずっと、ちんちん丸出しで短歌を作っていた。それを見てた。それだけ。それだけなんだ。別にどうでもいいはずじゃないか。自分の人生と、何の関係もないじゃない。

 なのになぜ、こんなに苦しくて悲しいのだろう。
 悔しくて嫌でたまらないのだろう。
 手を握りしめ、泣く建。
 さっきオヤカタから、額にぐりぐり穴をあけられた傷が、今になってヒリヒリ痛む。
 額から血を流し、泣いている姿に、刑場の奴隷がチラチラと建を見てくる。

「はい、あの、泣いている人」
 貴族の高橋氏付の仲人の老人――あの女輿の近くに居て、女たちの声を太夫たちに伝えていた、あの老人が建に声をかける。

「泣くと、不吉なんで、やめてくれませんかね」
 気がつくと老人は二人に、いや、三人……5人くらいに? 増えていた。囲まれていた。そして、連れ去られた、建。

・・・・・・・・・・・・・

「不吉なんだって? ん? あー頭から血ィ流れてるじゃない。つらたんクリニックじゃないですか」

 刑場からさらに1里ほど離れた、苫(とま)の目の粗いムシロを仕切り代わりにしている小屋に連れてこられる建。仲人、とりあえずまあお掛けなさいよと腰かけ台に手を。奥からよっすよっすと恰幅のいい狩衣姿の男が現れた。

「不吉って事は、何、オカルトかい。いいね、たまんないね」
 仲人に陽気に声をかける男、髭はつややかで、眉毛の濃い。顔に化粧油の照りがうかがえる。
「この男は、刑場でただ一人、天を仰いで泣いてました。なにやら所以がありそうと思いましてな」
 建を誘導した仲人老人がひょうひょうと語る。いや、所以って。そりゃ、泣いてんだから、あるでしょ。誰だって。
 とか思ってたら、すっと狩衣男が掌を晒し、身をかがめる。あっ、仁義切られる、と思って慌てて建も立ち上がり手を返すが、ノンノンノン、ノンタン、みたいに手を振られ、
「お名乗り、お控えなすって。わたくしから発させてもらいます」
「あ、お……どうぞ」
 全然不正解の仁義対応。本当なら「いえいえお控えください」ラリーを二往復しなくちゃいけない。だがそれを見て、狩衣男、少し顔をほころばせる。

「従六位・中務主簿、伊豆国五部督郵の高橋文選(もんぜん)と申す」

 こいつが、貴族の高橋氏か。ムシオの死を欲した元凶。てか、名前が文選てすごい。漢土(中国)から輸入されたトレンドポエム集(『文選』)の名前と同じじゃん。
 建は高橋の顔を見る。ニッと笑う高橋氏。

「……お越しいただき恐悦至極。あのねー、私はねー、ライフワークがあってねー。地方の奇譚? まあね、お話を集めるのが、趣味でして、刑場で泣く朝服の半裸の男って、何かお話、ありそうじゃないですか……って、あ、ごめんごめん、そっちの名乗り、まだよね」
 高橋氏は「うーっかりタカちゃん」みたいな顔してメンゴメンゴする。

 建は虚飾少なめに「大伴家持の縁者で、短歌奴隷をやってて、短歌蒐集の旅に出ている者」と簡潔に仁義を切るが、家持の名が出ると高橋氏の顔つきが露骨に変わった。「あ、名無しじゃなくてネームドな人……」みたいなリアクション。ふざけたノリじゃなくて、ちょっと丁寧のグレード上げる感。少なくとも、今後は建の前で「うーっかりタカちゃん」顔はしないだろう。絶対に。

「あの大伴卿の……短歌奴隷……、ほう、ほう、ほう」
 高橋氏、ふむと息を吐くと、屋内でやや距離を取り、家の主として上座につく。
 先ほどよりも目力強めに建に相対する。
「話を聞くと、私と君、奴隷とふつ民の違いはあるけれど、似た者同士ではありますなァ」

 いや奴隷と一般人……というかおまえ、貴族の時点で全然ちげぇよ、と内心思う、建。だが、眉を動かさず、ただ立って見つめる建。

「あなたは市井に短歌を探す旅へ出た。私は、任地に伝わる奇譚の収集をしている……うむ。似てますよ、これは、ねえ」
 一人笑う高橋氏。
 建は呼吸を制し、
「私は、先ほど刑死した男を救おうと、あの場にやってきました」
 高橋氏はほう、と息を吐き。
「……ウチの娘の輿を蹴った件ね。あれ、別に死ななくてもいいのにねえ。法がそうだからって言うけど、そんな法聞いたことないし。」

 は?

「そもそも、蹴った子供もその場で死んで――その子だって、別に殺さなくてもよかったのに。咎は、我が娘とその仲人にあるわけでさ」

 建はあっけにとられた。
 死ななくてもいいって、あんた。
 じゃああんたが殺すなって一言、言えばよかったじゃんか。
「言ったんだけどね。殺さなくてもいいじゃん、てねー」
 言ったんだ。
「でも、こういうの一応バランスなんで、って言われて。ねえ。一応バランスって何かね」
 建は怯みながらしかし、高橋氏に声を畳みかける。
「かの男はムシオと言います。川渡しの男の一員でした。私と共に川渡しをする仲間でした」
「……なに君、川渡しなんかやってた? 大伴卿付の文学奴隷のやる事じゃないでしょうに。酔狂にもほどがあるよ、それ」
 露骨に面倒くさい顔をする高橋氏。高橋氏は川渡しみたいな底辺肉体労働を露骨に職業差別してるっぽかった。いや、それはこの時代の貴族の人全員、そりゃあ、ナチュラル職業差別するはするんだけど。

 そしてその顔を見て、服の効果は、あったんだろうなと思った建。
 もし、建が服を着ておらず、うんこまみれのちんちん姿だったら、ずっとこの顔か、いや、それ以前に、存在すらも目に入らなかっただろう。
 それだけ、軍事以外の肉体労働に少し関わってるってだけで、貴族って、ものすごく下に見てくる。
「ムシオは話を持っていました」
「……川渡し風情がかい」
 高橋氏の刺すような視線が来る。
「……スエのタマナの話はご存じか、高橋氏」
「そもそも川渡しは、まともな言葉をしゃべれるのか」
「ムシオは、何度も何度もその話をするんです」
「……話してみよ」
 これだもんな、と建は内心でせせら笑った。
 建に最初に見せたユーモラスな感じも、身分関係ありませーん対等デース感も、しばらく話せば結局「お貴族サマ」になっており「話してみよ」って言いつけるんだよな。

 それで、でも、話した。
 家に来て頼めばセックスさせてくれる、スエのタマナの話。ムシオがいかにその女とやりたかったか。その女が「きらきらし」ていたか。
 そして、そのエピソードを元に、短歌を作ってみたらどうかと提案したら、ムシオはその日からきちがいのように短歌作りにハマった事。
 ムシオがうんこ臭かったこと。
 優しかったこと。
 手を温めてくれたこと。
 建が短歌を披露したら「全然違う」と泣いたこと。
 うなぎ食った事。
 うなぎを一緒に食べて笑った事。
 生きた事。
 うんこ臭かった事。
 
 ムシオと出会ってからのすべて、話した。

 高橋氏は、建の話に鼻息で相槌を打つ。
 やがて、胡坐をかいた膝がゆらゆらし、建の話を、一定のリズムで受け取るようになってゆく。
 一方建は、意地でも、心地よく語るものかと思っていた。
 詩歌用の声を遣わず、日常会話の延長上の声を使い、ムシオから聞いた話は、ムシオから聞いた通り、聞きづらく、何言ってんのかわからない、ただ、きらきらし、きらきらしていた、それを繰り返すばかりの、あの会話が前進しない感じを、誇張するでもなく編集するでもなく、見せる用の言葉ではなく日常の事として、ただ語った。語り続けてやった。
 ムシオが居たんだ。
 ムシオは、昨日までここで仕事をしていたんだ。
 俺は、ムシオと、一緒に居たんだ。

「ふむ」
 高橋文選は膝を打った。そして顎に手を置き、ややあって、居住まいを正し、立ち上がった。
 ハッとした。
 それは、詩歌を発する時にする「天と地の狭間で人として正しい立ち方」だった。
 高橋文選、息を吸い、ややあって、一気に曰く。

しなが鳥、安房に継ぎたる  ("シナガドリ"、安房につながる)
 梓弓、末の珠名は      (周准(すえ)郡在住タマナさん)
 胸別の広き吾妹腰細の    (おっぱい大きくいい腰つきで)
 すがる娘子の        (「くびれの乙女」とも呼ばれたり)
 その姿のきらきらしきに   (そのきらきらの姿のままで)
 花のごと笑みて立てれば   (花みたく微笑んで立ったら)
 玉桙の道行く人は      ("タマホコ"の道を行く人)
 己が行く道は行かずて    (本来の行く道行かず)
 呼ばなくに門に至りぬ    (呼ばれてもないのに門にやってくる)
 さし並ぶ隣の君は      (お隣のご主人なんか)
 あらかじめ己妻離れて    (あらかじめ妻と別れて)
 乞はなくに鍵さへ奉る    (頼んでもないのに合鍵プレゼント)
 人皆のかく迷へれば     (男たちこんな感じで狂うから)
 容艶きに寄りてそ      (タマナさん、顔の良さに自信をつけて)
 妹はたはれてありける。   (ずっとふざけてやがるんだよなあ)」

 高橋文選は正しい声、正しい姿勢、正しい発話で、即興的に、そして呵成に、歌を作った。
 建はそれを聞いた。
 気がつけば、あめつちが動いていたらしく、場が歌で満ち、寒々とした苫の粗い小屋にはすきま風が入ってこなかった。
 そして、今、入ってきた。風。すきま風。
 歌が、終わったから。すーっと、ただ寒い風、顔にかかる風。

 高橋文選はふうと息を吐くと、よっこらしょ感でまた定位置に座る。

 歌われてしまった、と思った。ムシオの話を。

 ムシオの持っていた、あの固有の物語を、あのまとまらない話を、高橋文選に一瞬で吸い取られ、それをさらに、器用に、きれいに、端的に、うんこ臭いところは一切省き、ムシオの話からムシオだけをきれいに省いて、話を5・7の音に当てはめさせられてしまった。
 「長歌」という形式で――一瞬で仕立てられてしまった。

「ああおん、反歌、どうするかなー……」
 反歌は、長歌のまとめとしての短歌の事だ。長歌を作られたら、短歌で締める。これは古来からうっすらと誰かがやりだしたルール。
 文選は膝をトントンと叩くと、さして時間もかけず、一瞬立とうとし、やがて面倒くさがって座り直し。

金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける……
 ま、こんなもんでいいでしょう。どうです? 大伴卿の短歌奴隷の、えーと、なんだっけ名前」
「建です。公孫建です。春日井戸の守・赤染の衛門、燕公孫の建です」
 建は泥団子を何玉も壁にぶん投げるように名前を返す。
「ああはいはい、建さん。どうです、悪くないでしょ、歌。さっきの。即興にしては。ね?」

 文選は、「変な話を蒐集する」という目的がかなえられたからか、上機嫌に建に話しかけてくる。
 こんなもの、と自嘲するが、

 巧い。
 この歌人、即興なのに、やる……建はそう思う。

 さりげなく、長歌の新技法――「語り部手法」も入っている。長歌で詠われている物語の当事者ではなく、だからと言って完全な客観ではなく「聴いた話を語っている、という私」をわずかに入れ込むことで、内容そのものの「リアリティ」からも一息置ける、という最新技法――というか、この技法を使うヤマトの歌人を、建は一人しか知らない。

 高橋文選――こいつは一体、何者なのか。
 いや、もう名乗ってはいるのだけれど。 

(つづく)

金門尓之 人乃来立者 夜中母 身者田菜不知 出曽相来
 金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
(高橋虫麻呂)

万葉集 巻9-1739


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