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小説 ちんちん短歌 第23話 『人の営み』

 気がつけばその小屋で一晩を明かしていた、建。
 この小屋は川渡しの順番を待つ臨時小屋であり、別の利用者がやってきて眠っていた建を起こしたところだ。

 寝ちゃっていた。
 歌を記憶したからだ。
 高橋文選の歌った長歌を記憶し、反復して何度も何度もつぶやき、そのつぶやきのまま体を動かし、何度も何度も染み込ませていたら、時を忘れた。日が傾いて小屋が闇に包まれても、その闇の中で、ぶつぶつと先の歌を口にして繰り返していたんだ、建。

 長歌を覚えるのは、短歌より時間がかかる。でも覚えの手続きとしては同じ。こうやって建は、新しい歌を知ったら、時間をかけて覚える。体に染み込ませる。一つの歌を覚えきるまで、繰り返す。本来なら一月は欲しいところ。もちろん、表面上「覚えた」感じだったら半日あればいいんだけど、それでは体に染みた歌にならない。まあ、短歌奴隷として、それでいいと言えば、いい。本来は。

 でも、建としては、覚えた歌をディープに体に、骨に溶かさないと、なんか、違うな、と思っている。

 歌を体に染み込ませることに、なんの合理的な意味はない。
 でも、見つけたというか。短歌が肉に染みる感じというか。そこまで行かなければ、なんか自分の中で、奴隷をやっている意味がないなあと勝手に思っている、建。

 それで、覚えて、寝て、起こされて、起きて、そして借りた朝服が汚れていることに気づき。埃まみれの小屋で倒れていたからだろう。でもまあ、川渡しの男たちの穴蔵に比べればまったくましだ。ましだが、服が汚れて、オヤカタに少しだけ申し訳なく、や、しかし、ムシオを殺したのは間接的にはオヤカタの責任だ、と思うと、憎悪も出てきた。
 どんな顔をしたものか。

 建を起こした小屋の利用者が、建のその顔を見て何か不気味だなあこいつ感出してるが、建の目にはその起こした人の顔が目に入らない。黙ったまま、覚えた歌の事を考えながら、外に出る。

 陽だ。
 薄曇りに遮られてはいるが陽。真冬の中のあたたかい光。
 その光を浴びて、ああ、なんか、川渡し人夫から、短歌奴隷に戻ったなあと思った、建。

 オヤカタの住んでいる弥生式高床コンテナの所に赴くと、オヤカタの部下の太夫が、大木にちんちん丸出しのまま逆さ吊りされていた。
 
 太夫のちんちんは地面に垂れ、みれば、そこからしょんべんも垂れている。そのしょんべんは、逆さに吊られた太夫の顔に注がれていて。
 川渡しの男たちは、そんな太夫の周りに集まり、なんとなく、無表情に、やることもないし、石を投げている。

 建はぼんやりそれを見ていたが、やがてオヤカタがやあやあ感だしながら建の近くにやってきた。

「あの貴族に呼ばれて駐屯小屋に連れ込まれたっていうからよう、殺されたのかと思ったよ、建さんよう」

 妙になれなれしいオヤカタの態度だ。なんだ建さんって。

「ご覧の通り、建さんの友達を殺した太夫はあんな感じで吊るしておいたのよ。残念ながら殺すことは法でできなんだが、これで溜飲をさげちゃあくれませんかね」
 ちょっと待ってくれ、と建。
 別にそんな事望んでないし。なんだこれ。なんなんだこれ、一刻も早く辞めさせろって。
 だがオヤカタはへらへら笑う。

「この事を大伴卿に伝えてくんな。大偉川の行夜督郎は、大伴卿の縁者に無礼を働いたものを吊るし、誠意を見せた、とな」
「別に……あんな太夫を吊るしても、俺は」
「思い上がんなよ短歌奴隷」

 オヤカタはピシャリと言い放つと、懐から取り出した黒曜石のカミソリを建の顎につきたてる。

「あんたのためにやってんじゃない。……「大伴家持の縁者」のためにやってんのよ、わかる?」
 オヤカタはそのカミソリの刃を建の顔に立てながら、ジョリ、ジョリ、とそのまま、建の顎髭を剃っていく。

「……どういう」
「ここの川の渡しの俺が、大伴一族のために恩を売ったってこと。お前個人の感情はどうだっていい。だが、この地域の役職持ちの俺が大伴の縁者のために動き、その恥をそそいだ。その事実がここで行われた。それだけの事」
 そういう事なのか。
 別に建は何も望んでいない。しかし「建のために動いた」という事実が風聞として権力者の大伴家持に伝わればいい。
 そこに建の意思はどこにも介在出来ない。それに、建が大伴家持に何をどう伝えようが、事実として大偉川のオヤカタは建のために便宜を図ったという事実は変わらない。大伴家持が悪印象をもったとしても関係ない。オヤカタの周囲の人間たちという狭いコミュニティに対して「オヤカタは都のすごい権力者に恩を売った」という事実と風聞があることで、この地区を治めているオヤカタの権威を強めるのだ。

 高橋文選がムシオの死の原因の中心にありながら、何の意思も介在出来なかったのとおなじだ。おんなじことを、建は今している。

「人の営みだ。知れ。俺もお前も意志なんてない」

 オヤカタはカミソリで、身動きしなかった建の顔の髭を剃り終わる。
 汚い川渡し人夫の残滓の残る伸ばしっぱなしの髭は消え、貴族の使い番としての顔が建に現れた。

 吊るされていた太夫は建に向かって吠える。
 太夫は全身痣だらけで、顔面は川渡しの男たちの恨みの石打に逢いボコボコに膨れている。だがその目を、憤怒でかっ開いている。

 太夫は建に恨みの視線を送り、声にならない叫びをあげる。

「安心しな。あいつは川に流す。……太夫はなかなか有能な男だったんだがなあー。武の才があり、つらい防人の役目もキッチリ果たして故郷に帰ろうとしたら、故郷が疱瘡で全滅してたらしいんよ。……なあ。こんなことになってなあ。何一つ良いことがないよなあ。何一つなあ」

 オヤカタが苦笑しながら剃刀を仕舞うと、そばに仕えていた母親に何か合図を下す。
 戸板に干されていた建の赤の韓服が、よく洗濯された状態で建の足元に置かれた。

「服をお返しする。大伴卿の衛門殿。あんたはもうここには何の用事もないはずだ。……旅を続けられよ」

 建はオヤカタの服を返すと自分の服に着替えた。
 赤の韓服に、下半身は群青のアフリカンパンツ。
 髭を剃られ、また先日身を清めたこともあいまって、川渡しをしていた時とはまるで別人のような立ち方をしている建。
 その姿を、川渡したちはぼんやりと見ていた。

 ああ、違う。
 しょせん、違うんだ。
 あれと俺らは違う。
 あんなのはしょせんは荷を水に漬けてしまうような奴だ。
 最初から違かったんだ。
 違うくせに、なんで俺らと一緒に居たんだ。
 違うくせに。
 もともと違うくせに。
 違うくせに。

 建はその無言の視線に振り向く。
 川渡しの男たち、建の威に触れ、後ずさる。

 最後に彼らに、歌の事を、聞いてみたかった。
 歌の事。皆で詠った「リンリン三千里」の囃子歌の事とか。あの歌が、どんな意味があるのか知っていて歌っていたのか、とか。
 また、この中に短歌を知っている者はいるのか、とか。
 いたとしたら、どこで聞き、どこで覚え、どんな時に歌うか。
 あるいは、短歌を作っているものは居るのか?
 あるいは、歌じゃなくても、歌のようなものが、胸に、ここに、あるのか、とか。
 ……尋ねようとしたが、建は知っている。

 無い。

 川渡しの労働者の中に、歌を知る者は誰一人として無いということ。
 短歌は、和歌は、詩歌は、結局は都のインテリ階級がブームにしてるだけで、地方の、うんこ臭い、低能で、俺みたいな、俺みたいな、俺みたいな、本来の俺と変らない俺みたいな下層階級には、何一つ響いていないということ。

 ――いや、響かせる可能性はわずかにあるとは思うんだ。思うんだよ。リンリン三千里……『飲馬長城窟行』は、残滓が伝わって歌われているじゃないか。
 家持の「うなぎの歌」を、あの時みんなが面白がって共感して歌ったじゃないか。
 歌が、短歌が、労働の生活に入り込む隙間はある気がするんだ。ある気がする。あるんだ。あったと思うんだ、俺は、一緒に働いたから、わずかに、わずかに、でもだ、でもだ、明日も労働、明後日も労働、何一つ前進しない労働に明け暮れている俺たちに、短歌がこれ以上に入り込む隙間はあったか? 蒸したうなぎのように、喜ばれるものになりえたか?

 俺が、心の底ではわずかに信じている詩歌は、労働に、貧困に、地獄に、何一つ寄与しなかったんじゃないか?

 高橋文選が言い捨てた「倭歌は10年持たず滅びる」という言葉がよぎる。
 せめて、ムシオのように、彼らにも、短歌を作ってみるような機会があれば。
 だけど結局ムシオは短歌を作りきる前に殺された。
 それは、天命なのか。
 今、吊るされている太夫にもあっただろうか、歌。ないか。ないから、イラつきながら人を殴っていたのか。ないから、棒で地面を、何度も、何度も、何度も、自分を、殴っていたのか。

 何も言うことがないと思って、建、彼方へふりさき、大偉川の渡しを後にする。
 裏切るような気持ちがする。
 だけど、そして、そのまま、知らない道を、なんの荷物も持たず、食料も身を証しとするものを何一つなく歩き出す。

 歌が染みている体ひとつだけだった。建は街道を歩み出した。

(つづく)


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