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映画『怪物』が描いていたもの

おそらくこの映画を観たほとんどの人がそうであったように、怪物が一体誰なのかを探す気持ちで見始めた。

映画『怪物』公式さいとより引用


きっとどこかに、いやおそらく誰しもが心に怪物を飼っていて、他人から見れば私も怪物の振る舞いをしている。そういう映画なのだろうと思い込んだ。内容の詳細がほとんど明かされない告知映像にまんまと惑わされた。


とある郊外の街で起こった、小学生の子ども同士の喧嘩。子どもにありがちな些細な喧嘩が、やがて大人も巻き込んだ大きな騒動になっていくという物語。教師の信頼性、いじめの噂、子どもの不可解な言動……。それらの理由をひとつずつ知るたびに強く心が揺さぶられるヒューマンドラマだ。


映画は三章から構成されている。母親の視点、教師の視点、そして子どもたちの視点。第一章で感じた怒りや「怪物」に対する不気味さは、第二章で覆されつつ新たな「怪物」の存在を匂わせる。そして最終章で、怪物探しをしていた自分が間違っていたことに気付く。


おそらく、怪物などどこにもおらず、誰の心にも存在していなかった。個々はあくまで善良な人間であるにも関わらず、誰かの視点で見たときに怪物に見えただけの話なのだ。しかも、最もショッキングなのは、他者を怪物に見せているのは、自分自身の悪意なき「普通」の押し付けのせいなのだということだった。


我が子に望む普通の幸せ、両親揃った普通の家庭、普通のクラスメイト、教え子への普通の声かけ……。それらの本来自分一人のものでしかない「普通」から外れた者を、他人が勝手に怪物たらしめているだけなのではないか。


そうして大人たちが他者を怪物として扱う中、主人公の子どもふたりだけが自分自身を怪物だと思っていることが、この映画の中で最も切なく悲しい。幼く未熟で、まだアイデンティティが確立されていない子どもたちだけが、周囲から外れた自身に戸惑い、自分こそが変なのだと信じている。クラスメイトが、家族が、教師が、勝手に普通やらしさや幸せの形を決めつけて押し付けてしまっていただけなのに。何一つ、子どもたちが絶望を感じる必要などないのに。


作中で時々響く、低くてまるで怪物のうめき声のように聞こえていた金管楽器の音が、視点を変えた瞬間、ただ伝えられない柔らかい感情を乗せた優しい音であったことに気づいた時、きっと自分は嵐の日に大声で心から謝罪をする保利先生と同じ気持ちだったのだと思う。


映画がカンヌ国際映画祭でクィア・パルム賞を受賞したこともあり、LGBTQを描いた作品として注目されがちだが、あくまでこの作品の中心は、善良な私たちそれぞれが他者を怪物として扱ってしまう危うさを描いた作品であると思う。片親家庭への偏見や、根も歯もない噂を信じてしまうこともそうだろう。最後まで怪物のように見えた保利の恋人や依里の父親でさえも、視点を変えると人間なのかもしれない。

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