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noteで人生初の小説を書いた裏話

この記事は、僕がnoteで初めて書いた小説の「あとがき①」です。小説を読んでいただいた方への感謝も含めて色々書いてみました。書き始めたら長くなりそうだったので、数回に分けることにしました。

小説(全12話)は、マガジンにまとめています。ご興味があればぜひ読んでいただけると嬉しいです。

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この小説を書いたきっかけ

この小説を書くことになったきっかけは、ある1枚の写真でした。僕がnoteを始めてまもない頃、もときさんという素敵な写真を投稿されている方と出会いました。

その写真は、もときさんが以前投稿された記事のトップ画像に使われています。ちなみに、もときさんはご自身で撮られた写真の多くを「みんなのフォトギャラリー」に登録しています。ギャラリーには、心を揺さぶられる素敵な写真で溢れています。ぜひ記事の投稿の際にもご活用ください!(→「motokids」で検索してください)

さて、写真のことです。僕はこの写真を見た時にどこか見覚えのある場所だと思いました。この緩やかな起伏のあるウッドデッキ。横浜の大さん橋(以下、大桟橋と表記)かなと思い、もときさんにもコメントで確認しました(笑)

今回、小説のタイトルにも入れましたが、この写真が物語を書く際の起点になりました。

過去に横浜の大桟橋には訪れたことがありました。ただ、その時感じた印象と全く違いました。この写真はモノクロということもあり、雨降る大桟橋がしっとりしていて、写真に映っている人の姿もどこか寂しさや切なさを感じる。休日の晴れた大桟橋は人も多いし、夜ならカップルだらけという印象が僕にはありました。

こんな雰囲気の時もあるんだな、と純粋に感じました。そして写真を眺めているうちに、2つのことを思い出しました。

1つは、数年前に僕がここで今の妻に告白したこと。(プロポーズではないw)

この話については今書くタイミングではないのでまた今度。

もう1つは、僕の親父が若い頃(50年前くらい)に横浜の大桟橋から船でソ連に行き、ヨーロッパを旅したことです。この大桟橋から友人に見送られて船に乗ったという話は聞いたことがありました。

そういえば親父が船に乗った時、大桟橋はどんな雰囲気だったのだろうか?

ふと想像してみた時、ずっと変わらぬ場所で大桟橋が見届けてきた風景や時代の空気のようなものが気になりました。時代も季節も天候も違うけど、確かにこの場所にたくさんの人が来ていた。もちろん、昔は展望デッキなどないので、多くの人が船の出航を見送りに来たり、帰港する船を出迎えたりしたのだと思います。

そんな時間的空間に不思議な魅力を感じました。

もときさんが雨の大桟橋で撮った1枚の写真がなければ、間違いなくこんなことは想像すらしなかったと思います。僕と親父のそれぞれ違う「点」になっていた経験を「線」で繋いでくれたと思っています。(もときさん、ありがとうございます!)

親父が旅立った頃の大桟橋、もときさんが写真を撮った雨の大桟橋、そして僕が知る最近の大桟橋の風景を何か上手く繋げられないだろうか、と想像しながら書き始めたのが今回の小説です。

なので、当初は3話くらいで完結する想定でした。(笑)

ただ、親父が船に乗って旅に出る時のイメージを想像しているうちに、せっかくだからそのまま親父の旅のことも小説にして書いてみたくなりました。

僕がそんな気持ちになったのも、noteが「自分の書きたいことを自由に書ける(表現できる)場所」であること。noteが「書きたい(伝えたい)」という衝動に駆られる場所であること。長くて拙い文章であっても、noteでの出会いや交流がきっかけで最後まで記事を読んでコメントまでしてくれる人たちがいる。それら全てが書こうと思い立った要因になっていたと思います。

○○を主人公にした小説

ということで、この小説の第1話から登場した若い男の正体(モデル)というのは、僕の親父でした。

第1話から、ロシアではなく船が「ソ連」に向かうという点から時代背景をすぐにくみ取ってくれた方もいました。時代は1972年頃を想定しているので、書き手の僕自身もまだ生まれていません。

つまり、男の旅の話のほとんどが僕自身の経験ではありません。ただ、創作するにあたり、僕自身が旅した時の経験や感じたことを男(親父)に投影した場面も少なからずあります。実際、親父が同じように感じていたかどうかは分かりませんが(笑)

また、今まで親父から直接聞いたことがある旅の話を思い出しながら、できるだけ忠実に再現しようと書いた場面もいくつかあります(それはまた次回にでも)

ちなみに、陰でこそこそと僕が小説を書いていることを親父はもちろん知りません。このnoteをやっていることすら知らないです。Facebookはやっているみたいですが、きっとnoteという存在は知らないはずです。

実話と全く違っていた場面

小説を連載投稿している期間、親父に会う機会がありました。その時、それとなく旅の話を聞きだしました。その中で、投稿後に知ったエピソードがあるので一つ紹介します。

第3話で、男がシベリア鉄道に乗ってヘルシンキへ向かう旅の場面です。

男は2等寝台車両に乗りました。その客室には、旅行者や現地の人が入れ替わりで乗ってくる。終盤には、レイラというロシア人の美人女性と2人だけというシチュエーションにしました。

僕自身もこんな夢のような経験をしたことはなく、想像を膨らませて創作したのですが、実はこれは当時のシベリア鉄道ではあり得ないことでした。

ソ連時代のシベリア鉄道には、旅行者にとって色々な規制がありました。当時は旅行者が降りて歩くことが許されなかった駅(街)があったり、カメラで車窓の風景を撮っているのが車掌に見つかるとフィルムを没収されたりといった話が実際にあったようです。

そしてレイラの話があり得なかったというのは、外国人旅行者と地元の人たちが乗る車両はそもそも完全に区分けされていた、ということです。つまり親父の乗った車両には、外国人旅行客しか乗っていなかった。

その時点で、レイラという地元の美人女性と客室で一緒になるという夢は幻となりました。(泣)

ただ親父の話によると、食堂車に関しては地元の人も外国人旅行客も一緒に利用できたようです。食堂車に行く時だけは、地元の人たちしか乗っていない車両を通ったと言っていました。

その時のエピソードとして聞いた話です。

ある時、親父がその車両を歩いて食堂車に向かっている途中、ある客室でギターを弾きながら歌っている人たちがいた。その曲は当時、親父も日本でよく聞いたり歌ったりしたことがあるロシア民謡だった。

それを聞いて何を思ったのか、親父はその客室に顔を出してギターを弾いている人に「ギターをちょっと貸してくれ!」といきなり言い放った。そして、親父はギターを手に持つと、同じ曲を日本語バージョンで歌い始めた。

そんなことよくやるなぁと思いましたが、地元の人たちは「どうして異国の者が我々の民謡を!?」と目が点になっていたみたいです。

この話を聞いた時、やっぱり音楽っていいもんだなぁと思いました。いつの時代でも、音楽は世界中の人と人を繋げてくれる。たとえお互いの言葉が理解できなくても。

もし、僕がこの章を書く前にこのシベリア鉄道での話を親父から聞いていたら、レイラの登場もこの場面の展開もまた違っていたかもしれません。

でも、自分が書いた想像の世界と主人公の実体験とのギャップがあったことを知った時、それはそれで面白い気分になりました。

ということで、今回の「あとがき①」はこのあたりで終わりにします。

最後までお読みいただきありがとうございました。

(つづく)

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