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ストックホルムの貧乏
あれから僕は、ストックホルムのバス停で出会ったベルギー人のベンさんと一緒に行動していた。とはいっても、彼は2日後の朝には船でフィンランドに行く予定だったから、ほんの僅かな期間だ。
初日、僕はベンさんと一緒にスカンセン博物館へ行ったが、それ以降は特にここに行ってみたいという気持ちは湧かなくなった。ベンさんも、フィンランドへ行く目的があったから、ストックホルムを街を観光しようといった雰囲気はほとんどなかった。
とにかく、僕たちは街を自由に歩き回った。
結果的には、ストックホルム宮殿がほど近いショッピングストリートでコーヒーを飲んだり、市庁舎や裁判所が一望できるカタリーナヒッセという展望台へ登っていたりもした。
そして、僕はストックホルムにいながらも、ベンさんとの”国際交流”を楽しんでいた。
夜、ご飯を食べに行ったレストラン・バーではこんな感じだ。
「ヨーロッパでビールの銘柄が一番多い国はどこか知っているか?」
「う~ん、ドイツかな?」
「違う!ベルギーだ!」
「じゃあ、ベルギーで乾杯をする時は何て言うか知ってるか?」
「わからない。何て言うんだ?」
すると、彼は指を股間に向けながらこの上なく嬉しそうな表情でこう言った。
「チンチン~!」
なるほど、ベンさんの日本語への興味はここから来てるのか、と思いながらも彼は僕に今度は質問してくる。
「日本語で金持ちの反対は何ていうんだ?」
僕が、「貧乏(ビンボー)」だと教えると、彼は日本語でこう言い返してきた。
「ビンボオ~!アナタ、ストックホルムのビンボー!」
確かにストックホルムの金持ちか貧乏かと言われれば、僕は間違いなく後者に部類されることだろう。しかし、バス停のベンチで一晩野宿する”アナタ”こそストックホルムのビンボーではないか、と思ったりもした。
また、僕がベルギーという国名を漢字で書いたらどうなるかをテーブルの脇にあった紙ナプキンに書いてあげた。
「白耳義」
彼はその文字を見て興奮すると、それをそのままポケットにしまった。
そんなどこか無邪気なベンさんだったが、ある時それが突然クールで頼もしい男に変貌した。
それは夜、僕たちが横に並んで街中を歩いていた時だ。
人通りが少ない道端に男がうつ伏せになったまま倒れていた。ピクリとも動いていない。何人かの通行人たちが心配そうな面持ちで集まっていた。
遠くから歩いてきた僕たちがその光景を目撃した瞬間、ベンさんは急ぎ足で近寄って行った。
彼は、慣れた手つきで脈をはかり、気道を確保し、呼吸や意識の確認をした。そして、なるべく負担がかからないように男の身体をそっと動かした。
僕は、通行人に紛れてその様子をただ眺めていた。
しばらくすると、一台の救急車がやって来た。
ベンさんは、救急隊の人に「心配いらない」といったような手ぶりをして話しかけていた。
僕は、何のためらいもなく自然に行動していた彼に対して「さすがだね」と伝えると、彼は今まで見せたことのないような表情になり、しかも日本語で静かにこう言ってきたのだ。
「もう4年生デス。行かなくてはイケマセン」
僕は心を打たれた。
さっきまで「チンチン~!」と言いながら笑っていた人間が、いきなり真顔になってこんな日本語を喋りだすのだ。
僕は思った。結局、どんな外国語を話そうともそれが美しく流暢である必要は決してないのだと。言葉は、意思疎通の手段の一つだ。
たとえ単語が間違っていたり、文法がぐちゃぐちゃであっても、その人の口から発する言葉の中に誠実さだとか信念だとか、時にはユーモアみたいなものが伝わってくると、人はそれだけでその人に不思議な魅力を感じる。
その日の夜、僕はベンさんが泊まっていた宿で別れを告げた。いつか日本に来ることがあればと期待し、富士山のポストカードにメッセージを書いて渡した。
そして翌朝、ベンさんは船でフィンランドへと旅立った。
件名:ストックホルムの貧乏
久しぶりですね。元気ですか。日本の友達に会いました、私はストックホルムに運がよかったです。
今、フィンランドのトゥルクにいます。先週雪がたくさんありました。毎日、自転車で医院に行って手伝っています。フィンランド人はとても恥ずかしがり屋です、けど毎晩ビールが飲みたがっています。そしてよく話します。
あなたのデンマークへの旅行はどうでしたか。かわいい女の子を見ましたか。クリスマスに露仏に行くつもりです。何時にアメリカに残すつもりですか。葉書はどうもありがとう。失礼します。
ベンさん
追記:
旅の途中、僕はベンさんに英語でメールを送った。すると、彼は「日本語でお願いします」とリクエストしてきた。そしてまもなく、彼がフィンランド滞在中の時にメールが送られてきた。(内容をそのまま上に引用)
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