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祖母のルーツを辿った旅

20歳の夏、僕は地元東京の町田からバイクに乗って旅に出た。

学生時代の夏休み、最終目的地は四国の徳島だった。

行きは陸路で気ままに走り、帰りは徳島からフェリーに乗って東京の有明港まで一気に戻ってくる。バイクの旅だけでなく、船旅まで味わえる。

富士山の麓に広がる朝霧高原、長野県や岐阜県の山々を越え、滋賀の大津からついに大阪の箕面に着いた。当時、箕面は親戚が住んでいた。僕の生まれた場所でもある。

その後、僕が箕面から徳島に向かった大きな理由があった。

父方の祖父母は10年前に亡くなってしまったが、当時は2人とも元気に暮らしていた。

父は4人兄弟。僕が子供の頃、夏休みやお正月は親戚一同が箕面の家に集まる。従兄弟だけでも10人、祖父母を含めて総勢20人近くが集まれば、それは賑やかな場所になる。

この時はといえば、僕が一人で計画して来たこともあって父方の伯母2人と祖父母の4人だけで何とも静かに思えた。

祖母は徳島の生まれだ。

大正9年生まれ(1920年)だから、今からほぼ100年前になる。

祖母は、生みの親の事情で生まれてすぐ知人の家に預けられて育った。知人とはいえ、もはや親戚のような仲だったらしい。

祖母にすれば義理の両親になるが、子供ができずに悩んでいた事情もあったそうだ。そういうわけで生みの母親から養子として引き取ったのだった。

義父母は奈良県に住んでいたので、祖母は生まれてすぐ徳島から奈良に引越したことになる。

この頃は、兄妹が10人近くいる家族も決して珍しくない。様々な事情から乳母に育てられたり、親戚の家などに養子養女として嫁いだりすることはよくあった。

「それを聞いた時、ほんまびっくりしたで。」

箕面の家で、祖母が驚いた表情で僕に話してくれた。

祖母が20歳の頃、ちょうど祖父と見合い結婚した時の話である。

「ずっと一人っ子やと思ってたら自分に兄妹がいるってわかってなぁ。」

と、当時の気持ちをしみじみと語っていたことを思い出す。

徳島に異父兄弟がいることがわかり、やがて直接会うことになった。

「初めて会った時、みんなええ人たちで嬉しかったわ。」

兄が2人に妹が1人。結婚後から兄弟の交流が始まり、徳島と大阪の箕面を行ったり来たりすることがよくあったそうだ。

自分に兄妹がいることが発覚しただけでもびっくりする話だが、兄妹仲良く交流できたことは祖母にとって何より嬉しかったのではないかと思う。

その祖母の2人の兄のうち、次兄の息子と孫が徳島で飲食店を営んでいることを旅に出る前に父から教えてもらっていた。

祖母はもちろんだが、僕の両親も大阪に住んでいた頃に何度か訪れたことがあるらしい。

そういう話もあって、僕は箕面から祖母の生まれた徳島へ行き、その親戚の家に泊めてもらおうという計画を立てていたのだ。

明石市から道路の両側にヤシの木が並ぶ淡路島を走り抜け、鳴門海峡を渡って徳島へ上陸した。僕にとってこれが初めての四国だった。

1階で焼肉屋を営み、2階の自宅で僕は一晩だけお世話になった。僕が行くことは事前に連絡していたとはいえ、会うのはもちろん初めてだ。

「たいぞーちゃん」

親戚からそう呼ばれていた孫は、ぽっちゃりした体格でアロハシャツに短パン、いかにも優しそうな表情をしたお兄さんだった。当時の僕より10歳くらい年上だっただろうか。

「よぉー来てくれたー!遠かったやろー?」

初対面のはずが、全く壁を感じない雰囲気に僕は一瞬で親しみを覚えた。

たいぞーちゃんは独身だった。2階の自室を見せてくれたのだが、これがまた驚くほどお洒落な部屋だった。

話を聞けば、家具やら照明などほとんどが自作だという。制作途中の大きな帆船模型も置かれていた。

「こんなんただの趣味じゃけーん!」

生まれて初めて耳にする、たいぞーちゃんの徳島弁が優しく響いた。

少し照れながらも嬉しがる、そんなたいぞーちゃんが可愛く思えた。

たいぞーちゃんは車にも乗るし釣りもやる。多趣味の男だった。

たらふく焼肉も食べさせてもらい、2階の自宅リビングに布団を敷いてもらった。冷蔵庫も勝手に開けて使っていいという。

たいぞーちゃんと僕は、お互いのルーツを辿れば血が繋がっている親戚だ。

祖母が大人になってから初めて知った兄弟の存在。それから兄妹仲良く過ごした時間。

祖母が築いたそうした関係があるからこそ、孫の世代であるたいぞーちゃんと僕も自然に打ち解けられたのだと思う。

人生初の一人旅は、祖母のルーツを肌で感じた旅でもあった。

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トップと最後の写真は、徳島~有明行フェリーのデッキ上で撮影した夕陽。

2005年8月撮影。


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