平和道とは死ぬ事と見付けたり(補講2)

本当は、
「平和道とは死ぬ事と見付けたり」
について、

  • 上 ~ 武士道、武道から考える「道」的価値観

  • 中 ~ 芸道から考える「道」的価値観

  • 下 ~ 日本の「平和主義」が、無意識の「道」的価値観によって理想主義的、ファンタジーの世界に生きている状況

を論じるつもりでした。
ただ、「日本の平和主義」についての根本理念を語るだけでも相当な文章量となってしまった事から、基本構成とそれへの現実主義的立場からの批判を別口で「補講」として投稿する事にしました。


日本の「平和主義」における根本理念

平和主義者の普段主張している事をトレースすれば、彼らの主張が生み出される根本理念が見えて来る。

  • 非武装中立

  • 無抵抗主義

  • 絶対的護憲

  • 日本悪玉論

大体、上記4つを徹底遵守するような言論を行うと、「一丁前の平和主義者」に擬態可能だ。
今回は「無抵抗主義」について掘り下げてみる。

「無抵抗主義」とは?

「イギリス相手だったから」一定の成果を挙げられたガンジーの無抵抗主義

「無抵抗主義」で一番有名なのは、インドのイギリスからの独立に貢献した「マハトマ・ガンジー」による非暴力・不服従の反抗運動だろう。

だが、この「無抵抗主義」が機能するのは、その相手が「無抵抗主義」を実践する者に手をこまねいていてくれる時だけだ。

残酷な植民地統治の実例:ベルギー王の私領「コンゴ自由国」

第二次大戦期、世界はまだ多くの植民地が存在した。
植民地自体の存在を根本的に疑問視する向きは主流とは言えなかったが、宗主国による苛烈な統治に対し、「人道的見地」からの批判は徐々に強まって行った。

特に中央アフリカ、現在のコンゴ民主共和国におけるベルギー王、レオポルド2世による統治は残虐行為が横行した事で知られる。
列強に倣って植民地を求めた末に、ベルギーにとってようやく獲得できた「コンゴ自由国」。
ベルギー王直轄私領的な立ち位置となり、王は最終的に植民地からの上がり、つまり金銭的利益にしか関心を持たなくなる。
その結果、植民地に対し過酷なノルマを課し、それが達成出来ない場合は植民地住民の腕や足を切り落とすとの暴挙に出る。
労働力として使役したいのならば、労働力としての価値が落ちる四肢切断を行う事は全く理に適っていない。(無論、理に適っていれば良いと言う話では無い。だが、「そこで百歩譲ったとしても」と言う話をしている。)
そういう常識的な指摘が届かない程に、ベルギー王は植民地を自分の思うがまま使える「金のなる木」としての興味しか持たなかったと言う事だ。
このような苛烈な統治によって、コンゴ自由国成立時には3000万人いたとされる植民地人口は、みるみる減少して行き、900万人にまで落ち込んだと言う。
そして、ベルギー王によるコンゴ自由国統治について人道的見地から調査を行ったのがイギリス植民地省であり、その実態を世界に知らしめたのがイギリスの雑誌「TIME」誌なのだ。
レオポルド2世に対する批判はヨーロッパ中からなされ、その結果、「コンゴ自由国」はベルギー政府へ委譲されて「ベルギー領コンゴ」となり、初等教育が実施されるようになるなど、統治は多少なりと改善される事となった。

欧米で起こった「基本的人権」の考え方は、あくまで同じ地域に住む同胞までにしか適用されなかった。植民地は本国より低く見ているからこそ植民地なのであり、そこへの人道的統治が導入されるまでには時間が掛かった。
ガンジーが無抵抗主義によって宗主国イギリスへの抵抗を行ったのは、1942年。
「植民地だから」の一言で苛烈な統治をゴリ押し出来る時代ではなくなっていた事、特に(主要因として世界戦略の観点から、他国の植民地支配への牽制があったとしても)植民地支配に関する人道的配慮のムーブメントを作ったイギリス相手だった事と合わさって、イギリス植民地省は無茶が出来ない状況に置かれていたのだ。

言う事を聞かない植民地住民に対し、逮捕、勾留する事までは出来ても、程度の甚だしい暴力、命を奪う行為は正当化しようもない。
そして、イギリス植民地と言う事は他国民も許可さえ得られれば入域可能であり、他のヨーロッパ諸国やアメリカから非難を受け得る非人道的行為を大規模に行う事など端っから無理だった。
逆に、これらの批判が発生しないよう徹底した入域制限と情報統制を行っていたならば、他国から批判を受ける事無く残虐行為を行う事は可能だと言う事も出来る。
もし仮に、ガンジーが社会主義国家や全体主義国家の中で、一定の権利を主張する手段として「無抵抗主義」を訴えたならば、間もなくその運動は根絶やしにされた可能性があっただろう。それも相当高い確率で、だ。

宗主国側が植民地統治について人道的な問題として他国からフォーカスされたくない事が一つ、さらにそれを実際に行った場合、他国に簡単に露見してしまう事がもう一つ。
この2つがあってこそ、「無抵抗主義」は功を奏するのだ。

抵抗する術も無く、迫害を受けるチベット・ウイグルと言う存在

第二次大戦直後、中国内戦に勝利した中国共産党はその勢いに乗って、清国の統治領域でなかったチベット地域ウイグル地域に侵攻する。

中国共産党は
「かつて清国を始めとする古代中華帝国が領有していた地域を全て引き継ぐ権利を有するのだ」
との理屈付けで領域拡大を現在まで継続的に試みている。
だが、中国の言う「中華帝国領土」とは「中華帝国の朝貢国だった地域」までをも含む。
「朝貢国」とは、中原の覇者たる時の中華皇帝に対し、定期的に貢物を持って挨拶に訪れる周辺国の事だ。

中華皇帝はこれを歓待し、中華皇帝の威光を示す意味で、朝貢国の貢物より高価なモノを土産として渡していた。
この物々交換を「朝貢貿易」と言う。
時に、周辺国はこの高価な返礼目当てに朝貢を行っていたのだ。

中原の覇権国家が「朝貢」を求める本当の意味

時の中華帝国がこのような行為を行うのは、別に「貴方様に従属致します」との言質を取る事で「精神的満足を得る事」が目的と言う訳ではない。

中国の民俗的宗教観に「天子思想」(天子と書いて「てんし」と読む)がある。
天上の最高神である「天(天帝)」は地上に子である「王」を遣わす。
「王が何故偉いのか?」の問いに対し、「天の子だから」、つまり「天子だから」と考えるのだ。
宗教的価値観に合致する存在として、「王」を「天子」と認識する訳だ。
また、人間的な格の違いを「徳」として評価する。「王」はその並外れた「徳」によって世を治める、このように考える。

天上の最高神の子として地上に派遣された「天子」は、「この世界を統治せよ」との「天命」を授かっている。
つまり、中原の覇者たる「王」は、この世界を統治する権利を持っていると同時に、「天」から授けられた「天命」を実現する為にも世界を統治する義務があるのだ。
この義務を果たす為、中華皇帝は外征に精力を傾ける必要がある。
だが、どれだけ強力な王朝であってすら、度重なる外征を行って疲弊しない訳が無い。
度重なる兵役、戦費を賄う重い税金は民衆に重くのしかかる。その圧政の代償として民衆の不満が鬱積してしまえば、それは何時か爆発し、反乱軍が跋扈しかねない。
国力が衰え、民衆が苦しみ、周辺国からも軍事的圧力を受けるようになると、「天子思想」としては「王の徳が失われた」「天命が尽きた」と認識される。
こうなると、新たな王の候補が世に現れる。最終的に勝ち残った者が新たな「天子」と認識される。
このように
 「前王は徳を失い、天命が改められた。
 別の姓を持つ者に新たな天命が授けられ、新たな天子となる」

との考え方を「易姓(えきせい)革命」と呼ぶ。
「易姓」と「姓が改まる事」を意味する。

宗教観としての「天子思想」、「易姓革命」についてはこの通りなのだが、現実世界の統治ノウハウを考えた場合、際限の無い外征は王朝の寿命を縮めるばかりで、見返りが乏しい
より遠くへの外征ほど、国全体として必要な兵士の数は増えるし、軍費も兵站物資も加速度的に増加する。
つまり、「この世を統治せよ」との「天命」を受けたとは言っても、「この世」を文字通り「世界全て」と解釈する事に現実的な無理が掛かっているのだ。
これを克服する考え方が「中華思想(華夷秩序)」だ。

中華大陸の中央に広がる大平原、中原に存在する帝国こそがこの世で最も素晴らしい場所であり、世界の中心、すなわち「中華」である。
「中華」の周辺国に対しては、「朝貢」を求め、「王の徳」によって教化した上で、その統治を許可する。
周辺国の更に外側は、蛮族(夷狄:いてき)の住む土地(化外(けがい)の地)であり、全くの未開の地だ(と言う事にする)。
「王」はその徳を解する能力を持つ者だけを相手にするのであって、夷狄に係(かか)ずり合ってる暇など無いのだ。

このように、「中華と夷狄との間の絶対的な秩序(=華夷秩序)」の導入とは「王の天子たる格」を傷付ける事無く、「王の統治すべき世界の果て」を設定可能とする”工夫”だ。
イメージとしては
          北狄
           周辺国
  西戎  周辺国 中華 周辺国  東夷
           周辺国
          南蛮
おおよそこのようになる。
中華の周辺国家と認められる者とは、朝貢を行う者だ。
蛮族は方角ごとに大別し、「北狄(ほくてき)」「東夷(とうい)」「南蛮(なんばん)」「西戎(せいじゅう)」と呼ぶ。
これらを纏めて「四夷(しい)」、または「夷狄(いてき)」と表現する事もある。

余談:日本における「四夷」

中学の歴史でも学ぶ「魏志倭人伝(ぎしわじんでん)」
これは正式には
 三國志 魏志 第三十巻 烏丸鮮卑東夷伝 倭人条
の事を指す。
三國志はゲームや漫画、小説の題材として未だに人気の”あの”三國志だ。
中原の覇を争った魏(ぎ)・呉(ご)・蜀(しょく)、それぞれについて書かれた「魏志」、「呉志」、「蜀志」があり、その三か国の「志(ここでは「書」の意味)」を纏めて「三國志」と呼ぶ。
烏丸(うがん)鮮卑(せんぴ)は共に魏の北方に存在した騎馬民族を表す。
東夷は朝鮮半島に存在した複数国、及び倭、つまり日本が含まれる。
「日本について書かれた巻」としてフォーカスする場合、巻名を単に「東夷伝」とする事も多い。
「倭人(わじん)条(じょう)」の「条」とは「ひとまとまりの文章」の意を表すもので、つまりは「倭人についての文章」と言う事だ。

また、漢字文化を受け入れた日本でも都を中心とする和人に対し、都から遠くの異民族を「夷狄」などと表現するようになる。
征夷大将軍「夷」はまだ和人の統治の及んでなかった東北異民族を「東夷」と見做した事に由来する。
大航海時代、日本まで到達したヨーロッパ人に対し、「南方からの異民族」として「南蛮人」の表現が使われた。
また、「夷」「狄」「蛮」「戎」は全て「えびす」の意味を持つが、この「えびす」は単に和人に従わない「異民族」としての意味だけでなく、七福神「恵比寿」とも繋がりがある。古代の日本において「辺境の異形の民や異民族を『幸福をもたらす存在』」として信仰していた事に由来する。

「えびす」と聞くと「蛭子」姓を思い浮かべる人もいるだろう。
「蛭子」は本来の読みは「蛭(ヒル)」「子(コ)」から「ヒルコ」だ。
蛭子は日本神話において、イザナキ、イザナミの間に生まれたものの、不具(四肢欠損)の子だった為に船に乗せられ、海へと流された。また、蛭子は二神の子として数えない事になっている。
流された理由に関し、古事記には「我が生める子良くあらず」との記述しかなく、日本書紀では三歳になっても足腰が立たなかったとされる。良く育つ見込みの少ない障害を持って生まれた子に対し、海へと送ったとの解釈になるだろうか。
船に乗せられ流された蛭子神が流れ着いたとの伝承は日本各地に残り、また、海からの漂着物をえびす神として信仰する風習も各地に存在する。室町以降、この2つの同一視が起こった事により、「蛭子(ヒルコ)」と書いて「えびす」と読む読み方も一般化したとされる。

以上、日本における「四夷」の余談だ。
「朝貢」の持つ真の意味について、話を戻そう。

結局のところ「朝貢国」とは、中華帝国が直接統治すべき領域の境界線を決定する為の「舞台装置」でしかないのだ。
中華帝国が際限の無い外征を行わずに済む為の”発明”と言い換えても良いだろう。
だからこそ、絶対的な権勢を持つ事が出来なかった歴代王朝の中には、大きな見返りを事前に約束した上で、「中華皇帝との儀礼的な臣下の礼をとってもらえないか?」と下手に出ながら朝貢をお願いした例もあったのだ。

今の中国共産党の主張は、このような例もあった「朝貢国」との立場を全て中華の支配領域としたいとの強い領土欲に基づいてなされている。
歴史的経緯から考えても、話にならない主張だが、中国共産党はマジなのだ。彼らの非常識さを侮ってはいけない。

ちなみに、中国共産党が盛んに「核心的利益」と繰り返す台湾島について、清の一つ前の王朝である明(みん)王朝では「化外の地」として認定しており、朝貢させる事を諦めた土地だったりする。
が、このように中国共産党にとって都合の悪い話は、片っ端から無視を決め込む。近隣諸国にとっては、余計に質(たち)が悪い相手となる。
都合の良いモノだけ見て、都合の悪いモノには徹底無視を決め込む、このスタイルは日本の平和主義者と通じるものがある。
日本の平和主義者が無暗矢鱈に中国を礼賛し、日中友好を声高に叫んでいるのは、基本的な思考様式の面で中国共産党に対し、大いに共感するからかも知れない(皮肉

一方的に侵略されたチベット

チベットは、歴史的に仏教的教義に基づいた国家運営を行っていた事も影響し、警察権の延長のような軽武装体制を志向していた。
この為、中国共産党軍による攻撃が始まると、抵抗虚しく敢え無く陥落し、ダライラマ14世らは国外に逃れる事となった。
国外へ逃れたチベット人達は、インドにチベット亡命政府を作る事になる。
そして、中国による少数民族弾圧が本格化した時、チベットに何が起こったか?
徹底的な仏教弾圧だ。

共産主義は「唯物史観(唯物論的歴史観)」によって神の存在を認めない。
元々の「唯物史観」とは、「人間社会にも自然同様に客観的な法則が存在する」と主張する。
より具体的に説明すると、
「古代から続く社会体制の変化について、我々はそこに法則性を見出した。そして、それが行き着くべき”未来”(=共産主義)も理解している。これは決して政治的イデオロギーではなく、れっきとした”科学”なのだ」
と言っているのだ。

余談:唯物史観への個人的論評

第三者の視点から言わせてもらうと、
 「それって科学的思考じゃなくないですか?」
で終わる。私は他者の思想信条の自由を最大限尊重するつもりだし、他者が唯物史観を信奉する事自体は否定しない。「どうぞ、ご自由に」と思うが、論理的な批判はさせてもらう。科学的思考だとする割に、自明では無い前提を重ねて論じてる時点で、まともな論評に値しないと考える。

しかし、唯物史観、共産主義にかぶれると、その多くは自分達への批判を冷静に聞いていられなくなる。更に、他者の思想信条の自由を十分には尊重出来なくなる。自分達の結論こそが「科学的、論理的に正しい」と信じ込むからだ。
SNSでは自分を正義だと信じ込んだ連中が、反対論陣に向かって言葉を極めて罵詈雑言を浴びせる姿が見られるが、その攻撃性の根本にあるのは徹底的な独善性だ。
 「私は正しい」
 「だが、相手は正しい私を非難して来る」
 「相手は悪なる存在に違いない」
の飛躍した三段論法によって敵味方の組分けを行い、「正義に適う行動としてのライン越え非難」を行うようになるのだ。
彼らに対しては
 「お前がそう思うんならそうなんだろう
 お前ん中ではな」
と心の中で思いつつ、生暖かい目で見守ってあげるのが良い。
彼らに正論は届かない。
そして、彼らの度を越した罵詈雑言を見て、「私も同調しよう」と思うのは最初からその”素質”を持った人間だけだ。まともな感性を持っているなら、彼らとお近づきになりたがる訳が無い。
彼らとの”交流”に時間を費やすくらいなら、新しい趣味の一つでも始めた方が人生を有意義なものにし、何より精神衛生を健全に保てる。
論破は『論破されてる』と気付ける者相手にしか起こらない。
そこに気付けそうもない相手に「論破してやろう」などと意気込む事は、ゆめゆめ考えてはならない。

閑話休題。

唯物史観論者は本気だ。
本気で「人間社会の本質を見抜き、正答を得た」と考えている。
自分達の主張が、何処までも政治的イデオロギーの域を出ないにも拘わらず、「自分達こそが科学的に正しい社会体制のゴールを見付けたのだ」と信じて疑わない。
この主張には、「人類が生まれた経緯としての神話」は必要無い。必要無いどころか「科学的に正しい結論を述べているだけだ」との彼らのスタンスにとって、「”非科学的存在としての神”は邪魔でしかない」のだ。

一部にキリスト教と共産主義の融合を目指した一派も存在したが、多くの共産圏において宗教は軽視され、場合によって敵視された。共産圏において弾圧を免れた宗教組織は、政治体制への配慮をせざるを得なかった。

チベットにおけるチベット仏教徒は、仏教的価値観だけでなく少数民族としてのアイデンティティも併せ持つ為、中国全土における漢民族化推進では強烈に敵視される事になる。ウイグルにおけるイスラム教徒への弾圧も同じ構図だ。
僧侶に対し、敢えて戒律を破る行為を強い、反抗すれば自分、もしくは他の僧侶が痛めつけられる。
片腕を切り落とされた上に「法力(ほうりき。宗教的な力)で飛んでみろ」と建物の上層階から落とされた僧侶の話や、他の僧侶をいたぶるぞと脅迫し、衆人環視の中、僧侶と尼僧に性行為を強要した話など、聞いているだけでおぞましさに震える話が次から次へと出て来る。

このような非人道極まる弾圧が始まって以降、外国人の立ち入りが厳しく制限され、チベットもウイグルも直接外国からの監視の目が届かない状況に置かれてしまっている。
運良く難を逃れた人の証言や、家族がまだ中国に残る在外中国人の証言により、悲惨な状況についてその一部が外に漏れ伝わっているだけであり、弾圧の実態は更に悲惨なものであるに違いない。
そして、近年は内モンゴル自治区においてもチベット、ウイグル同様に民族的風習・文化・言語を失わせる方向で共産党による圧迫が強まっていると言う。
このように、「非人道的行為に躊躇いが無い」相手に対し、「無抵抗主義」による反抗は機能する訳が無いのだ。

ガンジーの無抵抗主義が成立したのは、その相手がイギリスだったからだ。
社会主義国で同じような手法を取った所で、徹底した情報統制を行った上で、反体制分子は片っ端から処刑されて終わった事だろう。

インド独立に関する日本人の誤解

そもそも、インドの独立運動において、ガンジーの存在にばかり注目する日本の視点は歪んでいる
いや、「インド独立に関してガンジーくらいしか知らない」と言った方が正しいかも知れない。

イギリス領インドにおいて、独立を志向する勢力は第二次大戦期に日本に接近し、日本軍の力によってインドのイギリスからの解放を実現する事を求めるようになる。
インド独立の立て役者となった者の多くがインド国民会議(1885年に設立。インドの民族的団結、イギリスの対インド政策の改善等を求めた。後に政党化し、現在も議席を有する)と関わりを持ち、後に独立の為の手段の違いなどから異なる道へ進んで行った。
様々な立場を選んだ人達がいて、それぞれの立場からの独立への希求がなければ独立を達成する事は叶わなかった。

最後まで国民会議派として活動したネルー、不服従運動・非暴力運動のガンジー、インド国民軍に参加したチャンドラ・ボース彼らを中心とする独立を望んだインド人全員が独立実現に不可欠な存在なのだ。
チャンドラ・ボースは特に日本との関係が深い。
旧日本軍の無謀な作戦として知られる「インパール作戦」は、イギリス領インドを解放する為に、無理を押して行われたものだ。既に物量面での不利は前線の誰もが分かっていて、それでもボースの望むインド解放を実現する為に無謀な作戦へ突き進んだのだ。

別に私はインパール作戦を「崇高な理念があったのだから再評価しろ」などと言う気は無い。無謀さがどれだけの兵士の命を奪ったのか、その事実を前にして「おこなって当然の作戦だったのだ」など言えるはずも無い。
後の世の人間が無責任に、神の視点に立ってあれこれ言うべき性質の話では無いと思う。
ただ、「インパール作戦」の知名度に対し、ボースの存在と言う大きな要素がそれほど知られていない事実は、日本人の国際社会を見る視点に大きな問題がある事を示唆しているように感じる。

インド国内においては、インド独立の功労者として、チャンドラ・ボースの人気は非常に高い。
インド国会では独立功労者の写真が掲げられているが、チャンドラ・ボースが単独で最上位にある。
日本の敗戦を受け、ボースはモスクワへ向かおうとしたが、その途中、台湾の台北で飛行機事故で大やけどを負い、治療の甲斐なく亡くなり、日本で法要が営まれた。今も遺骨は東京・蓮光寺に納められ、チャンドラ・ボースの政治的スタンスを受け継ぐインド首相が来日した際に蓮光寺を訪問している。

また、安倍晋三元総理大臣が第二期政権で訪印した際に、チャンドラ・ボースの親類と面会する機会を設けるなど、今でも複雑なインドの政治状況に配慮し、インド国民の対日感情を良好にする為に戦略的で有意義な外交を行った。
ガンジーは英領インド全体が宥和する事を求めていた事から、対イスラム教においても寛容な態度を求めるようになる。これに対し、宗教的な違いを許容出来ない独立派からは敵視されるようになってしまう。ガンジー暗殺も、イスラム教への寛容さが我慢出来なかった者の凶行なのだ。

こう言ったインド独立の経緯を正しく理解すると、
 「インド独立 = ガンジーの無抵抗主義」
の短絡思考で安易にガンジーを褒める言説をインド国内で行う事は、少なからぬ軋轢を生じさせるリスクがある。
これは「ガンジーを褒めてはいけない」と言ってる訳では無い。
「ガンジーを褒めればインド人は喜ぶに違いない」との短絡思考では、ガンジーに否定的なインド人への無理解を示しているも同然であり、却って彼らの心を傷付ける可能性があると言っているのだ。

現在のインド首相・モディ首相はヒンドゥー至上主義的団体の活動から政治家になった人物だ。
「日本人がチャンドラ・ボースの事をきちんと覚えていますよ」
とアピールする事は、モディ首相を始めとするボースを高く評価するインドの議会人に対し、日本への信頼を勝ち取る鍵となるのだ。
(但し、こう言った安倍政権の地道な外交努力は、全くと言って良い程報道されない為、国民の大半は全く知らないだろう)

実際にインド独立が実現した経緯はこうだ。
直接的にイギリス支配からの独立を実現しようとしたインド国民軍は、日本軍へ接近し、インパール作戦成功を夢見てイギリス軍と戦った
日本の敗戦受け入れによって終戦となったが、イギリス領インドではこのインド国民軍への処遇に対し、国民の不満が爆発した
イギリスとしては「国王への反逆罪」を適用してインド国民軍参加者2万人を裁こうとしたが、これに反発したインド人は大規模ストライキや暴動を起こした。
終戦の翌年である1946年のイギリス戦勝記念日には、敢えて敗北を象徴する弔旗を掲げる市民まで現れた。
国民会議派も彼らについて「インド独立の為に戦った愛国者である」として即時釈放を求めるようになる。
このようなインド領内の強烈な反発を受け続け、イギリスはこれ以上の英領インドの保有を諦め、独立を認めざるを得なくなったのだ。

ガンジーの無抵抗主義について、私はその価値を貶めたい訳じゃない。
だが歴史的事実、また現在のインド国内の受け止めをそのまま評価するならば、インド独立についてガンジーのみにフォーカスする平均的日本人の見立てはかなり歪んでいる。
それは偏(ひとえ)にマスコミ報道において、平和主義的論調が優位であるからだろう。
事実をありのまま伝える事よりも、事実を歪めてでも平和主義的価値観に合致する「無抵抗主義」の成果を大きく見せたい。
その思惑が実態と懸け離れた「無抵抗主義によってインドは独立を成し遂げた」との幻想に至らせ、日本人全てにその幻想共有を強要するのだ。

日本人の誤認の出発点・GHQ占領時代

日本人の間で「無抵抗主義」がまるで現実世界でも十分に機能するかのように誤認されている背景に、第二次大戦後のGHQ占領が影響していると私は考える。

……戦争中は「鬼畜米英」と罵り、アメリカ、イギリスに対する憎しみを募らせるよう軍部を中心に国民を誘導した。
だが戦争が終わり、アメリカを中心としたGHQの占領が始まった。
ここでGHQの統治は概ね成功し、GHQの指導の元、日本は平和国家へと生まれ変わり、国際社会へ復帰する事が出来たでは無いか。
戦中、散々喧伝された悪辣なアメリカの姿はそこに無かった。
だとすれば、もっと早くに日本は降伏すべきだったのだ。
抵抗を続けたせいで、日本の戦争被害は拡大したのだ。
抵抗しなければ、ここまで大きな戦禍を被る事も無かったはずだ……

と言った形式の言説に出会った事のある人は相当多いだろう。
 「抵抗したから被害が大きくなった」
 「抵抗しなければそこまで酷い目に遭わされる事もなかったのに」

は、戦後生まれの平均的日本人が如何にも鵜呑みにしそう、反戦主義的立場から好みそうな内容ではある。
本当にそう言えるのだろうか?

日本軍の残虐さばかり語り、アメリカ軍の残虐さに向き合わない平和主義者のダブスタ

別に私は日本軍をどうしても擁護したい訳じゃない。
また、アメリカ軍をどうしても悪し様に語りたい訳でもない。
事実に向き合わなければ、それへの客観的な論評など出来ないから、そこに触れざるを得ないのだ。

今現在の日本ではまるでパラレルワールドの話でもしているかのように、第二次大戦に関して一方的な評価ばかりが語られている。

「鬼畜米英」は確かに現代人からすれば強烈なプロパガンダ的表現にしか見えないだろう。
プロパガンダを含んでいる事は確実だが、何も無い所から出て来た話では無いのだ。
連合国側では日本に対し、人種差別的発想を含む攻撃的で侮蔑的な発言が少なからずなされていたのだ。軍人、民間人の区別無く、日本人は殺すべきだとの極端な主張まで行われていた。
後に元帥にまで上り詰める海軍軍人・ウィリアム・ハルゼー・ジュニア提督は「ジャップを殺せ、ジャップを殺せ」をスローガンにしていて、新聞記者に対し日本を占領した際には、日本女性全員を不妊手術すべきだとまで発言している。
この発言が日本にも伝わり、連合国側への敵意が増幅されて行き、「鬼畜米英」まで行き着いたのだ。

そもそも、人間は人間を殺す事を容易には行えないものだ。
世の中に殺人事件は数多く、歴史を振り返っても戦争の連続であり、戦争が無かった時代を探す方が難しい程だ。
このような事から、時事ニュースに触れ、歴史を学べば「人は人を簡単に殺せるものなのだ」と考えるのは自然に感じられるだろう。
だが、そこからして事実に反している。

「戦争における『人殺し』の心理学」と言う本がある。
軍に入った新人を戦地に送れる状態まで訓練した経験を持つ著者が、自身の経験を踏まえ、更に古い戦争資料も確認しながら「人が人を殺せるようになるまで」を精緻に分析した著作だ。
ここで、「誰もが人を殺せるようになる訳じゃない」との話が延々と語られている。自分の置かれた立場に従って、命じられた通りに最初から人に向かって銃を撃てるのは全体の5%程度に過ぎず、訓練を通じて如何にこの割合を上げて行くかと言う話になる。
また、前線に出された兵士の多くが、「自分が敵兵を殺してない可能性」にすがる様子も描かれている。状況的に自身の放った銃弾が当たって敵兵が倒れたとしか解せないような場合であってすら、たまたま違う方向からの流れ弾にやられた可能性を考えて、「確実に自分が殺したとは言えない」と考えたがる兵士が非常に多い事が書かれている。逆に、作戦の性質上、確実に人を殺した事が明確化する「狙撃手(スナイパー)」に対し、一般兵士は「自分達とは違う」と認識しがちだと言う。

私が「戦争における『人殺し』の心理学」を引用して何が言いたいのかと言うと、「敵兵を殺す事を正当化する為のロジックは戦争にとって必須だ」との現実だ。
確かに有色人種への差別がまだまだ露骨に残る時代の話でもあり、アメリカの中での日本評が差別意識にまみれたものになった事も否定しようもない事実だが、敵国の国民を人間として尊重する大切さを強く打ち出せば絶対的に兵士の士気は下がる事に繋がる。
士気の下がった兵士ばかりになれば、戦闘で不利になる事必至であり、それだけ自国民の被害が拡大して行く事になる。
それを良しとする国がもしあるとするなら、敵国の兵士より自国民への関心が低い異常な国家だ。
戦争に勝てるかどうか以前に、国としての存続が危ぶまれるレベルだろう。

第二次大戦期とは、ハーグ陸戦条約やジュネーブ陸戦条約などによって、戦争における作法、特に人道の観点から出来る事、出来ない事の区別は軍に対して求められるようになっていた。
実際、アメリカ国内においても日本兵への残虐行為に対して問題視する主張もあるにはあった。
だが、戦争終結までその残虐行為を徹底的に禁止し、違反者を軍法会議で厳正に処分するような事は終戦までついぞ無かった。
良いか悪いかの観点で語るなら、良い訳が無い。
だが、戦場での被害を最小化したいと考えた時に、「日本兵も同じ人間なんだ」と言う事を自国の兵士に言い聞かせるのはかなり難しい事だ。
それによって、数%自国兵士の戦死者が増えるかも知れない、そう考えた時、自国兵士の命と敵国兵士への人道的配慮、何方を優先させるか?と言う問いなのだ。

GHQによる日本統治が概ねスムーズで大きな混乱が無かった事から、日本では何時しか
 「アメリカ軍は日本国内で語られていたほどには、残虐非道と言う訳ではなかった」
とのぼんやりとして共通認識が広まってしまった。
だが、実際には上述したように、残虐行為は頻発していたのだ。
日本兵の遺体損壊は当たり前、まだ息のある日本兵の口を裂いて金歯を抜く行為まで行われたと言う。
更に、戦利品と称して遺体の一部を切り取って戦車に飾る行為や、本国に日本兵の頭蓋骨を送った兵士までいた。
アメリカの写真雑誌「ライフマガジン」の1944年5月22日号では、日本兵の頭蓋骨を前に軍人の恋人への手紙を書く女性の写真が掲載されている。
このような頭蓋骨は、遺体から頭部を切り離した後、ドラム缶でそれを茹で、肉を全て削ぎ落すと言う作業を経ている。
「同じ人間として」との感覚があったならば、到底出来ないであろう猟奇的行為が数知れず起こっていたのだ。

更に、日本本土への帰還が遅れ、結果的に戦地に取り残された民間人に対しても残虐行為があったとされる。
抵抗する手段も持たない民間人が集落の中の一軒の家に押し込められ、出られないよう扉や窓に細工した後で火を放ち、焼かれて泣き叫ぶ日本人をアメリカ兵が見物していたとの話も残る。
民間人の保護はジュネーブ陸戦条約で求められる交戦国の義務なのだが、それが容易く破られていたのだ。
こう言った民間人相手でも保護しない、保護しないどころか残虐行為の対象として狙われる現実があったからこそ、サイパン島でのスーサイドクリフ、バンザイクリフと言う悲劇が起こったのだ。

スーサイドクリフ、バンザイクリフはサイパン島の地名となっている。
クリフは崖の事だ。三國志の「赤壁の戦い」が映画タイトル「レッドクリフ」になったが、このクリフだ。
終戦間近、敗色濃厚となった中で、日本兵、民間人に対し、アメリカ側から投降の呼び掛けを行ったものの、集団自決を図った事が地名の由来となっている。
スーサイドは自殺の事、バンザイは崖から飛び降りる日本人が「天皇陛下万歳」や「大日本帝国万歳」と叫んだ事に依る。

戦中のアメリカ軍に対し、ほのかな人道的優しさを信じてしまうと集団自決に走った日本人に対し、「なんて愚かな事を……」と思ってしまうだろう。
だが、その場にいた多くの日本人にとって、本当に助けてくれるのか分からないのが現実だったのだ。
そして、もし助けるとの約束が反故にされた場合、女性なら凌辱される可能性が真っ先に頭に浮かぶだろうし、男性の側は同胞として女性を救う事も出来なければ自分達も面白半分に殺されるかも知れない。
日本への反攻が勢いを増した頃、南方戦線ではアメリカ軍とオーストラリア軍の共同作戦が行われていた。
これに参加したオーストラリア兵の手記が残されている。
その中では、アメリカ軍が投降兵であっても平気で殺してしまう事、上から捕虜を取るよう言われた時以外は全く捕虜を取らない(つまり片っ端から殺してる)事が書かれている。
戦後に語られる経験談としては、運良くアメリカ軍の捕虜となり、日本に帰って来られた人の話しか無い。捕虜に取ってもらえなかった日本兵の経験談は絶対に聞けないのだから。

このように、特定の選択過程を通過した人だけの経験談によって生み出される情報バイアスの事を「生存者バイアス」と呼ぶ。
「アメリカ軍に捕虜とされ、帰国できた日本人の経験談」を基に「アメリカ軍の残虐さ」を測ろうとすれば、当然「アメリカ軍は日本で語られているような残虐さは無かった、寧ろ優しさを感じさせた」との話ばかりになる。
更に「そのような善良なアメリカ軍に投降しなかった日本兵、民間人は愚かな判断を行ったし、『鬼畜米英』と叫んでいた日本全体がおかしかった」との結論に流れ着く。
前提から論証過程、結論に至る何から何まで、全て間違っているのだが、情報を正しく追うつもりの無い人には間違っている事すら気付けない。

もっと言えば、GHQの占領統治に伴って、米兵による婦女暴行事件は少なからず発生したし、そのような暴発事件を防ぐ目的で米兵相手の歓楽街が生まれたのだ。
小説「肉体の門」は正に、米兵相手に体を売る女性たちの生き様を描いた作品だ。
現在の日本において、戦中の愚かしさを語る題材として、女性が竹槍を突く訓練に勤しむ様子、子供たちまでもそのような訓練に参加する様子を治めた写真がよく使われる。
それに対し、「竹槍でB-29に対抗しようとした(B-29は爆撃機の型番)」だの「女子供を戦わせようとする所まで追い込まれた」などと認識され、戦中の日本人がまともな判断力まで失っていたかのように語られる。
だが、そう思うのはこの竹槍訓練の意味を誤解しているからだ。
実際にやっているのは「万が一、連合軍が本土上陸して来た際に、ただただ女性が凌辱されてしまう事だけは避ける為の訓練」なのだ。辱めを受けるだけでも十分に重い事だが、その後に生きて解放されるかも分からない。
本土で健康に問題の無い若い男性の多くは戦地に送られている。
女性の武道としては薙刀もあるが、金属供出によって一般女性の護身用武器すら満足に確保できない。
米兵の暴力に対抗する男手も武器も圧倒的に足りない中でせめてもの抵抗を、としての竹槍訓練なのだ。
B-29による爆撃が行われている最中に、女性や子供が竹槍訓練を行っている姿と言うのは、その対比だけで情勢が決定的である事を示す象徴的な情報ではある。だが、「B-29に対して竹槍」と言う話の表層的な部分だけで曲解した人間が現れ、「B-29を竹槍で落とそうとした」と馬鹿な事を言い出し、何時の間にかそれが戦中日本の象徴的エピソードとして語られるようになってしまった。
子供も視聴するテレビでは、女性が凌辱される可能性について言及せざるを得ないこの手の話がしにくいのは分からないでもない。だが、このような事実関係をまともに理解しないままに、戦中の活動を小馬鹿にする言説だけが延々と繰り返し放送される現代日本は絶対的に狂っている。

繰り返し言うが、私は別にアメリカ軍の残虐性や米兵による犯罪行為をあげつらう事自体を目的としている訳じゃない。
また、それによって相対的に日本軍の正当性を示そうと試みている訳でもない。
平均的日本人が何となく抱いている「無抵抗でいるならば、相手もきっとそこまで悪いようにはしないだろう」との幻想が、全く以て何の根拠も無い事を示したいだけなのだ。
「だって、敗戦直後のアメリカ軍だって悪いようにはしなかったじゃないか」との素朴な理屈付けが、如何に現実から乖離した話を基に語られているのかを指摘したいだけなのだ。

何より、第二次大戦後の米軍による日本統治はレアケース中のレアケース的にマシな方だった、と言う事実を日本人が正しく認知していない。
この認知のギャップを生み出している大きな要因として、戦前・戦中の日本を悪く言い過ぎている事がある。

戦況悪化によって軍部の暴走は過激化の一歩を辿り、国家全体を精神論が覆った事実は確かにあるのだが、戦前・戦中も立憲君主制が基本であり、天皇を君主とした統治機構は健全に回っていたのだ。
日本でもアメリカでも、「敗戦によって日本の政治体制は健全化された」との幻想が主流になっているが、戦争以前から日本は世界有数の人権尊重国家であり、天皇は偉ぶる事無く民の生活を第一に考えていた。

明治天皇は日露戦争が不可避と言う状況において御製(ぎょせい:天皇が詠んだ歌)を詠まれている。
 よもの海みなはらからと思ふ世になど波風のたちさわぐらむ
 (四方に広がる海を見ればそこにいる人々は皆同胞だと思うこの世の中でどうして波風が立ち騒ぐのだろうか)

更に、昭和天皇はイギリス・アメリカ・オランダとの開戦が不可避となった時の御前会議(天皇臨席の枢密院会議を指す。基本的にその会議の方向性は大臣たちによって決まっていて、また天皇自身の発言は天皇の政治責任に繋がりかねないとの判断で、天皇は発言しない事が通例化していた。)において、敢えて上掲の明治天皇御製を詠み、暗に大臣たちに対し戦争回避出来ないのかとの思いを伝えている。

多くの日本人は「終戦によって政治体制が大きく改められた」との結論しか知らない為、じゃあその前はどうだったのか?を正しく把握していない。そして今とは違う事からの推定で、天皇の意志が政治に反映されていたのだろう、個人独裁国家だったのだろうと考えがちになる。実際には憲法に定められた通りに議会、枢密院によって政治の方向性は決められ、天皇はその決定について説明を聞くだけの立場であり、現実の政治に直接的関与はしなかったのだ。

暴走した軍部を取り除いたと言う点で、確かにアメリカを始めとする連合国に恩はあるのだが、日本はもともと君主の圧政など発生しようが無い体制であり、民を思う政治が行われるよう天皇が常に望んで来た事から民主制への移行にもほとんど障害が発生しなかった。

多くの日本人は戦前の体制について全く知らない為にその事実に気付けないい。
(また、アメリカもこの点を正しく把握してないが為にアメリカ的統治のモデルケースとしての日本を前提として、他の国にアメリカ的民主主義を安直に導入しようとしては失敗を繰り返している。)

日本の平和主義者は「何もかも日本が間違っていた」との前提によって、平和を実現する手段を導き出せると考える。
なので、「間違っていた日本」から始まって「正しかった日本以外の国」を作り出そうと躍起になる。
その結果、現実の戦争で何が起こっていたのかに向き合いもせず、「悪辣な日本軍」と「人道的なアメリカ軍」の対比で戦争を語ろうと試みてしまう。
そこには、事実に対して真摯であろうとする精神も無ければ、過去に生きた日本人への敬意も無い。
そして、その事に対して何らの後ろめたさも感じない。
何故なら、「自分達は正しい事を行っている」と信じ込んでいるからだ。

ウクライナへ無抵抗主義を勧める無邪気な狂気

このように、「現実に何が起こったか?起こっているか?」よりも、「私たちはどう考えているか?」が優先される平和主義者の頭の中では、ウクライナ侵攻に関しても歪んだ認知バイアスが生ずることになる。

「戦争を忌避する」感覚から始まって「戦闘行為全般を忌避する」事を良しとし、「とにかく戦闘行為を今すぐ中止する事が正しいのだ」との結論に至る。

そして、「ウクライナとロシア」の関係を第二次大戦期の「日本とアメリカ」になぞらえて捉え、ウクライナに対して「そんなに必死に抵抗する必要は無いのだ」と諭すように言い出すのだ。
「日本はアメリカの事を途轍もなく邪悪な存在だと信じていた事で、敗戦受け入れが遅れ、それだけ戦争被害も大きくなってしまった。
ウクライナにはかつての日本と同じ道を辿って欲しくないのだ」
とウクライナの事を本気で心配し、注進しているつもりなのだ。

第二次大戦より前から民主国家を謳っていたアメリカですら、残虐行為を止められず、人道的見地から国際条約で定められた戦争ルールを徹底遵守出来なかったのだ。
これ以上ない程の非民主国家であるロシアなら、どれだけ酷い行為が行われるか分かったもんじゃない。
今現在でもブチャの悲劇を始め、数多くの非人道的行為が発生しているのだ。
この現実に向き合わず、とにかく矛を収めよとウクライナに向かって語るのは、ウクライナ人にロシアによる残虐行為を甘受しろと言ってるも同然だ。
これまでチェチェン紛争に始まり、各地で強権政治と軍事的威嚇、更に軍事力行使を各地で行って来たプーチン大統領と言う男に対し、「無抵抗でいればきっと分かってくれる」と考えるのは、人間に突如羽が生えて飛べるようになると考えるより非現実的な事だ。
「平和主義者」は今そこで行われている民間人への「暴力」「残虐非道」を無視して、「正当防衛でなされる戦闘行為」を問題視している。
彼らは自分達が何を言っているのか、正しく把握出来ないのだ。
把握出来てたら「平和主義者」なんてやってる訳ないのだから。

「非暴力主義で反抗する日本」が屈服するまで

日本人が平和主義者の語る「無抵抗・非暴力によって、悪辣な支配者に対しても対峙出来るのだ」との幻想を信じ、それに従ってしまったとする。
そこで、残念な事に日本が中国かロシアの膨張主義に飲み込まれた時、何が起こるだろうか?
無抵抗主義を示そうとした人間は、その場で片っ端から残虐非道な暴力に晒されるだろう。
個人として暴力に屈しない精神を持っていたところで、命を奪われればそれまでだ。

更に、彼らは人のいたぶり方も熟知している。
彼らは無抵抗主義を貫き通そうと努める人を嘲笑い、その心を折る為に当人以外の人間を見せしめとしていたぶる事だろう。
無抵抗主義で反抗を続ければ続けるほど、自分以外の人間が痛めつけられる状況を前にして、最後まで抗える人間がどれだけいるだろうか?
悪辣な行為を行っている当事者こそが最も責められるべきなのは間違いない。
だが、自分の信念によって他者が暴力を受けている時、自責の念を抱かない人間はいないだろう。
結局は、全ての人間が無抵抗主義を諦めるしかない状況へと追いやられるのだ。
そうなってから「無抵抗主義が通じない相手が存在する現実」を思い知ったところで全ては後の祭りだ。

平和主義者の誤算

平和主義者の考える「無抵抗主義」が効果を発揮するのは、

  • 相手国が民主主義国家

  • 政府による非人道的行為について、自国民が非難する

  • 他国からの批判を無視出来ない

このような条件が揃った時でしかない
そして、現代社会において、上記3条件が揃った国は、そもそも侵略戦争を行わない。
逆に言うと、現代社会で軍事的行為の結果として、支配される立場になった場合、そこには「無抵抗主義を発揮する余地など無い」のだ。

<「平和道とは死ぬ事と見付けたり」補講3へ続く>

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