平和道とは死ぬ事と見付けたり(上)

自称「平和主義者」が、どうして現実から乖離した空理空論で平和を説くのか?
それを論じて行きたい。
今回は前段。
日本人と「武道」を考える。


「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」

※「云ふ」は旧仮名遣い。現代仮名遣いなら「云う」、より分かりやすい感じに直せば「言う」の事。

これは、江戸時代中期の書物「葉隠」(はがくれ)の有名な一説だ。
途中省略された「武士道とは死ぬ事と見付けたり」との表現も良く見掛ける。
この記事のタイトルも、見やすさ重視で省略形をもじったものだ。

元の文章は字面からのイメージだと強烈な覚悟、つまり
「名を挙げ、功を立てるには、死をも厭(いと)わぬ姿勢が大事だ」
的な発想を思い浮かべるかも知れない。
だが、実はそういう話ではない。

そもそも、「葉隠」の成立したのは1716年ごろとされる。
最後の戦国時代的な合戦と言える大坂夏の陣は1615年。
およそ100年の隔たりがある。
つまり、この頃には戦(いくさ)働きで命を落とす武士などいない太平の時代だ。
更に、江戸時代は徳川将軍家の統治を絶対的なものとする為に、戦国的な実力主義、下剋上的発想を戒め、君臣の別、父子の別、長幼の序などの儒教的発想による秩序維持を徹底した”武”士と言いながら、武官ではなく文官として役人勤めだけが求められる時代になっていた。
一方で、江戸から離れた土地の大藩は、関ケ原の戦いに負けた後に徳川家に臣従した外様大名であり、表に出せない徳川への不満を抱えていた。

例えば、長州毛利藩では、年始の挨拶がこんな具合だ。
 家老「今年はいかが致しましょうか?」
 藩主「いや、まだ良かろう」
家老の問いは「徳川家について」が略されている。
これはつまり、関ケ原の戦いに敗れた後の徳川家による仕置きによって、藩領を3分の1にされ、居城も奪われた事への恨みを込めた挨拶なのだ。

心から臣従した訳では無い外様の武士たちには、少なくとも気構えだけは常在戦場の戦国武士的気骨が残り、幕藩体制の中では十分に得られない名誉への希求が常にあった。
その発露として、藩主への忠義を如何にして尽くすか?は武士にとって大きな命題だった。
「葉隠」の生まれた背景には、そのような武士の思いがあったのだ。

「武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり」の真意とは?

この一節で語られている事はおおよそこのような内容だ。
二者択一では早く死ぬ方を選べ。
人は誰でも生きる方が好きだ。
だが、ただ生き永らえるのは腰抜けのする事だ。
無為に早死にしてしまうのは気違いなだけで、恥にはならない
これは武道の根幹だ
毎朝毎夕、いつも死身(しにみ:死ぬ覚悟をしておく事)でいれば、武道に自由を得て、一生落ち度無く、武士の務めを全うできる。」

つまり、「死地を恐れず戦い抜け」的な教えではなく、武士たる者が主君に対し忠義を尽くす為に、どのような心持ちでいるべきか?を説いたものなのだ。
生き恥を晒す可能性があるなら、死ぬ事をも厭わず敢えて危険な道を選ぶ、そういう気持ちを常に持っている事が武士にとって大切なんだと言っている。
戦陣訓(せんじんくん:戦陣で与えられる訓戒)」ではなく、武士にとっての「人生訓」だ。

日本人にとっての「道」

日本人は「道」が大好きだ。
人がやる事なら、あらゆる分野でその行為を極めようと努力し続ける人が現れ、その技術の向上を何処までも求める。
そして、命を終える時まで高みを目指そうとする事と人生そのものを重ね合わせ、「技術の向上」「人格形成」ハイブリッドさせたものが「道」になる。
つまり、「術ある処、道あり」であるし、「道ある処、術あり」でもある。

武術に対し武道、芸術に対し芸道がある。
現代だと、技術修練にフォーカスを当てているなら「剣術」のように「術」を名乗る事もあるが、「剣術道場」と言った表現に余り違和感が無い事からも、「術」と「道」は近しい関係にある。
「うちは技術を教えるだけで、精神修養は勝手にやってくれ」
と言った態度の武術道場は余り聞いた事が無い。

また、余り言語化されてない「道」の特徴がある。
「道」の行き着く先として、「他者への影響力の最大化」が隠れた目標として知らず知らずのうちに設定されているのだ。

武道であるならば、それは当然、術としての強さを求める。
強さの行き着く先として、圧倒的な実力差を対戦相手に知らしめて、相手の戦意を失わせる。「戦わずして勝つ」のだ。

武道における「最強」のテンプレ

剣術の達人に対し、それに挑まんとする血気盛んな若武者がいる。

「ここで勝負して欲しい」
若武者が頼む。
「その必要は無い」
達人が答える。

しかし若武者は納得しない。
「此方には、その必要があるのだ」
そうして自分勝手に剣を構える。
致し方無しと達人も相構える。
両者、剣先を相手に向け、勝負が始まる。

若武者は自分にとって最良の距離、型に持って行く為ににじり寄る。
自分の意図を悟られまいと、袴に足先を隠した状態で体重移動も気取られないよう、ゆっくりゆっくり姿勢を変える。
だが、どうやっても自分の好形に持って行けない。
自分の意図を見透かされているかのように、気付けば達人の体勢が変わっているのだ。
仮に若武者がそこから一撃を目論んだところで、それを容易に無効化するであろう。
それくらいは若武者にも分かる。
そして、その気になればその反撃で自分を切って捨てる事など造作も無い事だと。
目の前にいるのに途方もなく遠くにいるように感じられた。

そしてここで気付く。
自分の好形を求めて動いてばかりだったが、達人は未だ自分の好形を求めた動きを見せて来なかった事に。
達人が受け身から転じ、一撃を打たんと欲した時、自分に何が出来るだろうか?
彼が見せた最小の動きで間合いを切るなんて芸当を真似るなんて不可能だ。
刹那に総毛立つ。
この距離は保てない。
ついさっき遥か彼方にいたはずが、今は眼前、間合いを既に詰められたように感じる。

…………幼い頃から腕っぷしの強さは評判で、喧嘩をやって負けた事が無かった。
ただの強さでは満足出来なかった。
誰よりも強くなりたい。
そう思って剣術を習い始めた。
幸い、筋の良さも兼ね備えていた。
瞬く間に兄弟子の誰よりも強くなり、試合稽古をする相手もいなくなった。
力量差が大きくて対戦が成り立たないのだ。

ようやく自分の強さに満足出来そうだ、そう思った頃に師範から聞かされる。
「確かにお前は強い。だが、上には上がいる事を知らなければならない。」
そうして、ある男の話を語り出した。
最初は自分が慢心しないよう、嘘を吐いてるのだと思った。
だが、師範の語り口には説得力があった。
いまここで思い付いた出鱈目を並べてるとは思えない。
どうしてもその男の強さを確かめてみたかった…………

勿論、頭の中でこの男との対決を何度となく考えた。
自分の考え得る一番強い男を想像し、どう戦うかも十分練って来た。
今ここで分かった事は、自分が未熟だったと言う事だけだ。
決死の一撃、命を捨てる覚悟の一太刀ですら、何も残す事も出来ない。

左手を柄から離し、剣先を下した。
そのまま膝をつき、刀を脇に置く。
無礼で勝手に始めた試合だ。
だからこそ、最後は詫びも含めて礼を尽くさねばならない。
両手を付き、深く頭を下げた。
「参りました」

時間泥棒・作

剣術に限らず、あらゆる武術の創作表現として、上記のような展開は頻繁に見られる構図だ。
相当に腕の立つ者を描いた上で、その人が全く勝つビジョンが見えず、一度も攻撃を試みる事無く降参させる。
それにより、「強さを極めた者」を読者に伝わりやすい形で描く事が出来る。
日本人が考え得る「最強」を描く際、このテンプレは既に陳腐化してると言って良い程知られているし、日本人的な「武道の達人」のイメージは広く共有されていると言って良いだろう。
だが、普通は「武道を極めると言う事はね、」みたいに噛み砕いて言語化された説明を教わった人はいないだろう。
漫画や小説のシナリオ構成の作り方、または作品批評でこの構図を学ぶ事はあり得るだろうが、それは「強さ」の描き方を語っているのであって、「道」の世界観を語るのとは違う。
このような事から、日本人は「『道の究極形』とはこういう事だよ」と教えられた訳でもないのに、「道の究極形」誰もが共有していると言う事、「道」の世界観を知らず知らずに理解しているのだ。

これが余りにも当然のように受け入れられているからこそ、この派生形として
「将棋で、一手も指さずに『参りました』と言うシナリオ」
まで割と見掛けるのだ。
「ドリフの大爆笑」のコントでもあったはずだし、漫画でも複数回読んだ記憶がある。
基本、将棋などのマインドスポーツの場合、「相手の盤上の対応を一つも見る事無しに敵わないと察知する」のはギャグ的表現になる。
上記ドリフや漫画でもそうだった。
だが、対戦までに相手の棋譜を十分研究し尽くした事を表現した上で、どうやっても勝ち筋を見出せないとの判断に至った事、その苦悩の様子を描くのならば、シリアス展開でも成立するだろう。
将棋も囲碁も街中の対局所として「道場」を冠する所も相当割合あり、またトッププロ棋士の将棋、囲碁への向き合い方は、正に人生を賭け、技術向上をひたすら目指す所からも、「道」との表現が相応しいと思う。

「道」的意識の汎用性が生む歪(ひずみ)

更に、武道ではないスポーツでも、その精神性を強く意識させる場合は「道」的な雰囲気を醸し出す。
一番有名なのが「野球道」だろう。
ただ、この手のスポーツの「道」化は、技術を極めた先に辿り着く精神性と言うのではなく、指導者側に「スポーツをする者、こうあるべし」の精神論が先に固まっていて、それを子供達に押し付けるような歪(いびつ)な形式になりがちだと思う。

部活動における指導者は必ずしもトッププロだった訳ではない。
レベルの高い競技技術を持っている訳でもなく、それをきちんと学んだ訳でなくても、部活動の顧問役を任された場合に、「せめて形だけはそれっぽく」と安直に考え、「道」の精神性に従ってイメージ先行の厳しい練習を行ってしまう。
その実態は過去に自分達が受けた、または見聞きしたスパルタ式練習法をただ再現しようとしたり、どうにか体力だけでも底上げして技術差を埋めるものだったり、「道」的世界観を適切に提示出来ないまま「道」を装っているに過ぎない。
「高校球児は坊主頭」のように、それをさせている側がそうすべき理由をきちんと説明出来ない「形式的ルールの押し付け」は、特に「なんちゃって野球道」でしか無いと思う。
長く当然視されて来た事に対し、それを見る人達の心の中にも自然なものとして受け入れられてしまう。これ自体はどうしようもない事だ。人間の脳は基本的に「変化」を嫌う。現状それで生活が回っているなら、その環境に「正しさ」を感じてしまうのだ。慶応高校の甲子園優勝で話題になったが、彼らに対して頭髪自由を問題視し、「高校球児らしくない」と言い出すのは、これまでに身に付けた自分の「自然な感覚」を否定されたように感じてしまい、これへの反発心に何とか理屈付けを試みようとしているのだ。
「好ましい、好ましくない」は人間の情緒の部分だから、何を思おうが本人の自由だ。だが、それを他者に押し付けるには理性的な理由が必要だ。批判している人達には、この理性的理由が用意できない。なので、彼らがどれだけ頑張ったところで「個人的見解」の域を出る事は無いし、
 「高校球児は坊主頭であるべきだ」
に対しては
 「それって貴方の感想ですよね?」
で終わる話になる。

そもそも、成長過程にある子供たちに「道」を”究める”ところまで求めるのは根本的に間違っている。勝負を決める場面において「この一球で、肩が壊れたって良い」的な気持ちに追いやるのは、選手側が無意識的に「道」にハマっているからだ。
「究極形の技術の到達点」の為に命を削る感覚が余りに自然に刷り込まれているから、無理を押して最後の大会の為に競技者人生を懸けてしまう。
これは「道」に含まれる「後人を如何に育てるか」を軽視して、その場限りの「最高の術」へ偏重している。本来の「道」に含まれる教育的側面から考えるなら、指導者が「待った」を掛けるべき局面だ。
だが、指導者自身が人格形成など教育的「道」の世界観を理解していないと、「散る美学」にも引きずられてしまう。
選手同士の強い信頼関係に心を揺さぶられ(その実、そこでどうするか悩む自分に酔っている。一度こうなると思考の流れは止められない。悩んでいる風でいて、結論は無意識下で既に出してる)「お前の思う通りやって来い」とダメな方向で、選手に対し自由意思の尊重を行ってしまう。「自由」を選手個人に預けているようでいて、それは「壊れる事を厭わずやれ」とけしかけているのと変わらない。
高度な技術修練を経ていない者のイメージする「道」に従った練習指導は、このような形で弊害を多く生んでしまうリスクがある。
生半可な知識から始めているが為、「道」からかけ離れて行ってる事に適宜気付けない。
「精神面のトレーニングも含めて練習だ」と言うのはその通りだと思うが、安易に日本人的「道」の一般化を行わないよう、指導者側への教育も必要だと思う。これはどの競技においても言える事だろう。

一方で、かつてイチローが見せた野球へのストイックさは、まさに技術向上への飽くなき精神を感じさせ、自分を律する姿と相まって「道」的姿勢を感じさせた。
但し、「野球道」との表現には上記したように、既に他のイメージで手垢が付いたものである為、イチロー自身は「野球道」と評される事を好ましく思わないかも知れない。
大谷翔平の二刀流への挑戦も正に「野球道」だ。有名な9つの目標を1枚の紙に纏めた目標達成シートには、「メンタル」「人間性」「運」の項目まであり、完全に「道」的な「人格形成」を含んでいる。これを自ら高校1年生で作ったのだから、その時点で「道」的世界観を十分に理解していたと言うことだろう。

日本人なら誰でも持つ「道」のイメージは、一生懸命に打ち込む場であるなら何処でも適用可能だ。
逆に「道」的イメージが余りに当たり前にある為に、「一生懸命に打ち込めば、それは自然と『道』的性質を帯びてしまう」のだ。
その分、妥当性の検証も疎かな個人的競技経験に基づかない「道」の実践が練習に取り入れられるリスクは常にある。
本人的には悪気が無いからこそ、大きな弊害が露見してからでないと是正されにくいのも特徴だ。

当たり前のように受け入れているからこそ、日本人には「道」的価値観のメリット、デメリットを正しく言語化しようとの動機が生まれない。
「道」について、日本人は改めて自覚する事、「道」の再発見が必要だと思う。

<中へ続く>


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