平和道とは死ぬ事と見付けたり(補講1)

本当は、
「平和道とは死ぬ事と見付けたり」
について、

  • 上 ~ 武士道、武道から考える「道」的価値観

  • 中 ~ 芸道から考える「道」的価値観

  • 下 ~ 日本の「平和主義」が、無意識の「道」的価値観によって理想主義的、ファンタジーの世界に生きている状況

を論じるつもりでした。
ただ、「日本の平和主義」についての根本理念を語るだけでも相当な文章量となってしまった事から、基本構成とそれへの現実主義的立場からの批判を別口で「補講」として投稿する事にしました。


日本の「平和主義」における根本理念

平和主義者の普段主張している事をトレースすれば、彼らの主張が生み出される根本理念が見えて来る。

  • 非武装中立

  • 無抵抗主義

  • 絶対的護憲

  • 日本悪玉論

大体、上記4つを徹底遵守するような言論を行うと、「一丁前の平和主義者」に擬態可能だ。
今回は「非武装中立」について掘り下げてみる。

「非武装中立」とは?

文字通り、

  • 武装しないこと

  • 中立であること

を求める。
より具体的には

  • 自衛隊反対

  • 日米同盟反対

と言う事だ。
 「自衛隊がいなくなれば平和になるのか?」
 「日米同盟を解消すれば平和になるのか?」

当然ながら、そんな事はあり得ない。

現実には機能しない「非武装」論

非民主国家は自国の政治体制維持こそが最優先課題であり、自国の政治体制を揺るがす周辺諸国の動きに対し、軍事力行使を厭わず影響力を行使する。その典型例がロシアによる「ウクライナ侵攻」であり、中国による「尖閣諸島周辺での示威行動」北朝鮮による「核・ミサイル開発」だ。

そのような軍事力行使の可能性を前にして、自国の備えを全く持たないのは、相手に対し「どうぞ、攻撃して来て下さい」と言っているも同然だ。
「此方から手を出さなければ、相手も手を出して来ないはずだ」
と言う幻想は平和主義者がよく語るロジック
だが、こんな妄想に走る前に現実に向き合えと言う話だ。

東シナ海ガス田を巡る 日本 VS. 中国

日本と中国との間には「尖閣諸島」の話だけでなく、「東シナ海ガス田」の問題もある。

国際標準の排他的経済水域の境界を当て嵌めるなら、日本と中国双方にその採掘権があるガス田群が東シナ海には存在している。
だが、中国は東南アジア諸国の南シナ海の経済水域を「九段線」と言う中国独自の解釈で一方的に制限を試みるのと同様に、日本に対しても「中国の経済水域は大陸棚が落ち込む沖縄トラフまで」と勝手に制限を掛けようと試みている。

(中国の主張は、ふた昔前の国際的な経済的海洋開発へのアプローチを中国の有利になるよう意図的に曲解した上でなされている。
手つかずの資源が残される海洋を積極的に開発して行こうと言う立場から、「誰のものでも無い公海」の内、近隣国に一定範囲の独占的な権益を与えようとした話の中で、大陸棚をそこに近隣した国の権益の範囲としてはどうか?と言う主張があったのは事実。
だが、これは複数国の権益が関わるような話に対し、海洋地形によって大陸国側か島嶼国側、何方か一方を有利にしてあげようだなんて話とは全く違うのだ。
しかも、この大陸棚の開発に関する条約において、複数国家が関係した海域の時点で関係国全ての合意無しでは大陸棚指定が出来ない事が決められていたし、更には関係国の合意が無い場合は各国の中間線を権益の境界線とする基本指針も明示されていた。
古い時代の大陸棚権益の話を持ち出した上に、その話で否定されている考え方に基づき、権利を一方的に主張しているのが今現在の中国となる。
正気の沙汰では無い。
今現在の海洋権益に関しては、国連海洋法条約に基づいた領海、排他的経済水域の境界基準が存在する。
関係国が互いに同条約に基づいた主張を行い、国際法に合致する内容で合意する事が大切だ。
その結果として、多くの国で領海・排他的経済水域の境界線として採用されるのが「各国の領土から等距離となる中間線」となる。
実は、領海は領土から12海里(かいり)、約22㎞までと決めている国が大半なのだが、それは国際法で「領海は最大で12海里まで」としている事に拠る。逆に領海を狭くする分については各国の自由だ。
自国の領海を守り、管理するにもコストが必要な為、そこに採算性を見出せない国は領海を完全に放棄する事も可能(普通はしないが)。
日本について言えば、領海は基本的に12海里だが、国際海峡(津軽海峡や大隅海峡など)については国防上の理由から3海里、約5㎞に設定している。

ちなみに、オランダのハーグには国際紛争平和的処理条約に基づいた常設仲裁裁判所があり、フィリピンと中国の間で南シナ海を巡る海洋権益に関する裁判が行われた。
2016年に出された判決では、フィリピン側の主張が全面的に認められたのだが、中国はその決定は無効であり受け入れないと突っ撥ねた上に、共産党幹部が「たかが紙きれ」と切って捨てた事も大きく報道された。
国際平和を維持する為の条約に中国自身も参加していながら、この態度なのだ。
 「私たちは国際法による平和と安定に対する脅威です」
 「平和を愛する世界の敵です」

と自認したに等しい。
そして、このような中国に対し、日中関係を改善する事だけが国際平和に繋がると信じて疑わない「日本の平和主義者」は頭がどうかしている。)

中国は東シナ海ガス田の内、その全てが中国側にあるガス田について先に開発を進めており、日中両国にガス資源がまたがるガス田については両国政府の懸案事項として何らの決着も付けられない状態が続いた。
小泉政権下では小泉総理が対中国で厳しい姿勢を取ってはいたものの、2005年に親中派の大物議員、二階俊博を経産大臣に据えた事で、ガス田問題を職掌とする経産省にも対中ソフト路線が敷かれるようになる。そして、ここを突かれるように中国によって日本に無断で両国経済水域にまたがるガス田へ、一方的な開発を進められてしまう
致命的だったのが、民主党政権だ。その前年、麻生太郎内閣では中国の一方的なガス田開発に待ったを掛け、日本企業の採掘参加を認めさせ、新規採掘においてガス資源の折半で話を付けていた。これが鳩山政権成立後、中国側から一方的に日本の取り分を全体の1割とする改悪案を提示され、これを受け入れてしまう
さらに、菅直人政権において「中国漁船衝突事件」が発生する。尖閣周辺で挑発行動を行った漁船が海上保安庁の船に体当たりをかました故意による危険な犯罪行為であり、これ自体、到底許す事の出来ないものだ。
だが、中国共産党は日本が中国人船長を逮捕した事に対し烈火の如く怒り、菅直人政権はこれにビビり散らかす。どうしたら良いのか分からず右往左往し、時の外務大臣がアメリカに仲介を依頼し泣きつく情けない状況に陥る。そして、中国側はこの腰砕けになった日本政府を横目に、それまでと段違いの規模で、東シナ海ガス田開発を猛烈に推し進める事になった。当然、日本の取り分なんてものは無い。「衝突事件」で有耶無耶にされたのだ。
多くの日本人(多分、9割以上だと思う)はほとんど意識していないが、実際に日本は中国によって、本来得られるはずだった地下資源を奪われたっきりになっている
この問題を政界もマスコミも、完全に忘れ去っている。

「中国漁船衝突事件」の余波 中国 VS. ベトナム

しかも、この時の日本の弱腰対応は2014年、ベトナムと中国との間で発生した南シナ海海底油田の権益を巡る衝突にも影を落としている。
中国は一方的にベトナムの排他的経済水域内の海底油田の掘削準備に取り掛かり、これを防ごうとしたベトナム側艦船に対し放水、威嚇射撃を行うなど徹底抗戦の姿勢を見せた。
これに怒ったベトナム人は、国内にある中華系企業への押し掛け、破壊行為に及ぶなど、大規模な反中デモが繰り広げられた。(2014年ベトナム反中デモ
日本企業の在ベトナム工場も入口には漢字表記の看板が掲げられている事から、勘違いによる襲撃を避ける為、入口に日の丸を掲げたり門に掛けるなどして日本企業である事をアピールした。
また、この時期、海運による輸入品を開封した際に明らかな人糞が混入している事件が複数発生したが、これもベトナム発、或いはベトナム経由の日本向け貨物に対し、漢字表記の宛名がある事から宛先が中国だと勘違いしたベトナム人による嫌がらせ行為だった事が明らかになっている。
まだ10年経っていないが、多くの日本人が忘れてしまっている事だろう。
このように、実は日本との関係も少なくないベトナムの反中デモだったのだが、中国が見せたベトナムへの強硬姿勢の方にも日本との関係性があったのだ。
ベトナムと中国の二国間関係を大きく毀損する出来事になった海洋権益を巡る複数回の衝突について、人民解放軍関係者が中国国内向けの新聞にてこのように語っている。
「ベトナムよりずっと装備の充実した日本でさえ、我が国に恐れおののいて何も出来ずに東シナ海の権益を失ったのに、ベトナムがこのように強硬な態度を取るとは意外だった」
要は、日本が本来持っている実力組織、海洋装備品の質から見て、余りにもか弱い対応しか取らなかった事で、中国人民解放軍は誤認をしたのだ。対日本で得られた戦果を人民解放軍の威光によるものと解釈し、それによって日本より明らかに装備品の劣る南シナ海沿岸諸国を人民解放軍は侮り、周辺海域での威圧的行動に拍車が掛かったと言う話だ。
「日本がまともな対応を取らなかった事で、南シナ海沿岸諸国はより中国の圧力に苦しめられる事になった」のだ。
中国が他国の権益を奪う行為を、日本が間接的に支援したに等しい。

弱腰外交とは、現実世界に「平和」では無く「混乱」と「暴力」をもたらす。
それをまざまざと見せ付けたのが、「東シナ海ガス田」問題「南シナ海海底油田」問題だ。

(ちなみに、菅直人政権の弱腰外交が散々批判された際、仙谷由人官房長官「弱腰ではなく柳腰だ」と反論した。
本人的には「柳のようにしなやかに、ぶつからず折れない」的なニュアンスで巧い事言ってやった感を出して得意げだった。
だが、「柳腰」には「女性の細いしなやかな腰」「美人の腰をたとえた表現」との辞書的意味しか無い。
個人言語の範疇として造語表現を用いたと言うのなら(賛同するかは別にして)まだ分からないでもないが、意図するところが多くの人に伝わらない造語の時点で巧い事言った感を演出するのは到底無理な話だ。
こういう減らず口を叩く大臣、言うべき事は何も言えない癖に言わなくて良い事はポンポン言う大臣を量産したのが民主党政権と言う暗黒時代だ。
正に日本の黒歴史と言うしかない。)

そして、本当にビックリするくらい、こう言った現実問題について、日本人は何も知らない。
メディアが問題意識を生じさせないよう、日本の権益が奪われた事も、日本の対応が誤っていた事で第三国にまで迷惑が掛かった事もまるで報じないからだろう
ベトナムの反中国デモは日本国内でもそれなりに報道されたし、人糞混入事件も当時はかなりのインパクトを以て受け止められた
にも関わらず、この話題で日本の弱腰外交の負の影響があった事実を地上波放送で観た記憶が無い。一部あったのかも知れないが、国民の認知はほぼ無いに等しいだろう。
ここまで来ると、「知らない事の罪深さ」を意識せざるを得ない。
力の信奉者である非民主国家に対し、
 「非武装でいれば平和を実現できる」
と主張する事がどれだけアホらしい話なのか、日本人は知るべきだ。

平和主義者の抱く「中立」への幻想

「中立宣言」とはズバリ「潜在敵国認定を甘受する立場表明」

更に、「『中立』である事が平和に繋がる」と言うのも完全な幻想だ。
ある国々が対立し、戦争に発展した時、「中立志向」平和主義者「中立である事は、何方の戦闘行為にも加担しない事であり、双方と良好な関係を保ちつつ、平和を実現する為の唯一の道」だと考える。
だが、現実はそうならない。
双方から「潜在的な敵である」と認識される事になるのだ。

そうなる理由は簡単で、厳密な中立性を維持しようとするのは、双方に対して何らの支援もしない事を徹底的に求められるからだ。
「中立国」「交戦国」に対し、軍事活動で必要とされるような物資、船舶や武器等も提供してはいけないし、資金の貸し付けもいけない。およそ、戦争前には日常的に行われていたあらゆる行為に制限が付く事になる。

少し余談:宣戦布告が減ったワケ

この制限は別に私が勝手に想定したモノではない。
事実として、国際法で取り決めた戦争の作法として存在しているのだ。

元は、中立国を装って「攻撃に晒されるリスク」を最小化する一方で、裏では何方かに戦争支援を行うような行為を禁止する意味合いがあった。
だが、結果として中立国に対してかなり強烈な縛りを要求され、その上に経済活動も自動的に縮小せざるを得ないなどデメリットばかりが大きくなってしまった。
交戦国にとっても戦争継続する為に不可欠な経済的パートナーを失うリスクが生じる。

交戦国にしても、両国と関係を持つ友好国にしても
「『今現在戦争をしている』と認めてさえいなければ……(溜息」
と言う状況になる。

この為、第二次大戦以降、「宣戦布告」を伴う戦争はかなりレアケースになった。
「宣戦布告」は「私たちは貴方たちと戦争を行います」との通告であり、これによって当該国は「交戦国」となる。交流のある第三国は自らも共に戦う「交戦国」に加わるか、「中立国」として各種取引の大幅な制限を受けるか、何方かを選ばざるを得なくなる。
これが「宣戦布告」を伴わない戦争だと、「中立規定」が非常に曖昧になる。それまでとほぼ同じ民間取引を行っていても問題視されない。戦争の当事国が「交戦国」だと主張しない為、第三国と今まで通りの関係継続で良いと思っているなら、それまでなのだ。
このような理由から「宣戦布告」は余り行われなくなり、代わりに主流になったのが
 「自衛権行使の一環としての軍事行動」

 「国連安全保障理事会決議違反を理由とした懲罰的軍事行動」だ。

 「あくまで私たちは自衛の範疇で軍事行動を起こしたに過ぎません」
または
 「貴方たちが国連安保理決議違反の状態から何らの是正も行わない為に、我々は軍事行動せざるを得なくなったのです」
との立場から先制攻撃を行う。
また、こうなると相手国も当然、名目的には「自衛権行使としての反撃」を行う。
お互いが「戦争を行っている訳では無い」との体裁で「事実上の戦争」が行われ、第三国は「中立規定」に縛られる事無くこれまで通り各種活動が可能になる。

時代を経て、戦争の始まり方は大きく変化した。
戦時中立国の宣言など、現実の世界ではほぼ機能しなくなった。
にも拘らず、日本ではこう言った事実すら正しく認識できてない「平和主義者」「中立こそ正しい道」だと思い込み、政治的アピールを行っている。
この事実だけで、「平和主義者の言う事には説得力が無い」のが明らかなのだ。

閑話休題。

戦争当事国としてみれば、苦しい時に助けてくれない隣人など敵と変わらない。今すぐ二正面作戦を取るのは自分達を更に窮地に追い込むだけなので、露骨に態度を見せる訳では無いが、中立である事を選んだ第三国に対し、「中立になってくれて有難う」と感謝する事など無い。
普段友好的な態度を見せていたなら、それだけ失望も大きくなり、信用ならない相手だと認識されるようになる。
「中立」である事を「平和に資する態度」と信じる事自体が幻想に過ぎないのだ。

国連憲章第51条 「自衛権尊重の精神」を正しく理解する

更に、国連憲章第51条について、正しい理解をするならば、軍事同盟の必要性を認識せざるを得なくなる。

国連憲章 第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない
この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。
また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持又は回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。

国際連合広報センターHPから引用

国際連合は、設立当初には「国連軍」創設を考えていた。
第二次世界大戦の戦勝国側である連合国が協力して戦ったように、また何らかの軍事的侵略が発生した際には、「国連軍」がこれに対処する事で世界の治安、平和を維持可能となるのでは?との幻想があった。

だが、現実的にはこの「国連軍」の指揮命令を誰がどんな立場で取るのか?と言う問題が残る。
「世界政府が存在しない現実世界」において、「全世界的軍隊」を生み出す事は机上の空論でしかないのだ。
更に、第二次世界大戦終戦から間もなく、民主主義国家社会主義国家による対立が表面化する。「冷戦」の始まりだ。
「冷戦」によって、「国連軍」構想は完全に夢、幻となったのだ。

そして、現実的な侵略戦争への備えとして、「個別的自衛権の行使」「集団的自衛権の行使」の両方が認められた

国連憲章第51条とは、より具体的に噛み砕いて説明すると、世界の何処かで軍事的紛争が発生した際、国連としての対応が決まるまでの間は、「自力、もしくは同盟国との協力で持ちこたえていてくれ」と加盟国に向かって言っているのだ。
単独よりも同盟国の協力を得て行う抵抗の方がずっと強力だ。
ウクライナ侵攻においても、ウクライナ単独の抵抗だったならば、ここまで持ちこたえられなかっただろう。(但し、ウクライナは西側諸国との軍事同盟は結べていない。)
NATOでは加盟国1国に対する攻撃は、全域への攻撃と見做して反撃する事になっており、もしウクライナがNATOに加盟していたならば、ロシアも迂闊に手を出す真似はしなかったろう。ウクライナ侵攻によって、強大な軍事国家の周辺国にとって、軍事同盟の大切さが改めて周知されたのだ。

ロシアの語るウクライナ侵攻の停戦条件

ロシア側から、「ウクライナが『非武装中立』の立場を取るのならば、停戦に応じても良い」との考えが提示された。
そもそも、クリミア半島を力による現状変更によって一方的に奪ったロシアの言う事だ。
ウクライナが「非武装中立」を守った所で、永久に攻撃されない確約を得られたと考えるのは世間知らずにも程がある。
2014年のクリミア半島占領に続いて、ウクライナ東部2州に反ウクライナ政府活動を行う武装組織を置き、事実上のロシアによる支配を続けていたのだ。
建前としてはあくまで「東部住民の民意を尊重する」としながら、ロシアの息のかかった人間を前面に出し、ウクライナからの分離独立を要求させ続ける。
国家分断の卑劣な手法を取り続け、最終的に武力に訴えてウクライナ全土をロシア支配領域にしようとしたのがウクライナ侵攻だ。
仮にウクライナが停戦に応じたところで、停戦の時間的猶予はロシアに戦力回復の機会を与えるだけであり、十分な戦力を用意出来たとロシアが思ったタイミングで再度、ウクライナへの攻撃を行うだろう。
プーチン、及び旧ソ連支配領域への貪欲さを見せるロシア右派が政権に関わる限り、この好戦的な態度が転換される事は無いだろう。
そして、この好戦的なロシアの要求が「非武装中立」である事からも、「非武装中立」とは軍事的目的を達成したい勢力にとって都合の良いスタンスでしかないと言う事だ。

ロシアと言う超好戦的な国家によって、「非武装中立」論が如何に滑稽で話にならないモノであるか、証明されてしまったのだ。
そして、日本の「平和主義者」はまたしても「ウクライナ侵攻」から目を逸らし、空想の中の「平和」を求め彷徨い続けるのだ。

繰り返し言う。
「中立を志向すれば、自国は平和を享受できる」
なんて主張は、現実から目を背けただけの空疎な幻想に過ぎない

「平和主義者」が大好きな「国連第一主義」だが、実は「国連の言う事を正しく聞けばこそ、日米同盟は大事」となる。
 「国連があるのだから、軍事同盟なんて野蛮なモノは必要無い」
なんて主張は説得力の欠片も無い。
日米同盟を維持し、仮に『力による現状変更』を目論む危険な存在によって侵略の危機に晒された場合には、同盟国アメリカの協力を得て全力でこれを防ぎ切る
これこそが国連から託された世界秩序の維持への貢献となり、侵略戦争を地球上から無くす事に繋がるのだ。

独りよがりの「非武装中立」など、国際社会の目指す「平和と安定」から遠ざかる妄想でしかない。

<「平和道とは死ぬ事と見付けたり」補講2へ続く>


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