映画「エリン・ブロコビッチ」を見て考えた価値と評価とお金のこと
訴訟裁判がテーマなのに、価値と評価とお金について考えさせられる。
そんな映画を見た。
「エリン・ブロコビッチ」だ。
この映画のテーマは、巨大企業相手への公害訴訟である。
これに挑むのが、主人公のエリン・ブロコビッチ(上記のパッケージの女性)。エリンは3人の子持ちで無職、貯金残高が16ドルのどん底だった。
しかし、働くことになった法律事務所である資料が目に止まる。その資料をきっかけに、エリンは巨大企業が隠す環境汚染を暴いていくストーリーだ。
こう書くと「なんだ、よくあるサクセスストーリーの映画か」と思うかもしれない。たしかに、サクセスストーリーではある。
だが
・命(健康)の価値、評価、お金
・仕事の価値、評価、お金
についても考えさせられるのだ。
この映画は、ただのサクセスストーリーではない。
あなたの価値観、評価、お金の考え方を揺さぶる映画である。
*ネタバレ含む記事なのでご注意を
お金じゃない!正義や名誉、損害の大きさの評価としてのお金
映画では、企業の環境汚染によって地域住民が苦しむことになる。
彼らはエリン達とともに原告団を結成し、巨大企業への訴訟へ踏み切るのだ。
原告団とは
民事訴訟(行政訴訟も含まれる場合もある)を
提起した原告の人達のこと。
出典:はてなぶろぐタグ
原告団のメンバーには、重症患者や癌で苦しむ子供も含まれていた。
そんな原告団は
お金のために裁判するのではない
と強く主張していた。
これは、正義や名誉が最大の目的だからだろう。巨大企業が犯した罪に対して「それ相応の対価を払うべきだ」という信念があるためだ。
ただ
お金のためじゃないなら、原告団はそこまで要求額を上げなくてもいいのでは?
と思うかもしれない。
でも、賠償額や和解金は評価の一つとして機能する。
だから、原告団のメンバー達は
お金が欲しいというよりも、企業が犯した罪の重さの「適正な金額」が欲しい
のだと推測する。
ここでの賠償額や和解金の「金額」は、ことの大きさを表す役割だ。一つの指標として意味がある。
例えば、公害で病気になっている人や亡くなっている人が多くいるのに、和解金の金額が数万円だとしたら、原告団は「馬鹿にされている」と感じるだろう。
一方で映画のラストシーンには、被害者の女性が嬉さのあまり涙する。和解金と分配金の額を、その女性に伝えるシーンだ。
和解金のうち500万ドルが分配されることになり、その女性は思わず涙を流してしまう。
この涙は、一生暮らせる金額を得た喜びよりも、巨大企業に罪を認めさせた喜びが大きかったのではないだろうか。
悪事を働く企業に対する怨みや怒りが。やっと報われた想いだったのではないか。
金額は、評価の象徴になりうる。
プロ野球選手はなぜ契約更新で揉めるのか
別の話題から評価と金額を考えてみる。例えば、プロ野球選手が契約更新で揉める場面だ。
もちろん、揉める背景には「お金が欲しい」という理由もあるだろう。
だが、どちらかというと
「自分の仕事の結果・成績」
に対して、どれくらい球団が評価してくれているかに対して、揉めているように思う。
自分の仕事をどれだけ認めてくれているかを、知りたがっているのではないか。
参考記事
AERA.dot「「誠意は言葉ではなく金額…」 年俸交渉で“絶対に譲らなかった”選手たち」
エレンも「私の仕事を正当に評価して!」と要求し続けた
映画の主人公のエレンも、仕事を進めるたびに「給料をあげて!」と何度も上司へ迫っている。
もちろん、彼女は3人の子供達を育てるシングルマザーであり、より多くの給料を望んでいたことは間違いない。
しかし、それだけではない。
巨大企業の嘘を暴き、多くの和解金を被害者へ分配したいという使命感があった。
また、エレンは自身の仕事の価値を体感するようになっている。
だからこそ、エレンは
For the first time in my life I’ve got people respecting me.
(生まれて初めて人から尊敬されたの。)
と語っていたのだろう。
このように「昇給して!」と上司に迫るエレンの行動は、売り込みや説得とも違う気がする。
自分の仕事の価値を、相手がわかるまで何度も刷り込んでいたとも言うべきか。
映画でのエリンは少し強引な面はあるが、常に自身がやっていることに価値を感じていた。
だからこそ、臆することなく
給料を上げて!昇給して!
と主張し続けられたのだろう。
価値と価格が乖離しすぎると
ただ、むやみに要求額を上げればいいわけではない。価値と価格が乖離すると、人からの反感を生む。映画とは別の身近な例で考えてみよう。
例えばTwitterだ。最近話題になっていたのは、価格に見合わない有料コンテンツについてだ。
一つが積立NISAについての有料note。もう一つが、SEOについての情報商材だ。
あえてここでは該当するページを記載しない。
ただ、価値と価格がかけ離れている例は、あなたのまわりにも意外とあるのだ。
嘘や不正は隠され続ける
ここで、公害を隠していた巨大企業を考える。
おそらく、指摘されなければ嘘や不正は隠され続けた。
これは恐怖である。
というのも、金も知恵も豊富なる大企業が、嘘を隠すためにあらゆる手を尽くしていたからだ。証拠がなければ隠し続けていただろう。
恐怖の理由は別にもある。
それは、この映画が20年前の2000年製作であるにも関わらず、妙に臨場感があったからだ。
その背景には、インターネット社会となった現代においても、不正や嘘をつく企業のニュースが後を絶えないことにあると思う。もちろん企業だけではなく、個人で平気で嘘をついている人も含まれる。
インターネットでは、さまざまな情報やデータを調べられるようになった。
しかし、その情報も改ざんされていないとは限らない。また、嘘や不正なデータである場合もあるだろう。
このように、現代も嘘や不正は隠され続けることがある。
金額だけではなく、価値を見る
金額や評価は目に見えやすい。
一方で、物事の価値を見抜くことは難しい。
しかし、だからこそ、価値を考えることが大事になる。
例えば映画では、エリンが裏をとるためのリサーチや取材を徹底していた。だからエリンは、公害の深刻さや訴訟をするべき「価値」に気付いていった。
その結果、エリンは
・裁判での賠償額:3億3300万ドル
・うちエリンの報酬:200万ドル
という結果を手にしたのである。
もちろん、エリンはお金のためではなく「巨大企業の噓で被害に苦しむ人を救いたい思い」が第一にあったはすだ。
では私たちが価値を考える場合、どうすればいいのだろうか。
まずは自分で情報を疑い、徹底的に裏をとることだ。その証拠やソースをたどるのである。
他にも、信頼できる人的なネットワークをもつことも重要だろう。
いずれにしても、価値を見抜くことは難しい。しかも、考え続けなければそれはわからない。
だが、そこで自分自身が気付いた「価値」は、何ものにも代えがたい。
それこそ「エリンが勝ちとった賠償額:3億3300万ドル」以上のものかもしれない。
それに気付いたのなら、それ相応の「評価」や「金額」の要求は大いに「アリ」だ。
最後に、エリンの言葉を紹介して終わりにしたい。
Not personal! That is my work, my sweat, and my time away from my kids! If that is not personal, I don't know what is!
(個人的じゃないって!?これは私の仕事で、私の汗で、子供達をほったらかしにしてまでつくった時間でやったのよ!個人的じゃないって言うんだったら、何だって言うのよ!)
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