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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(38)

〈前回のあらすじ〉
 母親が入院している間、僕は母親に付き添い、母親の背中に語り続けた。それで、母親を餓死寸前まで追い込んだ償いになどならなかっただろうが、それでもそうした二人だけの時間は、僕と母親にとって、とても貴重な時間だった。それを黒尾はわかっていたのか、入院している間に母親を見舞うことはなかった。でも、退院のときにはロビーで待ち構え、母親と僕をねぎらってくれた。そうした黒尾の掛け値のない振る舞いに、僕の心には肉親を慕うような親愛が芽生え始めていた。

38・大事にしているピッピのことなら、竹さんは大丈夫

 ラッコの赤ちゃんの名前は、「ナギ」に決定した。母親の名前が「ナミ(波)」だったこともあり、風がなく波の立たない静かな海の状態を表す「凪」に多くの票が集まった。それに日本神話で国生みをした「イザナミ」と「イザナギ」をかけると、市長や議長、館長などの上層部も、その名であれば多くの人に長く愛されると、満悦だった。

 水族館での新たな命の誕生は。想像以上に対外的な話題となり、「ナギ」という名に投じた多くの応募者の中から抽選で選ばれた地元の主婦への旅行券の授与は盛大に執り行われ、多くの新聞社の取材も受けた。停滞していた水族館の動員数も、これで息を吹き返すと、職員たちも高揚していた。

 だが、そんな中、僕だけは彼らの高揚に足並みを揃えられないでいた。

 母親の救急搬送の騒動があって、ラッコの赤ちゃんの名前を決める事務処理から離脱していたこともあったが、なんとか授与式の準備に間に合うように出勤したものの、雑然とした事務所に思わぬものを見つけて、困惑してしまったからだ。

 盛大な授与式が執り行われている間、裏方の僕は応募のあった投票用紙や郵送されてきたお祝いのメッセージなどを片付けていた。その中には、随分と埃っぽい段ボールが一つ紛れていた。それは、五年前にピッピの名前を公募したときの資料だった。

 その資料の中には、今回ラッコの赤ちゃんの名前を決定するための参考とすべき選考基準や、式典の式次第などの資料が収められていたのだが、おそらく高木が今回の授与式の参考にするために引っ張り出してきたのだろう。

 しかし、不思議だったのは、本来受賞者に渡されるべき目録までもが残っていたことだった。

 授与式の予行のためのサンプルかと思って開いてみたが、思いがけずその中から数枚の旅行券が出できたので、僕は驚いた。それから、当時新しくこの水族館にやってきたメスのマナティーのために絞られたいくつかの名前と票数を印字した集計表が出てきて、それに添付された当選者の名前を見て、僕は息を飲んだのだった。

〈当選者:逸見直(二十二歳・静岡県静岡市清水区)〉

 僕は自分の目を何度も疑い、混乱する思考を整理してはまたその名を確かめて、また混乱をした。幾度となく深呼吸しても、なかなかその動悸は収まらなかった。

 何度読み返しても、それは僕の兄の名前に違いなかった。

 式典が終わり、職員が事務所に戻ってくると、ピッピの資料が詰まった箱の前で立ち尽くす僕を見つけた高木が、おもむろに声をかけてきた。

「珍しい名前だから間違いないと思うけど、お前の兄貴じゃないのか?」

 僕が母親の世話にかかっている間に、彼らはこの資料を見つけて、侃侃諤諤、受賞者の素性について語ったに違いない。

 応募した用紙を紐解いても住所は静岡県になっているし、僕が面接のときに持参した履歴書にも、家族構成には母親しか記載していなかったので、僕と逸見直という当選者を直接的に結びつけるものはなかった。しかし、かおりにはいくらか直のことを話していたし、何よりその珍しい姓が職場の誰もに、僕と当選者のつながりを確信させていた。

「知っていたのか?」

 高木が目録を手に持ったまま俯いている僕の顔を覗き込んできた。

「何をですか?」

 僕はその時になって、自分に話しかけているのが高木だと改めて気づいて、わずかに身を引いた。

「自分の兄貴が、ピッピの名付け親だったことをさ」

 怪訝な面持ちの高木に、僕は黙って首を横に振った。

「どうして受賞を辞退したんだろうね?」

 僕の背後から目録を覗き込んでいた館長が、紅白の胸章を外しながら、不思議そうに呟いた。

「それより、どうして当時地元を離れていた兄が、マナティーの名付け親になろうと思ったのか、それが僕にはわかりません」
「仲が悪かったのか?」

 高木の言葉は、いちいち僕の気持ちを逆撫でした。

「歳が離れていましたし、僕が兄とまともな会話ができるようになった頃には、兄はもう家を離れていましたから」
「あ、そっ」

 面白い話に展開しそうにないとわかると、高木は踵を返して宿直室に消えていった。それと入れ替わるように、かおりが僕のもとに歩み寄ってきた。

「わたしが最初に気づけばよかったんだけど、運悪く高木さんが一番に目録を見つけちゃって」

 出来の悪い子の失態を詫びてまわる母親のような面持ちで、かおりが僕に頭を下げた。

「別に気分を悪くしているわけじゃないよ。ただ、どうしてこんなものがここにあるのか、整理がつかないでいるだけだよ」
「必要であれば、この資料はまだ片付けないでおくよ」
「いや、十分だよ。ピッピの名付け親が僕の兄だってことは、揺るぎない」
「ねぇ」

 かおりは唇の端に人差し指を当てながら、僕を見上げた。唇に指を当てるのは、何かを考えるときの彼女の癖だ。

「当時のことなら、竹さんが覚えてないかしら?」
「どうかな?」

 かおりが提言したとおり、五年前の水族館のことは、五年前にこの水族館に在籍していた唯一の職員である竹さんが知っているはずだった。だが、そもそも飼育係の竹さんは、事務的な仕事とは無縁だったし、カツアゲだと認識することもできずに高校生に紙幣を配ってしまうような竹さんに、五年前のピッピの名付け親について訪ねても、何か手がかりが得られるとは考え難かった。

 でも、かおりは僕がよぎらせた不安を、一蹴した。

「大事にしているピッピのことなら、竹さんは大丈夫」

 そう言って、僕の返答を待たずに事務所を駆け出ていった。

 僕は慌ててかおりの後を追い、白い蛍光灯の光に照らされた通路を、飼育棟に向かって走った。

竹五郎さんとマナティー(39)につづく……

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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