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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(70)

〈前回のあらすじ〉
 まことたちはようやく福島に戻ってきた。日暮れ前、黒尾はワンボックスカーを廃墟と化したガスステーションに乗り入れた。そこで諒は災害に乗じて盗みを働く人間の勝手さを目の当たりにして嘆いた。しかし、黒尾は本当に愚かなのは奪ったまま還元しないことだと戒めた。そして、人間には理性があり、知恵もあり、それを失わない限り、野獣には成り下がらないとも言った。

70・動けば、変わる

 幼少の頃から暮らしてきた僕の家がある住宅街は、海岸から離れていたし、市街地よりも小高い台地の上にあったので津波の被害はなかった。しかし、地震による何らかの被害はどの家にも見られた。

 完全に倒壊した家こそなかったが、屋根の瓦が落ちていたり、窓ガラスが割れている家が多かった。ブロック塀の殆どはひび割れ、中には根本から倒れている場所もあった。地震の揺れに驚いて逃げた犬たちが飼い主のいなくなった家に戻っていたが、そこにはすでに人気がなく、彼らは途方に暮れて住宅街を彷徨っていた。

 黒尾はミネラルウォーターの配達で通い慣れた道を、ひび割れたり隆起した場所を避けながら徐行して進み、僕の家の前にワンボックスカーを止めた。

 僕の家も類に漏れることなく、外壁の所々にひび割れが走っていた。しかし、ガレージに置かれたままの僕のマウンテンバイクとただしのロードバイクは、相変わらず仲のいい兄弟のように寄り添ったままそこにあった。僕はワンボックスカーの後部座席から下り、家に駆け込んだ。

 玄関の施錠はされておらず、すぐに開いた。玄関には僕が清水に旅立つ前に黒尾が納めた『金環水』の山があるはずだったが、一つ残らず消えていた。わずか四日の間に母親が一人で飲み干したとは思えなかった。もしかしたら、山間のガスステーションのように、我が家に山ほどのミネラルウォーターが置いてあることを見つけた何者かが、地震の混乱に乗じて盗んでいったのかもしれない。僕は腹の底から湧き上がってくる悔しい気持ちを抑えて、居間にいるはずの母親を呼んだ。

「お母さん、いる?お母さん!」

 しかし、居間から母親の返事はなかった。いつも垂れ流されているテレビの音も母親の読経の声も聞こえなかった。もしかしたら、仏壇の下敷きになって気を失っているのではないかと思い、僕は慌てて土足のまま家に上がり、居間の襖を力任せに開けた。

 しかし、そこに母親の姿はなかった。ただ、どことなく人の体温に似た生活感は残っていた。今は姿がないが、ちょっと前までそこにいた。あるいはもう少し経てば、ここに戻ってくる。そんな人の気配が残されていた。

 ふと、仏壇に目をやると、父親と直の位牌と写真がなくなっていた。それを見て、僕は母親がどこかに避難しているのだと察した。

 玄関に戻ると、そこに黒尾とかおりが立っていた。

「どうだった?」

 黒尾が心配そうに僕に尋ねた。かおりは万が一のことがなかったかと怯え、黒尾の陰で身を縮めていた。

「いませんでした。きっと、どこかに避難していると思います」

 母親の安否はまだ確認できていないが、一先ず自宅で身動きが取れなくなっていたり、人知れず絶命していなかったことに、僕らは胸を撫で下ろした。

 その時、僕の家の前に止めていたワンボックスカーの脇を、赤十字の旗を掲げた自衛隊の中型トラックが走り抜けるのを開いた玄関ドアの向こうに見た。

 僕らは家を飛び出し、オリーブ色のトラックの行き先を目で追った。

「もしかして、公民館かな?」

 僕がそう言い終わるや否や、黒尾がトラックのあとを追って走り出した。僕とかおりも慌ててそのあとを追いかけた。

 底に溝のない革靴を履いていたというのに、黒尾はジョギングシューズでも履いているかのように軽やかに走った。公民館の手前の路肩に停車した自衛隊のトラックを追い越すと、黒尾は迷わず被災者でごった返す公民館に飛び込んでいった。

 僕はといえば自転車で水族館まで通ってはいたものの、歩くことや走ることは得意ではなかったので、とても黒尾のスピードにはついていけなかった。歩幅も小さくふくよかなかおりは尚更だった。

 そのうち中型トラックから車体と同じ色の作業服を着た自衛隊員が降りてきて、手慣れた手順で荷台を開き、そこから段ボール箱や木箱を下ろし始めた。彼らはそれを公民館ではなく、そこに隣接する公園に運び込んだ。僕は彼らの様子を伺いながら、徐々に走る速度を落とし、やがて立ち止まった。

 公園は被災者への炊き出しのために使われていた。彼らが運んでいたのは、レトルト食品や缶詰や飲料水のようで、それらは公民館と公園を隔てるコンクリートの階段のあたりに積み重ねられた。

 その手前には二つのタープテントが建てられており、その下で火をおこし、何人もの女性たちが食事の支度をしていた。並べられたテーブルの上にはいくつものクーラーボックスが置かれていた。恐らく出来上がった豚汁や白飯が収められていたのだろう。そこに長い人の列ができていた。

 公園の広場の所々には、ドラム缶や一斗缶で焚かれた火を囲む人の輪があった。公園を取り囲む遊具では、この事態の中でも子供たちが楽しそうに遊んでいた。

 その光景を見て、僕は少し安堵しながらも、僕の故郷を襲った自然の驚異を、現実のものとして受け入れた。

 ガスステーションが荒らされていたり、住宅街が崩壊していても、どことなく映画の撮影セットを見ているかのように、現実味が乏しかった。恐らくそこに人の体温や声がなかったからだと思う。しかし、こうして被災者が焚き火で暖をとったり、空腹を満たすために炊き出しに群がる様子を目の当たりにすると、僕はとてもいたたまれない気持ちになった。どうして僕たちがこのような被害に遭わなくてはならないのかという憤りと、果たして僕らはこの先どうなってしまうのだろうかという不安が、僕にのしかかっていた。

 その時、クーラーボックスに満たされた豚汁のようなものをお玉で掬って被災者に配る人の中に、見覚えのある服を着た人がいるのに気付いた。公園の垣根越しに眺めていたから、その人の顔を正しく認識することはできなかったが、僕には確かにその人・・・だという確信があった。

 なぜならその人が着ていたのは、直のピーコートだったからだ。

 外界を遮断し、人との関わりを避けてきた僕の母親が、被災者を救うべく先頭を切ってボランティアに勤しんでいたのだった。

「おい!何やってんだ!被災者が寿司詰めで、とてもお母さんを見つけられないんだ。早く手伝え!」

 公民館から出てきた黒尾が、ひび割れたアスファルトの上に立ち尽くして公園を眺めている僕を見つけて怒鳴った。

「いました」

 僕がそう言うと、「はぁ?」と気の抜けた声を吐いて、黒尾は不思議そうに僕の視線の向こうを見た。やがて、息を切らしたかおりも僕に追いついて、僕の腕に縋って呼吸を整えた。

 そこにいる人たちは皆着の身着のままで避難していたのだが、その中で紺色のピーコートを着ている母親はひどく浮いていた。

 避難するときに自分の服を手に取るのではなく、わざわざ二階の直の部屋に行き、ピーコートをとって家を出たのは、母親も僕と同じように直が何を考えていたのか知りたかったからじゃないかと、僕は思った。そして、同時にこの災難を乗り越えるために直に背中を押してもらおうとも思っていたのではなかろうか。

「ほぅ」

 公園の光景を眺めながら僕のそばに歩み寄ってきた黒尾が、感心していた。

「動けば、変わるもんだ」
「えぇ、母親にあんな行動力があるなんて、僕も驚きました」
「違うよ。動いたのはお前だろ、まこと

 そう言って、黒尾は嬉しそうに僕の肩を小突いた。

 水族館で思いがけず五年間眠り続けていた直のメッセージを見つけたことから、僕は直の死の意味のようなものを解明しようと旅に出た。その時、母親は襖を開けて、僕を見送ってくれた。きっと母親は、この旅でどのような答えが出ようと、僕が直を救ってくれるのだろうと信じたのだと思う。

(直を連れて帰って)

 母親は直が青春期を過ごした街へ旅立つ僕にそう言った。

 その言葉には、残された僕らの心の底に燻っていた直の死の衝動を解き明かしてほしいという願いだけでなく、僕がまだこの世のどこかに彷徨っている直の魂に辿り着くだろうという確信に近い信念が込められていたように思う。だから、僕が僕の成すべきことを果たして帰って来たときに、母親も自分自身の殻を破らねばならないと覚悟を決めていたのだろう。

 恐らく今まで僕らの家族を忌まわしいものと敬遠してきた人たちには、母親の突飛な行動は気味悪がられたかもしれない。でも、母親は信念を貫いた。清水から戻った直の魂に背を押されて。

 配給をしているテーブルの足元には、僕の家の玄関に積み上げられていた『金環水』の段ボール箱やサーバー用のタンクが積み重ねられていた。

 その光景を眺めていた僕は、自分でも気づかないうちに瞳から涙をこぼしていた。その様子を見上げていたかおりも、どうやらもらい泣きをしているようだった。

「さて、そうなると、ここには長居しなくても良さそうだな」
「はい」

 僕が返事をすると、黒尾は走ってきた道をゆっくりと歩いて戻っていった。

「ねぇ、声をかけなくてもいいの?」

 かおりがM65の袖を引っ張りながら、僕に言った。

「いいんだ」

 僕は涙を拭い、未曾有の災害には似つかわしくない晴天を見上げた。 

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(71)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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