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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(46)

〈前回のあらすじ〉
 旅の一日目を東京と神奈川の堺で終えた一行は、シティホテルに宿を取り、その近隣の居酒屋で夕食をとった。黒尾から時間の使い方について尋ねられ、まことは改めてただしが言い残した「兆し」を見過ごしてはならないことに身を引き締めた。そして、黒尾から思いがけず直と諒の名前の由来を聞いた。その時、諒は父親が直ばかりに期待を寄せていたのではなかったのだと知った。

46・路地裏の二人

「面白い人ね」

 居酒屋からの帰り道、僕はかおりと肩を並べて歩いた。かおりはだいぶ酔っ払ったようで、千鳥足のまま、ひっきりなしに僕の腕に肩をぶつけてきた。

 黒尾はタウン誌の記事を示しながら、居酒屋で会計を済ませ、僕らから千円ずつ紙幣を徴収すると、再びネオンが輝く街に消えてしまった。

「『若いからといってもお前らは仮にも社会人だ。年上が一切合切面倒を見るというのも、お前らのために良くない。だから、千円ずつよこせ』だって。そんなこと言った人、初めて」

 そう言って、かおりはケラケラと森の奥に住む野鳥のように笑った。

「僕らを対等に見てくれているんだよ。一見、出鱈目な振る舞いに見えるかもしれないけれど、黒尾さんには、なんていうのかな、人の意見に左右されない独自の理念みたいなものがある」

 電車でなく車で旅に出たこと。唐突に現れたかおりを二つ返事で道連れにしたこと。安宿ではなくシティホテルを選んだこと。ネット情報ではなくホテルのフロントクラークの意見やタウン誌の情報で居酒屋を選んだこと。定食ではなくて、一品料理を注文したこと。年下にもきちんと食事代を払わせること。そうしたことが、全て黒尾の中に根付いたルールに則ってるように、僕は感じた。

「わたしもそう思う。周囲の目や評判ばかりを気にする大人たちの中で過ごしてきたから、黒尾さんに会って、『あれっ?ほんとはこのやり方で良かったんだ』って思えた」
「うん」
「今までの私も、人の目ばかり気にしてきた。人の目を気にしてきて嫌な気持ちになったり損をしたことはあっても、得をしたことなんて一度もなかった」
「僕もそうだよ。振り返れば、孤立させられたのではなくて、僕の方から周囲に壁を作っていた。たぶん、他人にいろんなことを決めつけられたくなかったんだ。自分で何も決められないくせにね」
  
 僕がそう言うと、千鳥足のかおりが不安定な砂浜を駆け抜けてその先にある小さな旗を掴むように、僕の腕に縋った。

「黒尾さんが言っていた時間の使い方というものを、少しだけ理解できたような気がする。なんだか、水族館で働き始めるまでの時間を無為に過ごして来たことが、とても悔やまれるよ」
「過ぎてしまったことは、仕方ないわ。でも、今日それに気づくまでには、諒くんにはそういう月日が必要だったんでしょうね。どうしても」

 そう言うと、かおりはぎゅっと僕の腕に抱きついた。僕の肘あたりに、かおりの乳房の柔らかい感触が伝わった。

 僕の脳裏に、出かける前にかおりと二人で湯船に浸かった光景が蘇った。

 痛々しい殴打の跡。その赤黒さを際立たせるかおりの白い肌。肩、腕、そして大きな乳房。そうしたかおりの裸体を思い描いていると、初めて飲んだビールで血行を良くした僕のペニスが、歩くことが困難になるくらい勃起した。

 それをかおりに悟られるのではないかとびくびくしていたが、そんなことはすっかり見通され、僕の変調を察したかおりは、唐突に繁華街の建物の陰に僕を引き込んだ。そして、暗がりの中でしゃがんで、目にも止まらぬ速さで僕のベルトを外し、ジーンズのジッバーを下ろすと、僕の熱くなったモノをすぐさま咥えた。

「おい、ま、待ってくれよ。こんなところで」

 僕はそう言って辺りを見回し、足元に蹲ったかおりを引き剥がそうとした。しかし、それよりも先にかおりの巧みな舌使いによって、僕はすっかり骨抜きにされてしまった。

 やがて、あっけないほど容易く、僕はかおりの口の中に放出した。

「ごめんね。わたしが、こんなで……」

 僕が放出したものを受け止め、飲み込んだあと、かおりは何かの呪いの言葉を唱えるように、そう呟いた。

(あいつはセックス依存症なんだ。そのために、治療が必要なんだ)

 下腹部の熱が収まると、僕の脳裏に高木の言葉が蘇った。

 かおりは自分の身体の中の衝動を自分でコントロールすることができず、きちんと恋がしたいと告げたはずの僕に対し、懺悔しているようだった。

「自分でもどうしようもないの。嬉しいときだって、悲しいときだって、私の感情なんかそっちのけで、私の中の抑えようのない衝動が、訳もなく生まれてくるの」
「それは、僕が相手だから?それとも……」

 それとも、相手は誰でも構わないのかと尋ねようとした僕は、その先の言葉を飲み込んだ。そんなこと聞いたところで、自分の身体と精神がバラバラになっているかおりを困らせるだけだと思ったからだ。

 しかし、その後のかおりの告白を聴いて、僕は言葉を失った。

「お父さんが、いけないの」

 かおりはまるで寸劇のセリフの練習をするかのように、明確な声で、整った言葉を発した。

 ここまで来る道中で口を閉ざしてきた顔の痣の原因を、かおりが今から打ち明けようとしているのだと気づき、僕は少し怖くなった。

 かおりに残された唯一の肉親である父親が、なぜかおりのセックス依存症に関与しているのか。そして、その父親がなぜかおりの頬を張ったのか。かおりが押し黙ると、僕とかおりの間に厳冬の湖に張った氷のように、厚く冷たい時間が横たわった。僕の脳裏には、決して想像してはならないかおりと父親の姿ばかりがよぎり、その情景を描くたびに、鋭利なナイフで身を削られるような痛みを、僕は感じた。

「わたし、お父さんのことが好きなの」
「……」
「でも、諒くんのことを好きって思う気持ちとも、竹さんのことを好きって思う気持ちとも違う」

 かおりは、ゆっくりと立ち上がり、淀みない動きで、自分のラップスカートをほどき、地面に落とした。

「長患いしていたお母さんが亡くなって肩を落とした矢先に、お祖母ちゃんも亡くしてしまったお父さんは、どうにもこうにも一人では何もできないくらいに、憔悴してしまった」

 もの欲しげな瞳で僕を見上げながら、かおりはスニーカーを履いたまま、器用に小さなショーツも脱いで、路地裏の薄明かりの中で下半身を露わにした。それから、かおりは僕の胸に身体を預け、再び僕の股間をまさぐり始めたが、僕はそんなかおりを受け入れることができなかった。

「そんなお父さんを見ているのが辛かった」

 かおりは木偶のように棒立ちになり、身を寄せた自分を抱こうともしない僕の心が、みるみると自分から離れていくのを実感していただろう。それでも、僕のペニスを弄ぶことを止めず、わずかに硬さを取り戻した僕のペニスを、無理やり自分と結合させようとしていた。もしかしたら、離れていく僕の心を、性行為で必死に繋ぎ止めようとしていたのかもしれない。

「だから、慰めてあげたの」
「慰める、って……?」

 僕はかおりを見下ろした。かおりは決して臆することなく、僕を見上げて、強い視線を返してきた。

「とても可哀想で、わたしが包んであげなければ、お父さんが壊れてしまうと思ったの。わたしが、お母さんの代わりになってあげなきゃって、思ったの」

 誰にだって秘密はある。だが、黒尾とかおりと三人で和やかな時を過ごしたあとに、不意にそんな秘密を打ち明けてくるかおりを、僕はずるいと思った。

 僕は、僕に身を預けたかおりの肩にそっと手を置き、ゆっくりとその小さな身体を僕から引き剥がした。かおりの小さな手から、脱力した僕のペニスがぽろりと落ちた。

「諒……、くん……?」

 かおりの瞳には、山奥の闇に置き去りにされる子犬のような怯えと悲しみの色が滲んでいた。だが、僕はその視線をそらし、かおりから逃げた。

「そのお父さんが、なぜかおりを殴るんだ?」

 きっと、その時の僕はとても醜い形相でいたに違いない。かおりから逃げたのは、そんな顔をかおりに見られたくなかったからかもしれない。僕は背を向けたまま、すっかり萎えてしまったペニスを丁寧に仕舞った。

「高木さんとのことが、お父さんに知られてしまって……」
「そんなの身勝手じゃないか。自分だって、かおりを弄んだくせに。何より、肉親じゃないか。親と子だぞ。気が変だとしか思えないよ」
「まってよ。諒くんだって、立て続けに家族を失って、心に穴を開けていたんでしょ?そんな可哀相な諒くんなら、分かってくれると思ってたのに」
「可哀想?」諒は温度を持たない言葉を、零した。「かおりは僕のことを可哀相だと思って、ただ慰めていただけなんだね」

 僕は冷淡にそう吐き捨てると、下半身を丸出しにしたままのかおりを置き去りにして、路地を出ようとした。

「違う!」

 僕の背後でかおりが叫び、僕の腕を掴んだ。かおりの声は震えていた。だが、僕はかおりの言葉に耳を貸そうとしなかった。

「父親に続いて兄までも失い、母親とともに世間から隔絶された僕のことを、名もない惑星に取り残された宇宙飛行士のように、間抜けで、救いようがないと思っていたんだね」
「仕方ないじゃない。たった二人きりの親子なのよ。私もお父さんも、そうしなければ生きてこれなかった」
「そんなことはないよ」僕はかおりの言葉を冷たく断ち切った。「実際に、僕だって母親と二人っきりの家族になってしまったけど、僕は母親をセックスで慰めようなんてしなかったし、考えもしなかった。かおりがセックス依存症になってしまったのは、本当にお父さんのせいなのかな?それは単にかおりが病気なだけで……」

 そう言ってしまってから、僕は慌てて言葉を飲んだ。憤りに任せたとはいえ、決して口にしてはならない言葉だった。

 高木が僕を喫煙所に呼び出して、かおりは病気で、自分はその治療をしていると言ったとき、僕は高木をひどく軽蔑したのだが、今この瞬間、僕自身もかおりが病気だと口にした。うっかりであってもそう言葉にしてしまうということは、潜在的に僕はかおりの性癖を嫌悪していたということを白状したことになる。

 僕の軽率で慈しみの欠片もない卑劣な言葉は、行き先の違うホームに一人で立ちすくんでいるようなかおりの胸に、突き刺さった。その傷口からは目に見えない血がドクドクと流れ出していた。

 かおりはもう何も弁明しなかった。ただ、胸に突き刺さったままの言葉のナイフを激しい痛みとともに見下ろしながら、去りゆく僕の背中を黙って見送った。

 僕は路地裏を出て、三月の夜空を仰いだ。そして思った。また、失うのだと。

 深夜の冷たい風の中に立ちすくむと、みるみると津波のような恐怖が押し寄せてきた。僕は恐怖におののいて、夜の街へ駆け出した。

 僕は大人に近づくごとに、身近な大切な存在をことごとく失ってきた。だから、水族館で仕事を得て、素朴な竹さんに出会えたことは、奇跡のように思えた。同じように似た境遇を背負うかおりの存在も、僕が生きる意義のように思えていた。

 だけど、得てしまうから、僕らは失うのだ。当たり前のことだけど、僕は、そのような痛々しい現実から逃れることができなかった。

 旅立つ前、直を失った悲しみを竹さんとかおりの三人で共有した。今夜は父親が残した僕の名の由来を黒尾とかおりの三人で共有した。それなのに、僕は自分の弱さと卑屈さからかおりを傷つけ、突き放してしまった。今、勇気を持って引き返せば、かおりを取り戻すことができたかもしれなかったが、どうしても僕にはそれができなかった。

 下手な同情でセックスに誘われるくらいなら、死の誘惑に囚われているリサと毒薬の致死量を探求している方がましのようにも思えた。

 恐らくだが、僕も母親も、知らず知らずのうちに死を敬愛していたのかもしれない。朝から晩まで読経に励んでも、肌を刺すほどの冬の寒気の中でマスターベーションをしても、僕らには生の欠片さえも見えてこなかった。僕らの周りには、死の影があまりにも多くはびこり続けていた。

 僕はかおりを夜の帳に置き去りにし、ホテルに戻った。そして、まだ十分に広げていない自分の荷物をまとめて、部屋を出た。そもそも、直の足跡を辿るべきなのは僕であり、その行程に黒尾もかおりも関与すべきではなかったのだと、僕は誰もいないホテルの一室にそう言い残し、ドアを閉じた。

 暖房の効いたホテルを出ると、春を待つ季節の夜風が、改めて身にしみた。

 僕はM65のフロントジッパーを襟元まで上げて、その襟の上からマフラーを二重に回して首の後ろで結んだ。そして、僕は着替えの入ったダッフルバッグを襷掛けにして、最寄りの駅に向かって歩き出した。

 駅に向かう僕の脳裏に、かおりの面影が嫌でもチラついた。僕はその度にとても悲しい気持ちになった。もしもこのままかおりを失ってしまったら、僕は恐らく死よりも苦しい思いをするのではないかと感じたからだ。

 僕は泣いた。足早に歩きながら、わんわんと泣き、よく分からない名の駅に着いた。混乱した思考と鈍った直感で選んだ切符を買い、とにかくこの街を離れるために、次に来た列車に飛び乗った。

 先に乗っていた仕事帰りのサラリーマンがめそめそと泣く僕を訝しげに見ていたが、それでも僕は涙を止めることができなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(47)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。




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