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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(45)

〈前回のあらすじ〉
 まことと黒尾とかおりの、静岡へ向かう珍道中が始まった。時折運転を代わったかおりの横顔を眺めては、僕はその痣や腫れの原因になったかおりの父親のことを考えた。かおりと身体を交えても、痣や傷を見つけたことなどなかったので、日常的な虐待があったとは考えられなかった。ならば、旅に出るまでのほんの数日で、かおりと父親との間に何かが起きたのだ。そうしたもやもやとした気持ちを抱えたまま、一行は神奈川県に入り、そこで宿を取った。

45・益者三友

 ホテルに泊まるなど、高校の修学旅行以来だったが、その夜に黒尾が決めたホテルは修学旅行で体験した民宿に毛が生えたようなしみったれたホテルではなく、いわゆるシティホテルと呼ばれるような品格の高いホテルだった。だから、手持ちの旅行券での支払いを受け付けてもらったものの、呆気なくその半分が支払いのために消えていった。それでも、クラークの心地良い対応やどこを見ても夢の世界のような内装は、長旅で疲れた僕らの心と身体を癒やしてくれた。

 黒尾は一人でツインを利用し、もう一部屋を僕とかおりで利用した。黒尾と僕で一部屋を使うつもりでいた僕は、その采配に困惑したものの、路上でかおりを拾い上げた黒尾が「恋人なんだろ?」と冷やかしたことに僕は特段否定をしなかったから、僕とかおりは同じ部屋を割り振られたのだろう。それに、初めは折半すると言っていたガソリン代や高速道路の通行料も黒尾のカードやETCで支払われていたので、黒尾がツインを一人で使うことに異論はなかった(旅の終わりにキッチリと半額を請求される可能性は否定できなかったが)。

 それぞれの部屋に分かれる前に、黒尾が廊下で声高に言った。

「一時間後にロビーに集合な。それから外へ飯を食いに行こう。部屋で何をやっても構わんが、集合時間に間に合うように済ませろよ・・・・・

 部屋に入ると、すでに部屋は温まっていた。もしも格下のホテルやビジネスホテルならば、まずエアコンディショナーの暖房を入れて部屋を暖めるところから始めなければならなかっただろう。

 僕は清潔感のある広いバスルームに入り、バスタブに湯を溜めた。その間にあとから部屋に入ってきたかおりが、テレビをつけた。すると、僕らの地域では見たこともない神奈川県のローカル情報番組が放映されていた。それを観て、改めて僕らは長い距離を移動してきたのだと、自覚させられた。

 バスルームに入った僕とかおりはどちらからともなく服を脱ぎ、湯を張ったバスタブに身を沈めた。シティホテルのバスタブは、二人で入っても決して窮屈ではなかった。

 温かい湯で身体を解すことができたことも嬉しかったが、何よりかおりの肌に触れることで、柔らかな安心感にも包まれた。

「まだ、痛むかい?」

 僕は、指先でかおりの濡れた前髪を分けると、そっとそこに残る痣に触れた。

「強く触りさえしなければ、もう痛くないよ」
「まだ、訳は話してくれないの?」
「ここで話し出したら、待ち合わせに遅れちゃう。でも、必ずこの旅のうちに話すからさ」
「うん、わかった」

 そう言って、僕はかおりの目元から指先を離し、その手で柔らかい湯を掬って、湯の上に露わになった豊かな胸の丘陵にそれをかけた。それを数回繰り返してから、僕らは湯船の中で身を寄せ、そっとキスをした。

 約束の時間にかおりと一緒にロビーに行くと、フロントの端で黒尾が女性のフロントクラークと談笑していた。僕らを見つけると、「じゃ、行こうか」と言ってフロントを離れた。離れ際に黒尾がフロントクラークに手を降ると、フロントクラークも黒尾に小さく手を振り返した。

「ここから近いところに、料理が美味い居酒屋があるらしい」

 そう言って、メガホンのように筒状に丸めたタウン誌を広げてみせた。恐らくフロントクラークからホテル界隈の飲食店の情報を聞き出していたのだろう。

「しかも、クーポン付きだ!」

 そう言って、本命馬に赤丸をつけた競馬新聞を弾くように、黒尾は指先でタウン誌の端を弾いてみせた。

 僕は無地のスウェットシャツの上に、直のM65を羽織っていた。かおりは山歩き用のウインドブレーカーにチェックのマフラーを巻いていた。黒尾も部屋で風呂に入ったようではあったが、食事に出かけるときにも薄いストライプの入ったスーツを着ていた。違っていたのは、深緑のカシミアのような上質なマフラーを軽く首に巻いていたことくらいだった。

 黒尾は居酒屋に向かって歩きながら、タウン誌の記事を見て、居酒屋に電話をしていた。そして、三人分の席を予約し、最後にクーポンを利用することに念を押すと、電話を切り、おもむろに言った。

「総理大臣にもホームレスにも、同じ24時間、365日が与えられている。じゃあ、何が彼らに差をつけているのかといえば、その時間の使い方にほかならないじゃないか」
「でも、彼らはそもそも生まれた環境が違いすぎます」
「凡人だね。やっぱり君は」

 そう言って、黒尾は丸めたタウン誌で僕の頭をポンポンと叩いた。

「しおりちゃんは、どう思う?」
「かおりですっ!」

 黒尾は風呂上がりで頬を火照らせたかおりをわざとからかった。

「かおりちゃんは生まれや育ちを不公平だと思うかい?」

 黒尾にそう問われ、かおりは人差し指を唇の端に当てて思案した。

「私は、自分がもっと恵まれた家に生まれたら良かったって思ったことはないんです。たぶん、そういう環境で生まれても、やっぱり不平や不満は出るし、もしかしたら誰かを蹴落としてまで、もっと上の暮らしを求めていたかもしれないから。そうなると、もう幸せではないですよね」

 そう自分に言い聞かせるように言うと、かおりはそっと僕の腕に自分の腕を絡めて、寄り添ってきた。

「どうだね、凡人くん。彼女に腕を組まれて、ギンギンに勃起してるんじゃないのか?かおりちゃんが言ったこと、どう思う……?あ、待てよ。おい、着いちゃった。話の続きは店の中でな」

 そう言って、黒尾はスキップしながら先頭を切って居酒屋に入っていった。

 その店は居酒屋でありながら定食メニューも充実していて、月曜の夜だというのに繁盛していた。

「僕は、生姜焼き定食」
「私は、焼き魚定食」

 僕らが各々注文すると、黒尾は「オレは枝豆と冷奴と韓国のり。そして、生ビール三つね」と店員に告げた。

「えっ!?ご飯食べないんですか?それに、生ビール三つって、僕まだ未成年ですよ」
「白米や豚肉ばかりが飯じゃねぇよ。昔のヨーロッパではな、飢饉で食べ物がないときに、教会がビールを作って、それを村人に飲ませたんだってよ。いつまでもビールを悪者扱いするな。それに、道中でビスケットを食べすぎたしな」

 そう言って、黒尾は大袈裟にガハハと笑った。その笑顔は、まるで漫画の中のガキ大将のようだった。

 ビールがテーブルに届くと、僕らはジョッキを威勢よくぶつけ合い、一日の旅の終わりを労った。

 二十年近い人生の中で、僕がアルコールが入った飲み物を口にするのは、この日が初めてだった。何事にも初めての時がある。まだ法律の上では成人していなかったが、僕は一人の社会人であり、曲がりなりにも母親を養う家長でもあった。

 恐らく二十歳になれば、水族館の新年会や敬光学園の忘年会でアルコールを飲むことになっだろうが、それが僕の初めての体験ではなく、まだ未成年で見知らぬ街の居酒屋で黒尾とかおりに囲まれてビールを飲むことが、少年から大人になっていく僕の初体験であるべきだった。

「こういうことなんですよね」
「へっ?」
 
 手に持ったジョッキを見つめながら、僕が不意にそう呟くと、韓国のりを咥えた黒尾が間の抜けた返事をした。

「あと数ヶ月で僕は二十歳になります。でも、今ここにあるビールを、僕はその時まで待つことができません。なぜなら、『また次の機会にね』なんて、誰とも約束できないから」

 僕はもしかしたら、わずか二三口のビールで酔ってしまったのかもしれない。それでも、今の思いを大切な二人に聞いておいて欲しかった。

「いつか帰ってくるかと心配していたお父さんは、もう二度と家に戻りませんでした。ただしからももっとたくさんのことを教えてもらいたかったのに、よくわかんないでっかい宿題だけ置いていなくなってしまいました。僕が成人になってから、また飲みましょうね、なんて約束をしても、どうせ黒尾さんはゆらゆらと蜃気楼みたいに消えてしまうかもしれないし、かおりだっていつまでもこんな不甲斐ない僕のそばにいてくれるとも思えない。だから、僕はもう、躊躇したり、振り向いたりしてちゃいけないんです。『兆し』を見過ごしてはいけないんです。この旅に出たのも、今行かなきゃ、もう直の背中には追いつけないと思ったからだし……。今この瞬間をしっかりと生きないと、未来の僕に申し訳ない」

 そう言って、僕は下を向いて、歯を食いしばって涙を堪えた。前を向いて生きていくと決めたから。

「かおりちゃん」
「はい」

 かおりもぐっと唇を噛み締めて、涙を堪えていた。

「諒に花丸、あげてもいいと思う?」
「うん……、いいと思います」

 かおりがそう言うと、黒尾はまた僕の頭をくしゃくしゃと愛でながら、「ひとまず、二重丸にしておこうか」と言った。

「出会った頃より、ずいぶん男らしくなったと思うよ」そう言って、黒尾はシャリシャリと韓国のりを咀嚼して、ビールでごくごくと喉へ流し込んだ。「まぁ、ひとまず飯食えよ。お前がメソメソしている間に、生姜焼きを盗み食いしたけど、美味かったぞ」
「やめてくださいよっ!」

 僕は、半泣きの声で黒尾に抗議した。

「ばか、嘘だよ。でも、美味そうなのはホントだぜ。さぁ、食え」
「はいっ」

 そう言われて、割り箸を割り、僕は生姜焼きに食らいついた。気がつけば、僕は初めてビールを飲んだというのに、定食を平らげたときには、二杯目のジョッキも空にしていた。

 黒尾は女性店員を呼び止めて、ビールとつまみの追加を注文した。僕はとても三杯目のビールが飲めそうになかったので、烏龍茶を頼んだ。かおりはビールをもう一つ追加していた。黒尾と同じペースで飲んでいたので、四杯目だ。なかなかの呑んべえだ。

「じゃあ、お開きの前に、一つとっておきの話をしておいてやる」

 店員が去ると、おもむろに黒尾がそう言った。

「もう、酔っ払ってしまって、頭に入りませんよ」
「うるせぇ、黙って聴け」

 そう言って、黒尾は枝豆の鞘を僕に投げつけた。

「『益者三友』って、知ってるか?」
「なんですか?それ?」

 僕は、お通しで出てきた白菜の酢漬けを割り箸で口に運びながら、黒尾に尋ねた。空になったジョッキを小さな左手で弄んでいたかおりを横目で見たが、かおりも無言で首を横に振り、口の動きだけで「知らない」と言った。

「孔子の『論語』にある一説だよ。『論語』は知ってるな?」
「読んだことはないですけど、孔子が遺した書物だってのは知ってます」
「まぁ、興味があれば深いところまで読めばいいが、今日はお前のために『益者三友』ってのを教えてやる」

 そこへたこわさと焼き茄子、そしてビールが運ばれてきた。生姜焼きとビールで満腹だった僕だが、黒尾が選んだ一品料理がとても美味そうで、僕の食欲を刺激した。

ただしきを友とし、まことを友とし、多聞たもんを友とするは益なり」
「ただしとまことがどうのこうのと言ってましたが、どういう意味ですか?」
「有益な友とは、素直で正直である人、誠実な人、見聞が広い人。有益な三人の友だから『益者三友』な。素直で正直な人が『|直ただし』、誠実な人が『まこと』、見聞の広い人が『多聞たもん』だ」
「まさか、そんな由来があるとは……」

 焼き茄子にわずかに醤油を垂らし、生姜を載せて頬張ると、黒尾は思いがけない熱さに驚いて、天井を向いてはふはふと、口の中の焼き茄子を冷ましていた。

 やがて冷めた焼き茄子をビールで喉へ流し込むと、黒尾は熱さで目尻に滲んだ涙を拭いながら、言った。

「お前のお父さんはなかなか名付けのセンスがいいと思うよ。そして、そいつらを友にできたことを、オレは誇らしく思っている」

 僕はこのときになって、父親が直にばかりでなく、僕にも何かしらの期待をかけていてくれたことを、初めて知った。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(46)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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