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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(61)

〈前回のあらすじ〉 
 風間教授の研究室に入ると、小柄だがきちんと身なりを整えた初老の男が待っていた。風間教授は僕よりも前に訪ねてきた柳瀬結子と思われる女性との面会で、直の記憶を鮮明に思い出した。そして、直がマナティーの生態や暮らす環境に没頭し、沖縄やマイアミまで出かけたことを教えてくれた。そして直は、無垢なマナティーが人間によって傷つけられている実態を知ってしまう。そして、心に深い傷を負い、海洋生物学に見切りをつけ、原発に勤めることを決めたのだと、風間教授は言った。

61・だから、その疑問を疑問のままにしておくことにした

 その時、研究室のドアを誰かがノックした。風間教授はカップ・アンド・ソーサーを手に持ったまま、そのドアの向こうに向かって「どうぞ」と言った。その乾いた声は、通路と応接セットの間に積まれた書籍に幾分吸い込まれてしまったが、幸いドアの向こうの来訪者には何とか届いたようだ。

 本の山の向こうで真鍮のノブが回される音と、バタンとドアが閉まるが音がした。そして、僕が歩いてきた給湯室から応接セットまでの本の森を抜けて現れたのは、手足の長い細身の女子大学生だった。彼女は研究室のソファーの一画に腰掛けている僕を認めると、「あ」と短く言って、目を見開いた。

「うちの学生だったの?」

 深夜の民宿の食堂で出会ったT大の学生が自分の娘で、加奈子という名だということを、今朝女主人から教えられたばかりだった。その彼女が思いがけない場所で僕を見つけて、目を丸くしている。

 僕も彼女がT大の学生でアルバイトをしながら下宿代を払っているとは知らされていたものの、まさか自分が訪れた風間研究室で雑用のアルバイトをしていて、僕の前に現れるとは想像していなかったので、加奈子同様にぽかんと口を開けて、言葉を失ってしまった。

「なんだ、知り合いなのか?」

 僕らが交わした視線の下で、風間教授が暢気にそう言った。

「彼女は僕が宿泊している民宿の娘さんです」
「あら、おしゃべりなお母さんが、また私のことを話したのね」
「いや、そうでなくても、君は昨夜この大学の陸上部のジャージを着ていたよ」
「あ、そっか」

 加奈子はあっけらかんとそう言って、大した厚みのある紙の束を、カーテンの隙間から傾いた午後の日差しがようやく届こうとしている風間教授の筆記机の上に置いた。

「細身のわりに、大食漢だとも言ってたよ」
「失礼ね」

 柳眉を釣り上げて、加奈子は僕を睨んだ。だが、その目の奥には柔らかな恥じらいがあった。僕は肩をすくめて微笑み返した。

「あはは、間違いない」

 風間教授はソファーの背もたれに身体を預けて、無邪気に笑った。

 加奈子は頬を膨らまし、乱雑な筆記机の上に転がっていた筒状に丸められた統計表か何かを取り上げ、それで風間教授の頭をポンッと叩いた。その光景は気心の知れた孫と祖父の親交のようで、僕の目に微笑ましく映った。

 それから、僕は自分がT大の学生ではないことを加奈子に話し、T大に在学していた兄を知るために、福島からここまでやってきたことをかいつまんで説明した。直が自殺をしたことについてまで語るべきか迷ったが、旅館に戻って、また食堂で彼女と顔を合わせれば、必然とその話をすることになるのではないかと思い、僕はそれ以上のことを加奈子にふせておいた。

 加奈子は出会ったばかりの僕が、馴染みのある研究室にいるという異質な光景に慣れる間もなく、研究室を出ていった。恐らく、そうした異質な空間に自分が長居すべきではないことを、すぐさま加奈子は察したのだろう。

「逸見くんが、原発に勤めるということで……」

 風間教授は、溌剌とした加奈子の来訪をつむじ風が通り過ぎたかのように忘却し、直のことについて再び語り始めた。

「彼が志していた海洋生物の研究もその保護も、ここで断念されてしまうのだと、僕は怖くなった。それは、原発での仕事で今まで学んだものをすべて塗りつぶしてしまう恐れではなく、原発を容認し、それに依存し、依存する中で犠牲になっていくものから目を逸らし、人間の利己主義に染まっていってしまう恐れだった。マイアミに行く前の逸見くんからは、そんな姿は想像できなかった。無垢なマナティーの存在と彼らの苦境を知ったことで、逸見くんは自分の無力さに押しつぶされてしまったんだな」
「直が、定期的に福島に戻り、地元の水族館でマナティーの飼育を手伝っていたことをご存知でしたか?」
「逸見くんが?マナティーの?」

 風間教授は声を裏返しながら、そう叫んだ。危うく手に持っていたカップ・アンド・ソーサーを落としそうになったが、幸いカップの中の紅茶は飲み干していて、教授の膝の上にそれが溢れることはなかった。

 そのあと、教授は一人がけソファーの上で体勢を立て直し、空のカップ・アンド・ソーサーを丁寧にローテーブルの上に戻してから、改めて僕に尋ねた。

「飼育を?」
「えぇ。T大学への入学を決めた高校三年生の頃から水族館でアルバイトを始め、竹さんという飼育員と親しくなり、大学を卒業するまでマナティーの世話をしていたそうです。奇しくも、今は僕がその竹さんのもとで働いています」
「それは、知らなかった。マイアミに行って以来、彼は海洋生物を見ても、目を輝かせなくなっていましたから」
「そのメスのマナティーにピッピという名を授けたのは、直なんです。水族館の公募に応募して、見事に選ばれました」

 僕がそこまで語ると、風間教授は口を閉ざしてしまった。

 僕よりも先に来訪していて柳瀬結子と思しき女性にも、恐らく風間教授は僕に語ってくれたような直の思い出話を語ったに違いない。だが、柳瀬結子からは特に直の志や希望や挫折や諦めなどを聞かされはしなかったのだろう。なぜなら、恋人だった柳瀬結子でさえそんなこと微塵も知らされていなかったのだから。そして、弟の僕がT大を訪れた。その語らいの中で、恐らく風間教授の中で少しばかり残っていた直への蔑みや不信感は払拭されたのではなかろうか。

 風間教授の脳裏の片隅に、いつも直の面影が残っていたのは、直を忘れるために必要な最後のパスワードを入力できなかったからだろう。そのパスワードとは、直がマナティーへの愛情を完全に失ったわけではなく、むしろマナティーへの愛情を喪失したと偽装することで、マナティーを守ろうとしていたのではないかという不確かな憶測だった。

 その憶測の答えは、ついに風間教授にも僕にもわからなかった。だが、今となっては、僕らはそれ以上直の純真を踏み荒らしたくない気持ちが強くなっていた。だから、その疑問を疑問のままにしておくことにした。

 僕は手に持っていたティーカップの中に残っていた紅茶を、一気に飲み干した。そして左手に持っていたソーサーに戻し、それをローテーブルの上にそっと置いた。

 雑然とした研究室の中に時計を探すのは困難で、僕が時刻を確かめるためにあたりを見回していると、「午後一時半」と言って、風間教授が自分の腕時計を指で指し示してくれた。 

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(62)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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