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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(44)

〈前回のあらすじ〉
 飼育棟でかおりとまことは、竹さんにただしという背の高い痩せた男について尋ねた。すると竹さんはすんなりと直がずっと前から水族館に来ていて、マナティーと戯れていたことを語った。しかし、竹さんから直の所在を尋ねられ、諒は困惑した。竹さんは死ぬという概念も、墓や供養といった言葉の意味も知らなかった。ただ、死んだ魚や動物たちが焼かれることを知っていた竹さんは、直も焼かれて灰になり、もう会えないのだと知り、取り乱した。

44・瓶からこぼれた墨汁が半紙や机を黒く汚していくような、取り返しのつかない気持ちに、僕は苛まれるのだった

 常磐自動車道で福島の県境を超え、茨城県に入った頃、トイレ休憩のために黒尾はサービスエリアにワンボックスカーを乗り入れた。各々用を済ますと、サービスエリア内のコンビニエンスストアで飲み物や菓子などを購入し、ワンボックスカーに戻った。そこで、運転をかおりに代わり、黒尾は後部座席のキャプテンシートに収まった。

 初対面だと思っていたが、黒尾とかおりは一度だけ顔を合わせたことがあった。それは、柳瀬結子を水族館まで送り届けたときで、その場には高木もいた。

 高木には見向きもしなかった黒尾だったが、かおりには例のごとく名刺を手渡していた。だから、僕を国道沿いで待ち伏せしたのも、黒尾という存在や黒尾が豪華なワンボックスカーを持っているという要素が、電車ではなく車で静岡に向かうのだと判断させたようだった。国道の車の流れの中で、僕の顔が見えたとかおりは言っていたが、それだけで僕を見つけるのはとても困難だったのではないかと僕は考えていた。しかし、黒尾の白いワンボックスカーというヒントがあれば、遠くからでも僕を見つることは容易かっただろうと、辻褄が合った。

 一度の面識があったとはいえ、黒尾とかおりはすでに旧知の仲のように親しくなっていた。それは黒尾という奔放な男の話術がなせることでもあったが、人見知りをしない人懐こいかおりの朗らかな性格も、黒尾と相性が良かったのではないかと思う。そうした仲睦まじい二人の姿を見ていて、僕は温かい気持ちになっていた。僕の大好きなかおりを、兄のように慕い始めた黒尾に紹介できたような喜びが、そこにあったからだ。もしかしたら、大好きなマナティーにただしを紹介できたときの竹さんも、同じような気持ちだったのかもしれない。

 ただ、ハンドルを握り、フロントグラスを見つめながら黒尾の冗談に笑っているかおりの腫れた瞼を目にするたびに、瓶からこぼれた墨汁が半紙や机を黒く汚していくような、取り返しのつかない気持ちに、僕は苛まれるのだった。

 かおりの父親が、唯一残された肉親である娘の頬を強かに張った。

 僕はかおりの父親がどのような人物なのか、到底知り得なかったが、今までそんなことは起こらなかったし、かおりと身体を交わしていても、暴力や虐待を思わせる傷や痣の類を見つけることはなかった。果たして、この親子の間に何が起こったのか、僕は心穏やかではなかったが、かおりが僕を待ち伏せてワンボックスカーに乗り込んできてから、黒尾もかおりも、もう顔の痣や腫れた瞼のことについて口にしなかったので、僕もそれに従わざるを得なかった。

「諒くん」

 運転席のかおりが唐突に僕に声をかけた。自分の軽自動車とは比較にならないくらい広い運転席なので、かおりは座席を最大限に前へ移動させ、ハンドルに縋るような姿勢で運転していた。その様子は、まるで子供が大人のまねごとをして遊んでいるようにも見えた。

「なに?」

 もしや唐突に顔の痣の訳を打ち明けるのではないかと、僕は身構えた。しかし、それは僕の思い過ごしだった。

「清水って、どういうところ?」
「日本一深い駿河湾と日本一高い富士山が一望できるところ」
「へぇ、すごい!」
「そして、ときどき天女が舞い降りる」
「テンニョ?」

 僕は小学生のときに直から聞いた羽衣伝説を、そのまま受け売りで語った。

 天女と言われてもかおりは透き通った羽を待つ妖精しか想像できなかったようだった。僕自身も、直から羽衣伝説を聞かされたときには、同じような想像をした。  

「そこには、羽衣を掛けたと言われる松があるのね」
「そう聞いてるけど……」
「え?まさか、行ったことがないの?」
「そのとおり」

 僕が呆気なくそう言ったものだから、かおりはあからさまにふくれっ面をあらわにして、呆れた。

「まったく、あなたたち兄弟って、どうしてこうも呑気なのかしら」

 かおりがそう言うと、キャプテンシートからオットマンを引き出し、革靴を脱いでくつろいでいた黒尾が、子供が食べるような動物の形をしたビスケットを頬張りながら、「まったくだ」と笑いながら同意した。

 東京に入ると、車の流れも慌ただしくなり、標識も複雑になることから、その手前で再び運転を黒尾に代わった。

 三人のうち僕だけが運転に加勢できなかったので、買い物の荷物持ちや車内の清掃などは僕が積極的に担った。ガスステーションでの給油方法も、最初の一回だけ黒尾に教えてもらい、以外に複雑ではなかったことに安堵すると、二回目以降は僕がその作業を行った。

 都内を抜けるときは、首都高速道路というローラーコースターのように速くて曲がりくねった道路を走り抜けた。右に左に猛スピードでカーブを抜けていくワンボックスカーの助手席で、僕はガッチリと窓枠の取っ手を掴んで離さなかった。

 その頃には、すっかり日が落ちていて、道路脇の街灯もオレンジ色の光を路上に落としていた。

 都内には何一つ用事がなかったこともあったし、駿河湾の港町にたどり着く前に一泊するにしても、都内より神奈川県に入ったほうが部屋を取りやすいだろうと踏んだ黒尾は、多摩川という県境の川を渡ったところでホテルを見つけて、その日の行程を終えようと提案した。僕とかおりは、すんなりと黒尾の提案に同意した。日頃体験したことのない長距離移動に思いの外疲れたようで、二人とも一刻も早くベッドに倒れ込みたいと渇望していた。

 助手席に座っていた僕が、黒尾の指示に従って、ワンボックスカーに搭載されたナビゲーションシステムで最寄りのホテルを検索した。

 僕が画面のホテルの名を一つ一つ読み上げると、その名を聞いた黒尾が、ハンドルを握りながら合否を下した。三つ目に読み上げたホテルの名が、黒尾の食指を動かしたので、そのまま黒尾が左手を伸ばし、画面に浮かんだホテルの名に触れた。すると、モニターの脇に置いてあった黒尾のスマートフォンからコール音が鳴り、その向こうで誰かが受話した。

「えっと、黒尾といいます」
「黒尾様、大変お世話になっております」
「今夜、ツインの部屋がふた部屋空いてるかな?」
「お調べいたしますので、少々お待ちください」

 そう言って、しばらく保留音が流れた

「これなんですか?手放しで、話してるなんて初めて見ました」
「今どき、常識だよ。お前らのようなローテクな兄弟には、二世紀後でも理解できないだろうけどな」

 そう言って、黒尾はケタケタと笑った。

 やがて、電話の向こうで部屋が空いていることが伝えられ、黒尾はそれを予約し、通話を終えた。

 ほどなく、僕らは首都高速道路の終点で国道246号に降り、ナビゲーションシステムであっという間に予約したホテルを見つけた。すると僕らはワンボックスカーを駐車場に止め、その日の行程を終えた。

竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(45)につづく…。

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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