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竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(31)

〈前回のあらすじ〉
 諒が高校生の頃、たった一人だけ諒に関心を持ったリサという女子生徒がいた。しかし、リサは諒にではなく、諒の身近で起こる死について関心があっただけだった。死というものはウイルスのように人から人へ伝染し、すぐさま死の虜になってしまう人もいれば、何十年もあとになって死に導かれる人もいる。自分自身も既に死のウイルスに感染しているのだが、たまたままだ発症していないだけなのだと、諒は今になって思った。

31・オレたちは、同じ穴のムジナ

「逸見くん、ちょっといいかい?」

 氷の上に立っているように冷え込んだ飼育棟で、僕は高木主任に呼ばれた。薄くにやけた高木主任の顔から下品な洞察を感じ取った僕は、すぐに昨年末の職員駐車場での出来事を蘇らせた。高木主任は僕を飼育棟の外へ導くと、雨風を凌ぐ屋根と板垣に囲われた喫煙所で煙草に火を点けたあと、やはり職員駐車場でのことを尋ねてきた。

「三十日、職員駐車場にいただろ?」

 高木主任は水族館の名前が胸に小さく刺繍された事務服のポケットに煙草の箱を仕舞いながら、そう言った。

「正直に話していいんだよ。別に叱ってるわけじゃないんだから」高木主任は、僕を見ずに清々しく晴れた新年の空に向かって、煙草の煙を吐いた。「ただね、来客用の駐輪場に君の自転車が置いてあるのが気になってさ。飼育棟に行ってみたけど、姿が見えなかったし…」
「佐藤さんと一緒に、竹さんの施設に行ってきました。毎年行われる忘年会のようなものに、招待されたんです」
「あぁ、敬光のか…」

 そう言って、高木主任は長くなった灰を灰皿に落とし、何かの合点を見つけたようにズボンのポケットに突っ込んでいた左手で顎を撫でた。

「それが何か…?」

 そう惚けてみたが、僕の内心は逃げ場を失ったネズミのごとく、目の前の獰猛で残虐な猫の一挙手一投足に怯えていた。

 その日は僕のマウンテンバイクが水族館の駐輪場に置きっ放しで、夜の職員駐車場にはその日の日直でもないかおりの車が置いてあった。僕は職員駐車場でかおりと戯れたときにサイドウインドウをぎったヘッドライトが高木の車のものではないかと心配になった。

 もしかしたら高木主任は、宿直の暇を持て余して散歩に出た先で、来客用の駐輪場にポツンと停めてある僕のマウンテンバイクを見つけたのかもしれない。そして、歪んだ洞察力で僕が誰かと水族館で待ち合わせをして、出かけたのだと察した。程よい頃に職員駐車場に足を向けてみると、まんまとかおりの車が停まっていて、車窓を曇らせたその車が遠目から見てもわかるほど激しく揺れているのを見つけけ、何らかの確信にたどり着いたのではなかろうか。

 恐らくその憶測に間違いはなさそうだったが、ただ、ちらりと横目で僕を見た高木主任は、「そんなことを尋ねているんじゃないんだよ」と、ぼそりと洩らしたあと、鋭利なのこぎりで切り分けた大きな氷な塊を投げつけるように、冷たく重い言葉を吐いた。

「なかなか、いい身体だっただろ」
「はぁ?」

 高木主任は暗に自分もかおりと関係を持ったのだと誇示していて、僕は戸惑いと嫌悪感の渦の中で息もできず、間抜けな返答しかできなかった。

「かおりだよ。抱いたんだろ?」

 単刀直入に高木主任からそう言われてしまうと、僕は押し黙るしかなかった。もちろん、押し黙ることが肯定の意思になってしまうことを、僕は当然理解していた。

 優越感に浸っている目の前の大きな猫に警戒しながら、ねずみの僕はアルバイト募集の面接で、高木主任と対峙したときのことを思い返した。

 面接時間だというのに転寝をし、ボサボサの頭のまま事務室に現れた男を、僕は怪訝に思っていた。機転の利く事務員であるかおりが近くにいることで、もしかしたら彼は今の地位を保てていたのではないかと、僕は勝手に想像していた。

 だが、その後、竹さんとかおり以外の職員から高木という男との付き合い方についてこっそり助言をもらううちに、僕が抱いた訝しい思いが決して錯誤ではなかったのだと、知らされた。

 ある職員は、仕事に意欲的でないにもかかわらず、他の職員の揚げ足を取ることばかりに長けていると言い、ある職員は、先代の館長の娘を妻にもらい、今の役職を得たのだと言い、ある職員は、その妻が歯科医院を開業し、家計は潤っているのだと言った。また、別の職員は、高木主任が所有しているドイツ車は妻のお下がりで、ガソリン代から整備費まで歯科医院の経費になっているのだとも言っていた。

 そうした浮ついたいい加減な姿勢で取り掛かった高木主任の仕事ぶりは、あちこち手落ちだらけで、ほとんどの職員から異口同音に不平不満の声が洩れた。確かに主任という肩書の割には、彼が遅くまで書類の整理をしているとか、来客を接待しているようなところを僕は見たことがなかった。

「かおりはさぁ…」高木主任は吸い殻を灰皿でもみ消し、すぐさま胸のポケットから煙草を取り出し、新しい一本に火を点けた。「依存症なんだよ」

 高木主任は既に共犯者の眼になっていた。自分が抱えた罪を、僕と共有しようとしているのが、手に取るようにわかった。

「依存症?」

 僕が眉をひそめると、高木主任は軽く笑ってから答えた。

「アルコールとか麻薬とか、人は中毒性のあるものに依存してしまうだろ?オレも子供が生まれたらやめると言ってた煙草を、今でもやめられない。それと同じように、かおりも依存しているんだよ。セックスに」

 かおりのことを「佐藤さん」と呼んでいたはずの高木主任が、僕に共犯者の目を向けて「かおり」と呼ぶと、僕は体中の毛穴がキュッと引き締まり、ゾワゾワと身震いがした。なぜなら、僕自身も佐藤かおりと身体を交えたことに浮かれ、心の中で既に彼女を「かおり」と軽率に呼び始めていて、そうした欺瞞を高木主任に読み取られたように思えたからだ。

「オレは、かおりがここで働くようになってから、ずっとだ。ずっと、かおりの性欲の捌け口になっていた」

 高木主任はわざとらしく辟易とした風な表情で俯き、ねっとりとしたつばを地面に吐いた。そのような言い方をされるとかおりの性癖に一方的な罪があり、高木主任自身には非がないのだと言い逃れしているようにも聞こえた。本当に嫌ならば、高木主任はセックス依存症の事務員などに関わらず、家族を第一に考えるべきなのだから。

 その時になって、ようやく僕は飼育棟の廊下を足早に駆けてゆく高木主任とかおりを追おうとした僕を竹さんが厳しく戒めた理由がわかった。竹さんはとっくに知っていたんだ。高木主任とかおりの歪んだ関係について。

「僕は、確かに佐藤さんと、その……」
「ヤッたんだろ?」

 根気強い尋問でようやく容疑者の自白を得た刑事のように、高木主任は高圧的な薄笑いを浮かべた。

「そうですが、依存症だとか知りませんでしたし、高木主任との関係も想像すらしてませんでした」
「だから、別に責めてるわけじゃないって言ってるだろ」

 明らかに苛立った口調に変わった高木主任は、煙草を再び灰皿に突き刺して消し、僕に向かって半歩歩み出た。

「オレたちは同じ穴のムジナだって言ってんの。わかる?そもそもオレは、かおりを独占しようとか、愛人にしようとか考えてるわけじゃない。お前がかおりの捌け口に立候補するって言うんなら、歓迎するよ。ただな、なんていうのかな、住み分けというか、協定のようなものを決めておいたほうがいいんじゃないかって思っただけなんだよ」
「住み分け?」
「オレには妻や子がいるわけだろ?もう、小学三年生になる女の子だ。母親の真似をして、煙草をやめないことを叱ってくるんだがな、それでもオレに懐いてるんだ。でも、部下であるかおりの悩み・・は、受け止めてやりたい。屁理屈のように聞こえるかもしれないが、これは、かおりが抱えている依存症の治療・・の一環だ」
「治療……」
「不眠症の最大の特効薬は、アロマテラピーでも睡眠薬でもなくて、眠くなるまで眠らないことなんだ。つまり、かおりも身体の中に疼く本能がセックスを求めなくなるまで、とことんヤりまくればいいと思うんだ。そう思わないか?」
「佐藤さんは、それでいいと?」
「馬鹿だな。そんなことをオレがかおりに訊くわけないだろ。訊いたところでかおりが、はい、そうしましょう、って言うと思うか?」

 そう吐き捨てて、高木主任は僕に背を向けた。

 諍いが起これば賛成も反対もせず見て見ぬふりをする。中立を守ることで降りかかる責任から逃れようとする。それなのに、隣の芝生が青く見えれば、自分の庭を青くしようとする前に、隣の芝生を荒らそうとする。僕はそのような人たちを、未熟な少年期にたくさん見てきた。死んだ父親の親族もそうだったし、僕や母親を街のがんのように遠ざけた近隣の住民もそうだった。口では僕らのことを労っていたくせに、ほとぼりが覚めると潮が引くように彼らは僕と母親から遠ざかった。

 歪んだ言い訳を並べて自分の行為を正当化しようとしている高木主任も、そのような大人たちの一人のように見えて、僕は彼を軽蔑した。

 高木主任は自分の利益になる人間とそうでない人間を見分ける本能的な鑑識眼を持っているのだろう。そうでなければしがない水族館の職員が前館長に気に入られ、その娘を娶ることはなかっただろう。

 一方で竹さんも自分の敵と味方を見分ける本能的な鑑識眼を持っていて、高木主任の怠惰な仕事ぶりやかおりのセックス依存症などの諸事情は理解できないとしても、水族館で唯一信頼を置いているかおりが高木主任と歪な関係にあることに、ただならぬ危機感を感じていたに違いない。だからあれほど鋭い怒号を上げ、強い力で僕の腕を掴んだのだ。

 当然のことだが、僕は高木主任の提案に同意するつもりはなかった。

 僕のかおりへの気持ちは、高木主任のように自分の浮気を正当化するようなよこしまなものではなく、彼女からの積極的な懇願だったとはいえ、僕の内側から素直に溢れ出す純粋な恋心だったと自負していたからだ。

「僕にとって、佐藤さんが何に依存していようといまいと、関係のないことです。だから、高木さんが言うような治療・・が必要だとも思いません」
「そうか」

 そう背中で冷淡に言って、高木主任はゆっくりと振り返った。

「それなら、オレが勝手に決めるぞ」

 高木主任は僕のささやかな抵抗に聞く耳を持たないまま、自身で用意してきた協定というものを、口頭で示し始めた。

「さっきも言ったように、オレはかおりが求め続ける限り、今の関係を続けていく」

 僕の脳裏に、飼育棟の暗がりを歩くかおりの姿が蘇った。その姿を蘇らせたるたびに、僕の胸は苦しくなった。

「あえて他言無用とは言わない。うすうすオレとかおりの関係に気付いている職員もいるはずだ。だが、軽々しく言いふらしたりしないでほしい。オレには家族もいるし、何よりかおりもここに居づらくなる。かおりの家の事情は知ってるんだろ?」

 父親との二人暮しの家計を、かおりが支えていた。もしもかおりが職を失ったら、親子二人は路頭に迷ってしまう。僕は黙って、小さく頷いた。

 どうやら、高木主任がここまで堂々と職場での不貞行為を強気で暴露できるのは、そうしたかおりの弱みを握っているからなのだろう。もしかしたら、かおりに解雇をちらつかせて、性行為を強要したことだってあったかもしれない。

水族館ここ以外のことであれば、オレはかおりに干渉しない。何度もいうが、オレには家庭がある。それを犠牲にしてまで、かおりに関わろうなんて思っていない。念を押しておくが、オレがかおりを虜にしているのではないぞ。かおりがオレに依存してるんだ。いいな」
「それは、佐藤さんに確かめてみないとわかりません」

 僕が語気を強めてそう言うと、高木主任は小さく「ま、好きにしろ」と言い、僕の肩を軽く叩いた。そして、何事もなかったかのように、飼育棟に戻っていった。

 僕は一月の寒空の下に一人取り残された。そして、初めてかおりに会ったときのことを思い返していた。

「わたしも、片親なの」

 そう言ったかおりの横顔が、どことなくやり場のない諦念を隠していたように思えてならなかった。

 竹五郎さんとマナティー〜FUKUSHIMA TRILOGY Ⅰ(32)につづく… 

〈あらすじ〉
 父親を心中で、兄の直(ただし)を自殺で立て続けに失った諒(まこと)は、塞ぎ込んだ母親を見守りながら、希望もなく、しかし絶望もない日々に、ただ身を委ねていた。ある日、父親の墓前で謎の女に出会ったことやその女から水族館に関する本が送られてきたことで、諒の心が少しずつ揺らぎ出した。やがて、水族館で働き始めた諒は飼育係の竹五郎さんや気立てのいい女性事務員、突如現れた直の友人と関わるうちに、兄が残した遺産を辿る旅に出る。生きづらさに翻弄される人々が、遠くの星の輝きを手繰るように、手放した希望や救いを取り戻そうとする物語。福島第一原子力発電所事故を記憶に留めるために筆者が書いた渾身の「原発三部作」の第一部。第二部は『出口は光、入口は夜』、第三部は『CLUB ONIX SEVEN STEPS』。

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