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遠野という奇跡

 遠野というところの特別さはイメージと実際の乖離が大きいところだ。
いまでは民話の里が大きいが、むしろ歴史を通してみれば、交通の要所であり、生産量も高い都会であった。
 しかし、それが特別かといえば各地にこういう地域はあったはずである。  では、どうして特別な場所になったのか

 それに大きく貢献しているのが、電車網というか、オリンピック用に大量に作られた車両を利用するための国鉄による観光資源の開発である。
 新幹線の開通から生活習慣の変化、それまでの団体旅行から個人旅行の需要を掘り起こすために、ディスカバージャパンというキャンペーンが国鉄(現在のJR)で十数年に渡って行われた。
ディスカバージャパン
 これによって、地元の祭や、住んでいる人にとっては日常であった多くのものが、観光資源として全国で宣伝されるようになった。
 日本そのものが、消費されるコンテンツになったのである。
※ 現在でもこのディスカバージャパンの痕跡といえるが、
遠くへ行きたい』 芸能人や文化人が、日本各地の風土、歴史、食、温泉宿を訪ねる番組
※ ディスカバージャパンの流行り具合を感じられるのが
山口百恵のいい日旅立ちがある。これはテコ入れとして行われ大ヒットした

https://www.youtube.com/watch?v=SgJriXB6-1Y


  昭和40年代、遠野は民話の里として知られ始めていたが、まだそれほど有名では無かった。
 昭和50年に大きなチャンスが訪れる。柳田國男生誕100周年である。この時、様々なメディア、当時は新聞やテレビではあるが、三越で柳田國男展などがあり、それに付随して『遠野物語』が広く宣伝された。
 そして、遠野の方でも、我々の現在イメージする遠野の観光の目玉が登場する。『語り部』である。そして博物館や伝承園、ふるさと村なのが作られ、今の遠野になったのである。

 日本が成長していく過程だからこそ、こうしてぽんぽんと建てれらたと思う向きもあるだろう。
 同じような時代にスタートしてすでに令和どころか、平成を迎えることもなかった地域も多い。
 では、なぜ遠野は遠野としてあり続けられるのか?

 リソースが常に補充され続けているということ。
 大きくは博物館や伝承園、ふるさと村での様々な催しが継続される。
 加えて、その時代の『遠野物語』を好むであろう人間が好意を持って迎えてくれる人物(水木しげる、荒俣博、京極夏彦)を擁したイベントの開催。
 そして、先ほどの話でも出た語り部である。

 最初の語り部であった鈴木サツさんは1911年、明治時代の生まれで、1996年に亡くなっている。しかし、語り部となる人間を常に確保し、同時に語り部を育成する仕組みが整っている。現在では語り部1000人プロジェクトと呼ばれるものだ。

 そして、大きいのは、『遠野物語』という変化しない物語が0地点にあることだ。これにより、もし方向を間違えても直せるし、失ったとしても原点に戻れる。
 しかも、いまだにその場所が遠野に存在しているのは強い。


 こうした様々な要素が混じっていまの遠野という場所が存在しているというのは、様々な要素の混じった奇跡なのではないかと思っている。
 遠野物語は長い時間をかけて、現実を書き換え異界を作り出したのだ。

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