見出し画像

「オッペンハイマー」米国公開、原爆リポーターインタビュー2

原爆リポーター、「Atomic Cover-Up」(原爆隠蔽)の著者グレッグ・ミッチェルのデモクラシーナウ!でのインタビュー、続編です。

前編はこちら。



過去の「原爆映画」

ミッチェル:原爆に関しての映画は過去に三作しか作られていません。今回のオッペンハイマーは四作目です。

一作目:The Beginning or the End(1947)


ミッチェル:47年、原子力科学者達がMGMに「核兵器装備増強の危険性を訴えるためのブロックバスター映画を作ってくれ」と懇願して制作が始まりました。しかし軍部、ホワイトハウス、大統領個人(トゥルーマン)の介入により全く内容が変わってしまい核爆弾擁護のプロパガンダ映画になってしまいました。

MGMにより作成された脚本には広島への原爆投下を批判する視点も入っていました。しかしグローヴス中将(「オッペンハイマー」ではマット・デーモン)による大幅な改編(数百か所以上)。これにより、映画内で原爆開発の正当化、投下の正当化、更なる開発も正当化されました。

オッペンハイマーは当初は難色を示していたものの、最後は説得に負け、46年に自分が映画のナレーターとして登場することに承諾しました。

映画はその後ホワイトハウスの監査を受けます。大統領トゥルーマンは映画内、原爆投下理由の説明に軍事戦略的重みが足りないと、自分を演じる役者の交代と、再撮影を要求。

これが広島ナレティブ(「原爆を広島に落とさなければ、陸上戦となり多くの米兵が死んだ」)が米国一般人にとって説得力を持つ状況の土台となりました。ここまで広くこれに納得してるのは米国人だけです。

二作目:Above and Beyond(1952)


ミッチェル:これは原爆投下を実行したエノラ・ゲイのパイロット、ポール・ティベッツの伝記映画です。同じように、広島ナレティブ、原爆使用正当化の映画でした。

三作目:Fat Man and Little Boy(1989)


ミッチェル:「キリング・フィールド」のローランド・ジョフィ監督による大作です。良くできた映画な事は確かです。更に公開時(80年代後半)には既に反核の動きも国内に出ていました。しかし大人気俳優、ポール・ニューマンがグローブス小将を演じている所から推して知るべし、といったところです。軍の意向に逆らえないオッペンハイマーがこの映画で描かれます。

グッドマン:題名は、原爆のニックネームですね。広島に落とされたのが「リトル・ボーイ」。長崎に落とされたのが「ファットマン」。

ミッチェル:そうです。この映画で興味深い点はロスアラモス研究所で被爆し亡くなった研究者を描いている所です。ジョン・キューザックが演じています。実際に亡くなった研究者は二人います。これを描いた事で監督のジェフィ氏はものすごいバックラッシュを受けました。「大袈裟だ」と。

私たちが放射能医療実験や周辺地域への放射能被害の恐ろしさについて知ることになるのはこの直後からです。情報は厳密に隠蔽されていました。


ニュー・メキシコで何があった

ミッチェル:オッペンハイマーはNYの裕福な家庭出身です。休暇をニュー・メキシコ、ロスアラモスの牧場で過ごし、その場所に思い入れがあった。だから研究所の設立にそこを選んだのです。映画内で「彼は自分の好きなもの2つを合わせた、武器開発とニューメキシコ牧場の生活」との一節があったかと思います。

そうしてオッペンハイマーはそこに研究所を建てるわけですが、もちろんそこには先住民がいます。彼らは退去させられた。

トリニティー実験、やはり近隣住民がいました。立ち退き令は一部にしか勧告されなかった。科学者も軍も放射能雲の事を知っていた。しかしどれくらいの規模なのかは分からなかった。それでも実験は敢行。予想を遥かに超える範囲での被爆。家畜は死に、奇形が生まれ、毛が抜けた。

この実験が全く批判を受けなかった事で、この後20年にわたり原爆の開発・実験が承認されました。まず太平洋諸島。住民は立ち退きを強制されたり、被爆に苦しみました。その後ネバダの実験でも放射性降下物(雨、塵)が大量に降り注ぎました。そこで生産される牛乳を私たちは飲んでいたのです。

トリニティ実験は映画にしやすい。大きな爆発、素晴らしい科学の勝利。爆発の日は「誰も死んでない」。広島・長崎で20万人亡くなった事はもちろん描かれません。とにかくそう言う理由でトリニティ実験は「映画映え」するのですが、事後の放射能の影響の事はスルーされます。


オッペンハイマー、その後

グッドマン:映画「オッペンハイマー」において投下後、オッペンハイマーが赤狩りの憂き目に会う部分はどうですか。

ミッチェル:オッペンハイマーは30年代、共産主義支持でした。会合にも参加していましたし、スペイン内戦でも寄付をしていました。にも関わらず超保守のグローブスは彼を雇う訳です。そしてオッペンハイマーはその功績で有名人になります。しかし50年代、マッカーシーのアカ狩りが始まると主に「水爆開発に反対している」との理由でオッペンハイマーは糾弾を受けることになります。

その頃にはオッペンハイマーは核兵器の更なる開発には反対で、外交による国際的な監視に賛成していました。軍部は彼の過去の共産主義傾向を引っ張り出して彼を攻撃しました。


原爆開発の経緯

ミッチェル:FDR(Fルーズベルト大統領、トゥルーマンの前)がアインシュタインから「原子を割ったらとんでもないエネルギーが出ますよ。スーパー兵器が作れますよ。」と聞いて膨大な予算を付けます。それにより機密研究所が建てられます。テネシー州オークリッジ、ワシントン州ハンフォード、そしてロスアラモスです。ノーランの「オッペンハイマー」では分かりづらいですが、壮大な規模でした。

オッペンハイマーは「原爆の父」と言われますが、彼自身は研究の技術革新には貢献していません。彼は雇われた多数の科学者をまとめる役でした。

グローブス小将がオッペンハイマーのボスになります。「トゥルーマンはグローブスの押す雪ソリに乗っていただけ」と形容する人もいます。グローブスが原爆の早期開発、早期・広範囲使用に尽力した人物です。

「オッペンハイマー」内でもほんの少しだけ語られますが、ドイツ降伏後、レオ・ジラード率いるシカゴの科学者達は原爆使用の停止・あるいは延期を訴えていました。この嘆願書はオッペンハイマーに反対されます。映画には後に水素爆弾の開発で私たちのようなコミュニティで「悪人」と評されるエドワード・テラーが登場します。彼は、この嘆願書に署名しようとしていた、と言うシーンです。それもオッペンハイマーが制します。


投下ロケーションの選択


ミッチェル:映画「オッペンハイマー」は私の友人カイ・バードとマーティー・シャーウィンによる伝記をベースにしており、内容は非常に正確です。投下ロケーション選択のシーンの再現もそうです。候補は新潟、小倉、長崎、広島、京都の5箇所。いずれも我々の空襲の被害が最小の市街地です。要は、原爆の威力を正確に把握するため、無傷の街を選んだ訳です。

陸軍長官スティムソンは京都をリストから外した。彼自身が京都を訪れたことがあり、思い入れがあったのもありますが、最大の理由は文化的損失による日本人の国民感情への配慮でした。彼は、原爆を落とした後の日本との外交のことが頭にあったのです。それに真っ向から反対したのが小将グローブス。相当な熱量を持って京都をリストに戻す事を試みたが失敗に終わりました。

最終的に広島と長崎が選ばれ、あろうことか市街地のど真ん中をターゲットに、そして投下は実行されたのです。米軍は「軍施設も近くにあった」などと言いますが、それをターゲットにしていなかった事は明らかなのです。長崎で原爆により死んだ軍人は百人ほどです。10万人が一瞬で死にました。広島では被害者80%以上が民間人です。これは計画された2つの都市の(無差別の)破壊です。

グッドマン:2つの原爆の違いは?

ミッチェル:広島に落とされた原爆はウラニウムを使っています。長崎のはプルトニウム。特に長崎の投下は「プルトニウムを試したかったからだ」と言う意見もあります。その後米国はプルトニウムを選択します。私はそれだけが理由だとは思いませんが、その1つとして説得力はあります。

長崎には悪天候により、本来のターゲットに落とせなかった。逆に言うと天候が悪くても無理やり落としたと言う事です。なので広島よりは死傷者が少なかった。しかしプルトニウムの優位性は確認された。

広島投下を擁護する歴史家にも「長崎投下は戦争犯罪だった」と言う人は多数います。私は広島がそうでないとは言えないと思いますが。長崎投下は広島投下後3日後に予定された。「広島の様子とその後の日本の反応を見てから決めないか」とトゥルーマンとグローブスと言う人はいなかった。ベルトコンベアー式に「はい次」と落とされた。

映画「オッペンハイマー」で私が大変問題と思うのはこの、長崎投下を全く語らないところです。オッペンハイマーは広島投下はその後も後悔していなかった。彼が原爆開発自体に後悔の念を持ち始めたのは長崎の様子のレポートを見てからです。


ウラニウムはどこから

ミッチェル:カナダが原爆プロジェクトに参加していた事はあまり知られていませんが、カナダから多くのウラニウムが提供されました。米国内では南西部。この発掘作業での近隣住民の被爆の話は語られません。この被害者は「風下の者」(downwinders)と呼ばれます。多くの人はこの言葉を知らないでしょう。

映画「オッペンハイマー」公開により私が希望を持つのはこれらの被害者にまた注目が集まり、彼らの痛みの補償に前進できるかも、と言うところです。試写会の入り口にはそれに関するリーフレットを配る活動家の人々がいました。「風下の者」の多くは南西部の先住民の方達です。

グッドマン:マンハッタン・プロジェクトに使われたウラニウムの3分の2はベルギー統治のコンゴから提供されていますね。

ミッチェル:そうです。このプロジェクトではとにかくウラニウムをかき集めました。それがどのように調達されたのかは映画内では語られません。

アインシュタイン

グッドマン:アインシュタインの位置づけはどうでしょう。

ミッチェル:核兵器の原理を発見し、プロジェクト始動に大きく貢献したのはアインシュタインですが、その後のプロジェクトの様子に大きな危機感を持ち、彼はマンハッタン・プロジェクトには参加しませんでした。映画「オッペンハイマー」では登場回数は少ないですが、物語上大きな役割を担います。


ノーランの意向と映画の影響

グッドマン:様々な批判も呼んでいるこの映画ですが、どんなインパクトがあると思いますか?最近亡くなったダニエル・エルスバーグ(ペンタゴン・ペーパーの内部告発者、核廃絶活動団体マンハッタン・プロジェクト2の主宰)は、戦略核兵器の恐怖を語っていました。

ミッチェル:私が行った試写会には監督のクリストファー・ノーランがパネルに来ていました。彼も正にその戦略核兵器の脅威について話していました。恐ろしく思う、と。彼の子供たちがそれについて脅威を感じていないことから、次の世代にこの問題を伝えたいと思ったことが映画制作につながったと言っていました。

私の子供達も公開と同時に観に行きました。

結局は夏のブロックバスター映画ですが、この機会に私達は映画の外側、現実にまだ存在する問題に関して大きく声を上げなければいけません。

例えばfirst-strike policy。通常兵器の攻撃に対して我々が最初に核兵器で対応する事を許可するポリシーです。採用しているのは米国だけではありません。ほぼ毎年それを改編せよとの声が上がっています。映画の公開に伴ってその活動にも注目が集まっています。現存する核兵器を全て廃棄する事は難しいですが、first-strike policyを捨てる事はできます。新たな軍拡条約をソ連や中国と結ぶ事、北朝鮮とイランとの関係を安定させる事、できる事は沢山あります。

原子力科学者会報(Bulletin of Atomic Scientists)はDoomsday Clock(終末の日タイマー)を表示しています。去年、針は「その時」に史上最も接近しました。冷戦時より、キューバ危機よりも危険だと。危機的状況なのです。この映画が80年代に起こったような反核運動の引き金になる事を願っています。当時の運動はジョナサン・シェルの「地球の運命(The Fate Of The Earth)」がきっかけでした。「オッペンハイマー」が同じ役割を担う事を、懐疑的に、しかし、希望を持って願っています。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?