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[松本清張氏の小説でドラマ化された[溺れ谷]のモデルになった父・菅貞人が遺した9つの言葉〜忘れられない教訓]

父・菅貞人は1966年に起きた一連の「黒い霧事件」の1つ「共和製糖事件」の当事者です。

僕が高校生の時でした。

毎日「黒い霧事件」の報道一色で学校に行っても、その事件の話で持ちきりでした。
授業中に先生が、僕が菅貞人の息子だと知らずに、その話題を話されクラスメイトの好奇の視線を受けることもありました。

国税庁が自宅に仮差押えに入り赤紙をペタペタ貼っていったこともありました。

事件が起きて3年ぐらいだった頃、父と気晴らしに父の好きな将棋を指していた時
突然、父がポツンと独り言のように
「英志、俺、死にたくなったよ」つぶやきました。

今までの父の力強いイメージからは想像もできない一言に衝撃を受けました。

僕は次の一手を指しながら
「パパが死ぬなら一緒に死ぬよ」と言い返しました。

父は僕を見つめ
「今、言ったことは忘れてくれ」
「俺はもう一度、頑張るよ」「お前はこれから自分の好きなことをしなさい」
「俺はお前を一人前の男として認めるからな」
              と言い涙ぐんでいました。

それが父の涙を見た最後でした。

その時、あの強いワンマンな父でも本当に悩み苦しんでいるんだ。それと事件の重大さを痛感しました。

父が逮捕され保釈された後も裁判で無罪を主張して最高裁まで10年以上戦い続けました。

しかし取り調べ中に完全黙秘したこともあり非常に不利な状況下での闘いでした。

父は当時の政府や内閣にまで波及することを避けながらの裁判は厳しいものでした。

裁判所に提出する書類の読み合わせも何度も立ち会いました。
全ての書類を読んでいくと父が主張する内容と事件の全貌が理解できました。

裁判官が経済事件の特性や経済の仕組み政府との複雑な関係を理解しなければ融資の書類の文言だけで判断してしまい事件の全容は把握できないと思います。

また日本の裁判は非常に時間がかかり、精神的にも体力的にも負担が大きいです。

最終的に最高裁で上告が棄却され刑が確定し、父は静岡刑務所に収監されました。

収監中、何十回以上静岡刑務所まで面会に行ったのでしょう。

面会に行っても話題は会社のことばかりでした。
面会時間は限られているので会社の現状報告は手紙で詳細に伝えました。

父は仕事人間なので会社のことが1番心配なのです。

推理作家の亡き「松本清張先生」は会社の月刊誌「歴史読本」によくコラムやエッセイを執筆してくださったのですが、この事件を契機に執筆してくれませんでした。

後に父の事件を題材に父を主人公にした「溺れ谷」を執筆されました。
映画化もされました。

よく調べて書かれていますが事件の真相の90%まで迫っていますが、残りの最後の1番根底にある真相までは届いていないというのが、僕の率直な感想です。

迷惑をかけられない人達を、ある意味守る為に父は服役したのですから。

父は出所してからも僕をいろいろな方々の所に秘書として連れまわしました。

元大蔵省の次官経験者や都市銀行の頭取や政治家また財界人にも父は僕を紹介してくれました。

服役した人間に皆、会ってくれるのは彼らも父が何を守って刑務所に収監されたかを知っているからでしょう。

亡き松本清張先生にこの事実をお伝えしたかったですね。

前置きが長くなりましたが本題の「父の遺した言葉」に入っていきます。

これらは父が僕達家族に食事の時や少しお酒が入ると何10回となく話てくれました。

ちなみに父は麒麟ラーガーの小瓶・1本しか飲みません。

1)「幸運をもたらす青い鳥は全ての人に平等に訪れる」

これは全ての人に幸せになるチャンスがやって来るが、その機会を活かせない人のほうが多いということです。

青い鳥がやって来ても見えない人もいれば見逃してしまう人もいます。

また青い鳥が飛んで来ても捕まえられない人もいます。

これは何故なのでしょう?

それは日頃から青い鳥が飛んでくる日の為に、毎日の準備と心の準備を怠らないということです。

青い鳥は飛んで来るので捕獲しなければなりません。

それには捕獲する道具を準備したり、捕獲する練習も日頃からしなくてはなりません。

また青い鳥は人生において何回も飛んで来るものではありません。

人生で1回かせいぜい2回くればいいくらいです。

飛んでいる青い鳥を捕まえるのは目撃したとしても大変難しいことです。

網を用意しても逃げられてしまうこともあります。

人生における幸運のチャンスは1度か2度です。

ですから日頃からの心構えと日々の精進と努力が必要なのです。

幸せになるチャンスは自分で掴み取らなければならないけれど全ての人に平等に訪れるという信念を持って生活していくということです。

愚痴ばかりいって何もしない人には幸せは訪れません。

前向きに生き、空も見上げてください。

青い鳥が飛んで来るかもしれませんよ!!!

2) 「白い紙を持って来て、黒い紙だと言う人がいたら、白っぽいけど黒にも見えるし
グレーにも見えるねと言ってあげなさい」

これは明らかに黒い紙だけれど、その人が白いと言うには、その人の事情があるということを理解して話を聞いてあげるということです。

持って来た時に「これは黒じゃないか」と言ってしまえば、そこで終わってしまいます。

「黒にも見えるけどグレーに近いね」と言える人は、会社のトップになっても人心をまとめられるし、掴めるということです。

要するに、この世の中に白や黒の極端な事例よりも、その間の色が沢山あることを理解して、その人の抱えている問題や白を黒と言わなければならない事情を考慮した上で
その人の言い分を聞いてあげ対処しなさいということです。

話を聞いてもらっただけで、その人の気持ちが晴れることもかります。

何でも頭ごなしに拒否したり、話を終わらせてはいけないということです。

会社と部下と上司の関係でも当てはまります。

3)「親友が1人できたら天才だ!2人出来たら神様だ!」

これは簡単に言えば友達を大事にしなさいということです。

父は1943年に単身、満州国留学生として来日して苦学して明治大学商学部(夜間)を卒業しました。

その後、金融業や自動車修理工場などを経営して10年以上の後北海道製糖を買収して製糖業界に参入しました。

ですから単身日本に来て、がむしゃらに働いたので親友と呼べる人はいなかったのだと思います。

ですからその時の体験から心を許せる友達に憧れていたのかもしれません。

父はいつも「親友が1人できたら天才だ! 2人出来たら神様だ!」といつも家族に話していたのでしょう。

この話も僕の頭にこびりついています。

だから友達を大事にすることと友達に不義理をしないことを心がけて生きて来ました。

でもこれは本当に難しいことです。

真の友達を作ることも難しいし、本当にその友人が真の親友かを見極めることも不可能に近いと思います。

僕も一時ある出来事が起きて地位も名誉もお金も全て失ったことがありました。

その時周りにいた殆どの人が離れていきました。

大袈裟な話1,000人いたら998人の人が去っていきます。

ほんのひと握りの人達に親身になって心配してもらい、助けてくれた人も出て来ました。

利害関係のある人は僕が全て失えば離れていくのは理解しますが、彼は親友だと思っていた友人にも裏切られました。

その事件があって今は良かったと思っています。

そこでふるいにかけられた真の友人と言える人が数名残ってくれたので。

だから僕は彼らには何かあれば、自分の出来る事は全てやるつもりです。

父の言ったこの言葉は身体に染み付いてしまいました。

4)連帯保証人にはなるな。友達にはお金を貸してはならない」


これは友達を大切にしなさいとううことと関連します。

友達が困ってお金を借りに来た場合、お金を貸したとすると返してもらうことが原則です。

これが後で問題になることが多いんです。

それは返済方法と期日を決めるわけです。

例えば毎月月末に一定の金額を返してもらう場合、毎月、彼は月末にお金を返すわけです。

振り込みにした場合、貸した側はどうしても振り込まれたどうか確認します。

振り込まれていなければ、何故返してくれないんだろうと思います。

少し待っても入金がないと、どうしたんだろうと心配しますよね。

友達だから来月まとめて返してくれるだろうと思い、催促しなくても、その次期日が近づくと人は入金になるのかと不安になってきます。

再度、入金がないと普通、催促します。

そこで友達が、来月まとめて振り込むからと言えば「わかった。大変なんだね。
来月でいいよ」と答えてしまいます。

この関係が続くと段々催促するのも躊躇するし期日が近づけば不安になってきます。

この場合友達との関係が徐々に疎遠になっていく場合が多いです。

ですから父は友達がお金を借りに来たら、自分が負担できる金額ならあげなさい、
もし負担できない金額ならば自分の可能な金額をさしあげなさいと言ったのだと考えます。

連帯保証人になるのは家訓で禁止するというのは、これは連帯保証すればその人について全ての金額を保証することになるので駄目だとということです。

これは分かりやすいですが会社で銀行融資を受ける場合は例外です。

真の友人とは困った時、お互い助け合うのは当然ですが共倒れになってしまうのは本末転倒です。

出来ることは出来る、出来ないことは出来ないと言えることが大切だと思います。

5) 「経営者は会社の従業員を使うのではなく、1人1人の従業員に使われるのだという  
  気持ちで会社を経営しなさい」

会社は1人で出来るものではありません。

俺は社長だから社員に命令すればいいという考え方を捨てなさいということです。

使われる人達の気持ちを理解して一緒に会社を盛り立てていく姿勢が大切だということです。

これは父の口癖でした。

僕も朝、出社すると掃除をしている方には「おはよう。ご苦労様です」と必ず挨拶をします。

何回か顔を合わせていると話をするようになり、僕の気がつかない会社のことを教えてくれます。

女子社員の中にも入っていき、挨拶します。

最初は彼女達は戸惑いますが、やはり慣れてきて男性では気がつかないことを教えてくれます。

よく上司が部下に何か指示を出し、成功すれば自分の手柄にして、失敗したら部下の責任にする上司がいますが論外です。

成功は分かち合い失敗は自分の責任にするのが本当の上司です。

会社と従業員の一体感がない会社は成長しません。

社長は一般社員にも挨拶を自分からし積極的に話しかけることが大事です。

彼らの意見も聞き悩みも聞いてあげることです。

なかなか難しいですが、これが出来れば会社は伸びていきます。

何でも社員の言いなりになるということではありません。

やはり出来ないことは、はっきり出来ないと伝えることです。

彼らの意見には即答出来るものには、その場でyesとnoをはっきり答えることです。
noの場合には理由も必ず一緒に伝えることです。

即答できない案件に対しては必ず、いつまでに答えをだすと期日をきって伝えることです。

そして最終決断をした後は全て社長が全責任をとるということを社員にわからせることです。

これだけのことをした上で、銀行との折衝、資金繰り、重要得意先との交渉や接待に業界との付き合いもするわけですから社長の業務は過酷です。

健康で体力がないと務まりません。

父の場合全てをやってしまうスーパーマン社長だったので父の次が育ってこなかったという弊害もありました。

会社と従業員は運命共同体だということが浸透している会社は発展します。


6)「お客様を接待をする場合、お客様が満足して帰らなければ接待しない方が良い」

この点についても父は徹底していました。

僕も接待の段取りを何回もやらされましたが、最初は怒られてばかりでした。

普通に考えればお店を予約してお土産の手配をし、帰りのハイヤーを準備すれば大丈夫だと思いますが、それだけでは充分ではありません。

お客様の料理の好き嫌い、食べれない食材は勿論、椅子席か和室か畳ではなく掘り炬燵がいいのか、お土産は何が喜ばれるのか全ての可能性を考慮します。

また足が具合が悪くエレベーターがないと2階に上がるのが難しいので一階でなければならない方もいます。

これらをお客様にお聞きしても外国と違って日本の場合お任せしますという答えが多いので役に立ちません。

ですからお客様の秘書とか行きつけの店を調べてお店の方にきいてみることもあります。

ビールや日本酒の好みも困ります。どの銘柄がいいかも調べます。

これでも失敗したことがあります。

一度、三菱系の製缶メーカーの会長を接待した時に、ビールは三菱系なので麒麟ビールをお店に用意してもらいました。

お店は麒麟の瓶ビールを用意しました。その会長は製缶メーカーなので自社の缶の麒麟ビールしか飲まないということが直前でわかりました。

慌てて缶でも他社の缶を使ったものは駄目なので探すのに苦労しました。

ギリギリ間に合ってホッとしたことがありました。

このように接待のセッティングをすることでも勉強になることが多いです。

接待はお客様がハイヤーに乗り込むまで気がぬけません。

7) 「お金は自分の手の中に入れても、手を握り、お金を銀行に入金するまで自分のもの  
  になったと安心してはいけない」

これは読んだ通りの意味です。

会社で手形を貰っても期日が来て換金されるまでわかりません。

不渡りになることもあります。

小切手は安全かと思っても換金できないこともあります。

まあ銀行保証付きの小切手なら大丈夫です。

現金を期日に持ってきますといわれても当日になってみないとわかりません。

僕は資金繰りも担当していたのでお金のことでは苦労しました。

銀行の担当者と資金調達の段取りをして支店長決済もおり、これで一段落だと思った時
担当者に直ぐに支店に来て下さいと電話があり支店に行きました。

支店長室に通されると支店長は青い顔で、通常は支店長決済で本部の許可は形式的なものなのですが、新融資本部長になって全てのある金額以上の融資を見直すことになって
御社の案件も見直すことになったと言うのです。

当時、会社のメインバンクのMとS銀行が合併した直後で、S銀行から来た人が融資本部長になったので、この事態になったわけです。

支店長も「少し待ってください。 必ず実行します」の一点張りで埒があかないので
新融資本部長の名前と前職を聞いて会社に帰りました。

一週間たっても支店の融資が実行されないので困ってしまいました。

会社でいろいろ悩んでも仕方がないので家に帰って、グラスを傾けながら新融資本部長の名前が書かれた紙を見ている時、ふとどこかで聞き覚えのある名前だと気がつきました。

確か小学校の同級生で、彼の家でお母さんが塾をやっていて、そこに毎週通っていた同級生の名前と同姓同名だということに気がついたのです。

それにお父さんは関西電力に勤めていた大阪出身だということも思い出しました。

小学校の卒業アルバムで確認すると苗字と名前は一致していました。

彼がいった大学も本部長の大学と一致していました。

明日、融資本部長の支店に電話してみようと決めて床につきました。

次の日、出社して早速、その支店に電話すると秘書がでて、融資先からの電話は取り継ぎませんと断られてしまいました。

諦めきれず次の日は

「J小学校の同級生の菅ですがUさんいらっしゃいますか」と伝えると今度は秘書は
「少々お待ちください」と言い、電話口に本部長が出て来ました。

彼は「菅君、元気なの? M支店のことだろう。」
  「明日、支店に行ってくれる」と言い、後は近況を話して電話を終えました。

翌日、支店に行くと融資の件は大丈夫になっていました。

こんなことはありませんが、融資が通常、支店長決済で下りるのに駄目になりそうになったように、お金に関しては入金になるまでわかりません。

8)「天才と気狂いは紙一重」

これは少し分かりにくいですが、父の好きな言葉の一つです。

事業は世間で肯定される天才的だと思われる発想も必要ですが、時には業界の常識を覆す(くつがえす)気が狂ったと思われる様な発想も必要であるということです。

常識的で世間にも通用する天才的な発想も非常識な気が狂ったような発想も紙一重で成功すれば、それが後に賞賛されるから、恐れずに挑戦することが必要だということです。

こんなエピソードがあります。

清涼飲料水の会社で原価もあがり人件費等のコスト高を売り上げ増で吸収するのが難しくなって来た時、役員会が開かれました。

なかなか解決策が見つからない中、父が製品価格を10円値上げしようと言い出しました。

役員は90円から100円になると価格が3桁になるので、いわゆる100円にすれば売れなくなるという反対意見や、うちのような中小企業が上げれば、大手は値上げせず、うちのシェアを取りにきて大変な事態になるという反対意見一色でした。

すると父は「ではどうするんだ」と役員に問いかけると、そこには沈黙しかありませんでした。

しばしの沈黙の後、値上げをすると決定しました。

その方法が業界の常識を覆すものでした。

飲料水業界には他の業界のように飲料各社が所属する協会がありませんでした。

各社バラバラで戦国時代のようにシェアを取り合っていたのです。

父は一面識もない最大手のC社の社長に会いに行くと言い出したのです。

役員もビックリして「会長、お知り合いなのですか?」と父に聞くと「面識はないが
自分は悪名が高いから会ってくれるさ」と言って秘書にC社に電話をかけさせ面会出来ることになったのです。

父は「お前も一緒に行くぞ」と言いC社の社長に会いに行ったいっのです。

会談の内容は公表できませんが、それから半年ぐらいで10円の値上げが出来てしまったのです。

これこそ「気狂いの発想です。

9)「メモをとるな。初めての人と会う時も想定問答は考えず自然体で会いなさい」

これは人の話をメモすると、話している方の顔や動作も見なく、メモを書くことに集中して話の内容が頭に入らないということです。

何が大事なのかも後でメモを見ても、よくわからないし、話す相手をよく見ていないのですから、その人のことがどんな方か想像できません。

メモなしで真剣にその方の顔をしっかり見て話をきけば大事なことだけ頭に入りますから忘れることもありません。

また初めてお会いする方との想定問答集を準備していくと、準備していない話題になった時戸惑ってしまいます。

せいぜい出身地、出身大学、趣味ぐらい分かれば充分です。

後は日頃からの経験と知識を磨いておけばどんな話題になっても対応できます。

今でも実践しています。

歳とると頭の体操になっていいですよ。


以上
父から学んだ9つの教訓ですが、皆様の参考になれば幸いです。

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