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“愉快なオトナたちのリアル講義”〜COGA Part2〜完全版

高校生によるオトナたちへのインタビュー第16講
見た目はほぼほぼジョニー・ロットン。野望に向かってカッコいいを追求する”ミュージシャン”COGAによるリアル講義
タイで活動するバンド THE GREEDのボーカルCOGAさんの思考を聴き解く今回のインタビューは〜COGA Part2〜。Part1のタイに行くまでの波瀾万丈な物語に引き続き、Part2ではタイで模索する必然のストーリー。タイに生きるプロフェッショナルの思考法をここに書き留める。



☟COGAさんインタビューPart1!!☟









1,バンコク:from Part1


1,バンコク:from Part1



(Part1で)タイで有名なHip-Hopグループ、タイタニアムと出会った話なんすけど、タイに初めて行った時にCD屋に入って。タイで有名なHip-HopグループのCDくださいって、買ったのがタイタニアムのアルバムだったんすよ。


すぐにホテルに戻って聴いてみて、それでなんか今までに聴いたことのない感じっていうか。洋楽のHip-Hopとも違うし、アジア圏のHip-Hopも自分の中にあるものは日本のものしかなかったから、英語の感覚とかが思いっきしアメリカンネイティブで、それでいてラップ自体はタイ語と英語が交じっている。いわゆるインターナショナルなサウンドっていうか。

そこでバンコクの有名なクラブなんかに遊びに行くようになって、タイタニアムのコンサートかな?の映像がスクリーンに流れてて。彼らの専属のDJの人がそん時回してたんすよ。

2008年にとあるイベントがきっかけでその彼と仲良くなって。その時はまだタイにちゃんと移住する直前で、ライブ行くようになってそのDJ、DJAY BUDDAH(後述DJブッダ)がリーダーとしてやってるバンコクインベーダーズってクルーがあって。
DJとMCの、パーティーを盛り上げる集団で2008年にちょっと長くタイに滞在した時に、バンコクインベーダーズのもう1人のリーダーのDJオノってカナダ育ちの日本人。ネイティブな英語でタイ語と日本語を話せる彼が、バンコク主要のクラブをDJ・MCで毎日のようにっていうか毎日回してて、スゴいなーって。毎日その現場に遊び行くようになって仲良くしてもらうようになるんですよ。

で、東京に戻って来て、タイタニアムで1番人気のウェイってハンサムが今の奥さんと東京に来てて、それがタイに在住するようになるキーのひとつで。

ひとつのことを何年も何十年も続けて来た人たちがたくさにいる中でやっぱりおこがましいんですけど、自分はずっと東京でヤンチャしてきて。で、そういうチームだったり暴走族だったりのカルチャーで溢れてた時代を駆け抜けてきて、自分たちの音楽にもマネジメントがついて全国リリースできるようになって、CDも自主じゃなくて予算があってPVまで出せるようになって。YouTubeがなかったんでPVの出せるアーティストって極限られてたから。

事務所に縛られてた感じはあったけど、その予算がないとできないこともたくさんあって。今思えば日本にいた頃ってローディーやってた頃にしてもですけど、ものすごい恵まれた環境にいて。シングルを出す時にマネジメントサイドの意見を聞きながら、自分たちの意向や方向性を曲げることも時にはあったので、なんかバンドの生活にも疲れてたんですかね。ウェイが東京にやって来たときに、タイに住めばいいじゃんって軽く言ってくれたのはすごい大きな転換点になりましたね。

伏線を伏線たらしめるのは常に己がこと




2,THAILAND Ⅰ


2,THAILAND Ⅰ



自分は大したレベルにいたわけじゃないけど、数年間自分らの力だけでやっててうだつが上がんなくて、いざマネジメントがついたのはいいんだけど窮屈で。10代でヤンチャしてた時に同じ区の別エリアの後輩が、Hip-Hopシーンを盛り上げてた今でも活躍してるラッパーの入ってたグループにいたり。ライブ見たときにラップだから等身大のままメチャクチャでワルな感じ。ラッパーってストレートなリリックをオブラートに包まず放ってるのが、隣の芝生は青いじゃないけど自由に見えちゃって。


自分の窮屈さとの対比で。自分のラップ志向が強まってそのバンドは解散するんすけど。
それがタイに移住することになった詳しいとこっすね。
タイタニアムがバンコクでテイケアしてくれるって、そこでソロラッパーとしてタイでやるようになって、DJブッダがおまえもバンコクインベーダーズのメンバーとしてやっていかないかってなるんすよ。

その後のいつか、アーティストネームは呼びやすいのがいいってなってDJブッダとタイタニアムのウェイに今の”COGA”ってアーティストネームに命名されたんですよ。KよりCのほうがCOCA COLAみたいでキャッチーとかなんとかってノリで笑。彼等はアメリカ人なので外国人が呼びやすいニュアンスをわかってたんじゃないですかね。 結果的に”COGA”で覚えやすくてよかったと思いますね。

嫉妬は必ずしも不幸を呼び込む感情ではなく、寧ろ感情的なバネたらしめる。




3,ステータス


3,ステータス



DJブッダにバンコクインベーダーズで一緒やってこうって言われたのが嬉しくて、と言うのも2007年にタイに来て、タイタニアムもバンコクインベーダーズもすごい好きになっていって。日本でバンドとしての実績はあったけどラッパーとしての実績がこれといってない中で、不安も感じてる中でタイでひとつ生活していく上でのステータスが得られた気がして。


当時のタイって、DJもMCもラッパーもイケてるヤツが数多くはいなくてタイ全体で特別な存在で。
DJブッダはニューヨーク生まれニューヨーク育ちのタイ人で、そういうタイプって会ったことないじゃないですか。アメリカンネイティブな英語もタイ語もできてカッコいいって。海外思考が強まっていった中で、アメリカって行っても良い意味で、どうしてもアメリカっていう憧れだけで終わっちゃうんすよ。タイに来たときに、見下してるとかではなくてアメリカでも日本でも見たことないカルチャーがそこにはあって。

なんだこの街。インターナショナルで面白い街だ!って。知らない世界ってすごい興味が湧くじゃないですか。タイの楽しさってそういうとこにありますよね。

タイの異様な空気は人々を愉しませる。




4,タイタニアム:MC

4,タイタニアム:MC



タイに来ても仕事していかないとお金がなくなるんで、いくらでもいいからMCとしてクラブでできないかって相談してみたら、バンコクインベーダーズのメンバーの1人が俺のやってるクラブに1回来なよって。MCしたことなかったけど主要のMCの人たち見てて、なんか俺でもやれるかもって、でやってみたんすよ。


タイで日本人のMCやってる人は当時も今もいないからすぐに雇ってくれて。MCとして雇ってくれるお店も1つ,2つ,3つと増えて、1年もしたら1週間のMCのスケジュールが全部埋まるようになって、ありがたいことなんですけど。

地方に営業に行ったり、バンコクインベーダーズ以外のDJから依頼がくるようにもなって一緒にやったりとかってのが増えて、なんか、そん時はがむしゃらっすよね。

海外でなんとかお金を稼いでいくって、MCなんて長くても2時間の仕事だけどデパートで1日8時間とか仕事してる人たちよりもこの2時間で、3倍4倍のお金をもらえるってホントに恵まれた職業で。ましてや人気商売。仕事といえども本当に恵まれてるんですよね。

そういうのも、今まで100%じゃないけども自分の憧れてる人とか興味のある人と巡り合うパターンが多くって。普通にコンサートとか観に行ってから数ヶ月してそのメンバーの人たちと会うこともあって。
でもたぶんそれは自分の興味がある人たちに近づきたいって、自然と動きがそうなってたんじゃないかなって思いますね。

がむしゃらに突き進め。




5,音楽人生の最後


5,音楽人生の最後



10年前のタイタニアムは、日本で例えると1番人気な男性アイドルグループとかの知名度と同じくらいのレベルで有名な国民的アーティストで、メインのメンバー3人にサイドのMCが1人、それにDJブッダの5人グループ。今現在でももちろん有名ですね。


DJブッダとDJオノは一生の恩人で、タイで生きていける術を教えてくれて。その恩返しの一環で、自分って16のときローディーをやってたじゃないですか。そこで身につけたものでDJブッダをサポートすることで彼もグループもカッコよく見えるんで、アシスタントとしてバックにいることでよく見えたらなって。

それでそのクルーでアシスタントやり始めて、最初はホントにお手伝いくらいだったのが、タイでアシスタントする文化があったのかなかったのかわかんないんすけど、DJブッダが見習いたちにアイツがすげーサポートしてくれてんのにお前ら何やってんだよって感じになって。
俺はそこでブッダに、日本で昔そういうのやってたからわかるんだよねーってそこでも認めてもらってて。

タイでイチからやり直すって、16歳のときやったローディーと似たことじゃないけどそういうの苦じゃなかったしいろいろ良くしてくれたし。サポートも献身的にやってったんすね。

タイタニアムのコンサートってファンがたくさんいて、あまりにも俺がコンサートについて行ってるからいったいコイツは誰なんだって、そのうち写真撮らせてくださいってのも出てきたんです。
というのも、FacebookとかTwitterとかのSNSはタイでの需要の広がりが日本よりも早くって。FacebookもTwitterもタイで普及し終わってあんまりってなり始めてから日本で広まっていくようになったんで。

自分自身、タイタニアムのMVに出てたりもするんで、メンバーのサポートでタイのHip-Hopやクラブのシーンで自分の知名度も上げてもらって、みんなSNSにアクセスしてくれるようになって。

MC COGAって呼び名もあれよあれよという間に定着してって、MCを今もそうですけど毎晩やって、ソロのHip-Hopの曲も作ったりして。タイタニアムのコンサートで地方のもアシスタントして2010年に長男が産まれて、子どもがいながらもタイタニアムのおつきみたいなのもMCもできて。
今やってるMCって仕事を始めるまでのストーリーはそんな感じですかね。

忘れない恩返し。




6,Hip-Hop


6,Hip-Hop



いろいろHip-Hopの曲を作ってきたけど、もともと日本での作曲ってライブに来るお客さんのイメージを想定したビジョンがあって作っていくのが当たり前で。
この曲は1曲目、この曲は何曲目って決めながら作ったり、この曲だったらこういう感じでジャンプとかしてもらって盛り上がってもらって、ってイメージがあって。


タイって有名になれば自分たちのライブとかができるのが普通な中で、無名だと日本なら小さなライブハウスだったりから始められるけどタイってそういうのってなくって。DJがメインで、やれても仲間のDJが自分のリリースした曲を流してくれて、1曲パフォーマンスするってのはあるんすけど。メインで5,6曲披露する場がないんすよ。

自分は音楽人生の最後にはバンドをして終わっていくんだろうってイメージはしてたんで。それがいつするかって計画は立ててないながらも、だんだんとバンドで音楽をするって欲が出ていってくんすよ。

自分の人生最後にはなにをしていますか?




7,憧れ


7,憧れ



アメリカニューヨークから来たみんなが知ってるようなラッパーとか、日本にいたら会うこともなかったような人たちとタイに来てから出会っていったんですけど、2016年に自分個人として音楽人生がどこに向かっているのかわかんなくなったんすよ。


それまでは目標があって、日本にいたときには武道館でやる人気者になりたいとか根拠はないけど目標はあるじゃないですか。
なんかこのままラッパーとしてやってても、自分の中で大きなビジョンが生まれなくて。

そこでわかったのが、自分の音楽やりたいと思ったきっかけがBOØWYやXで、そういうロックに憧れたんすよ。タイでラッパーとしてやってた数年間で、日本で活躍してるラッパーともタイに来てから会って、でもあの人たちはステージに立ちたいと思った曲がHip-Hopにインスピレーション受けて始めた人たちがたぶんほとんどじゃないですか。

今でもHip-Hop好きだしその界隈の友達とも遊ぶし。もちろんHip-Hopシーンにいる人にもロックから入ってHip-Hopと出会っていった人もいると思うんですよ。けど、このまま俺やってても、1年しても2年してもこの人たちに敵わないなって、見ててなんとなく思っちゃったんすよ。スキル含めて。
もともとロックミュージシャンになりたくてのめり込んで、そのプロセスでいろんなものに出会って。

結局でも、パンクとかHip-Hopとかヤンチャなのが好きなんでしょうね。ストリートから不良の手で生み出された曲たちで、もちろんスタイルも文化も違うんですけど。

Hip-Hopが好きなのに、自分は家で音楽聴くときにはロックを聴くことが多かったから、なんだかんだで1番好きなのはロックンロールなんだって気づいてきて。バンドから離れてラップでやってきたけど、ファッションもロックが1番しっくりきてるんすよ。

今やってるバンドのグリードの構想も湧いてきて、ベースとギターはこんな感じで4人編成で、そん時は自分だけ日本人であとはタイ人ってメンバー想定だったんすけど。サウンドはこんな感じに攻撃的で、尚且つ俺が築いてきたメロウなキャッチーなのも入ってるやつって。とりあえずでも作ってみようって久しぶりにisaoに会ったんすよ。

THE GREEDのベーシストisaoさんインタビューもぜひご一読お願いします。


☟isaoさんインタビューはコチラ!!☟




8,パンク:THE GREED


8,パンク:THE GREED



isaoもバンコクいるって知ってたんで、どういう意識でisaoに連絡したのか覚えてないっすけど、今度会わない?って。


「そういえば日本帰ったときに久々にベース弾いたんですよ」って。
「え、今でも全然弾けんの?」
「まあ、ある程度弾けます」
ホント?って、じゃあ今デモ音源作っててギターはなんとなく自分で入れられるんだけど、ベース弾けないからデモにベースライン入れてよって。

それでいいですよって、別にバンド組もうって誘ったわけではなく。お互い一切バンド一緒やろうとかなかったのに自然な流れでしたね。
そこからギターとドラム必要じゃんってなってメンバー探しに行って、初期のギターとドラムがいてすぐにレコーディング入ってCD作ってMV撮って。

あれよこれよとあるうちに今のこっちのパンクの仲間たちと会っていって、ライブも精力的にやっていって。メンバーチェンジもある程度繰り返しつつ色んな人のサポートがあって大きなフェスにも出してもらえたんですよ。

そこはやっぱりisaoも日本でハードコアやってきて、それなりに彼も良い位置に上り詰めてって。俺は俺でこれといってすげーバンドにはなれなかったんすけどそれなりのとこでやれて、日本で活動してたから活動経験があったんすよ。周りのパンクバンドの子たちよりisaoと俺は経験積んでたんで、俺ら観た人たちがステージ慣れしてる感じも観て評価してくれるんで。

海外からタイにツアーで来た大きいバンドのオープニングアクトをさせてもらったり。コミュニティも増えて、バンドシーンとMCと両立してやっていく生活が今でも続けられてて。MCとして休みもなくお客さんを盛り上げてる。今後のことはわかんないすけど、やれるとこまで、体の持つ限りはやろうって思ってますね。

いつまでそれをやり、ナニをもって終わらせる。




9,THAILAND Ⅱ


9,THAILAND Ⅱ



ありがたいことにこの歳でもMCとして雇ってくれて、コロナが蔓延してこの先どうなってくんだろって。

収束してやるよー、オープンするよー戻ってきなっつって、そんときにまたクラブに呼んでもらえて。人の温かみっすよね。タイの街だけでなく街のタイ人たちの人柄だとか人間性だとか、タイという国の感じ全部が好きだし。ただなんとなく海外で日本人として生活したいではなく、タイにいる限りは自分がタイのカルチャーに寄っていく感じで。俺日本人だからって感覚は全然なくて、やっぱ日本人だよね、とか日本食が1番美味いとか恋しいもないんすよ。タイ食も日本食と同じくらい好きで。

そういうのふり返ると、自分は海外生活は合ってたのかもしんないっすよね。
日本人日本人するのは自分にとって興味のあることではなくて、この国でこの街でタイ人の仲間たちと一緒になにか目標に向かってやんのが好きだから、今でもバンコクインベーダーズのMCとしてもやっていて。

これが端折って端折っての今までの全貌です。

ナショナリズム




10,今が1番楽しい


10,今が1番楽しい



今がやっぱり1番楽しいじゃないですか。


昔の方が良かったとか自分の若い頃の方が、1番世の中が〜〜〜で◯◯があったから楽しかったんだ!とか、説教くさい親父っぽくもなりたくないし。
自分らだって若いときに”今”が1番楽しいでしょって思ってたし、昔は良かったよねとか言ってる人たちのことなんてよくわかんなかったから、どの時代の若い人たちもその時その時の”今”が1番最高に決まってますしね。

若い頃じゃなくて今でも、今が1番楽しいってのがもちろんあって。過去の方が楽しかったなんて、未来がないみたいじゃないですか。自分たちにとっても、若い人たちにとっても。これから生まれてくる子たちにも申し訳ないじゃないですか。

だから今を全力で楽しんじゃえばいいんだと思いますね。子どものいる自分的には親には迷惑をかけすぎずに、とも思うんですけど。ノリでやっちまえばなんでも楽しいんで。ノリでね。

ノリだぜ、ノリ!!やっちまえ!!!







今回COGAさんにインタビューの記事はPart1,Part2と大長編でしたがいかがでしたでしょう。タイに行ってまさかこんな貴重な経験談を聴けるとは…って感じです。
ファッションから音楽までカッコよく、インタビュー取材の時間も相当な時間だったはずなのに一瞬でしたね体感。いいねやSNSでの拡散等、よろしくお願いします。

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