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中国人はなぜ専制政治を好むの?

専制主義は中国の歴史において決して孤立した現象ではなく、秦政はその象徴として、長い歴史の流れの中で専制の代名詞とされてきました。

秦の時代以来、儒学者たちは、議論を容易にする目的で秦の政治を専制主義の典型として簡略化し、対照的に周の政治は理想的な統治の模範として称賛されてきました。
この対照は、歴史上の人物を単純な善悪の二元論で分類し、孔子と周公が体現する周の政治を「真実・善・美」の光で描き、始皇帝と商鞅による秦の政治を「虚偽・醜さ・悪」の象徴として位置づけています。
しかし、専制主義は中国文明特有のものではなく、文明の衰退期には普遍的に見られる現象です。


始皇帝(しこうてい、紀元前259年2月18日 - 紀元前210年9月10日)は、中国の初代皇帝(在位:紀元前221年 - 紀元前210年)。

専制とは、本質的に治理の単純化されたモデルであり、革新の必要なく、権力の維持のために資源の抽出と破壊に依存します。
対照的に、創造は辛苦を伴う無限の探求のプロセスです。農耕や製品の生産と同様に、緻密な注意と労力を要します。専制の根本は資源の掠奪にあり、この行為は単純で直接的であり、知恵があってもなくても実行可能です。創造、それが農業であれ生産であれ、は多様性を示し、生命の豊かさと無限性を映し出します。一方、専制が選択するのは、力ずくでの単純な奪取です。

各文明には、その暗部として破壊と掠奪の流れがありますが、文明の終焉に近づくと、これらの否定的な現象は明白になります。大半の時代において、たとえ北京や上海のような大都市であっても、犯罪行為は隠されています。しかし、シリアやソマリアのような敵対的な環境では、これらの行為は公然と行われ、社会構造の崩壊を露わにします。人々はしばしばこの観察をもって、秩序と混沌を対立させ、平和な北京や上海と紛争地域のシリアやソマリアを根本的に異なるものと誤解します。実際には、秦の政治であれ、資源を略奪する専制主義であれ、それは文明の衰退時に避けられない特徴です。

では、なぜ中国の歴史では秦の政治が繰り返し現れるのでしょうか?

秦漢帝国の崩壊後、新たな政権が台頭し、秦の政治の特徴をある程度再現しました。これらの政権は最終的に類似の終焉を迎え、その生命サイクルの末期には創造力が枯渇し、資源の掠奪に全ての努力が向けられました。秦の政治、すなわち専制政治の復活は、文明の終末における恒常的な現象であり、その現象は各文明の終焉の前夜に特に顕著です。

中国では、治者が賢明であれ短視であれ、理想政治の時代が常に存在します。

国運が盛んな時期には、周天子や孔子のような治理を称賛することもあります。しかし、文明の黄昏時には、秦の政治が引き合いに出され、専制の傾向が批判されます。

生活の多様性と死の驚異的な類似のように、文明の興亡も同じです。最終的に、人々は終末の静けさの中で、これが秦の政治と何が違うのか、と自問自答し、専制主義が中国歴史の舞台上で、その循環する物語を繰り返し上演していることを認識するでしょう。

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