鳳山

台湾 高雄の歴史建築を訪ねる 4 完

「日本三大無線送信所」という言葉を初めて聞いたのはいつだったか。その一つが台湾にあるというのを聞いて、いつかそこに行きたいと思っていた。
千葉の船橋、長崎の針尾という場所と並んで、三大無線送信所と呼ばれた場所が台湾の南端、高雄の郊外にある。
今回の旅は、かつての日本の最果てに行きたくて高雄を選んだと言ってもいい。

高雄の中心部からMRTという地下鉄で20分ほど、郊外にある鳳山(ほうざん)という街で降りた。

鳳山(ほうざん)無線電信所

ここは大正時代、日本海軍が作った通信施設。今は使われていなくて、文化財として無料で見学ができる。

なんとなく昔から、最果てとかそういう言葉にロマンを感じる。そこにはどんな光景が広がっているんだろう。終点にはなにがあるんだろう。そんな好奇心がずっとある。

鉄道博物館ガイドのお姉さんから、「どうしてわざわざ海外で日本人が作った歴史建築をめぐるの?」と聞かれた。改めて問いかけられると、それって不思議なことなのかもしれない。
面影みたいなものに興味があったから、ということになるのかな。同じ「日本」とされた土地の中で、離れた場所に流れていた時間を感じたてみたかった。

ここには哈瑪星(はません)に流れる懐かしさとはまた違う表情があった。

文化財として保存していると言いつつ、中身はまったく整備されずただの廃墟と化してた。写真で見ると何か出てきそうで怖いな..。
台湾にはこういう「合法廃墟」がたくさんあるので、廃墟マニアとしても楽しめるはず。けっこう自由に中を歩き回ることができる。高雄には他に製糖工場なんかもある。

壁が厚く軍事要塞という感じ。

19世紀末以降、日本海軍の行動範囲はどんどん南洋や中国方面に広がっていく。台湾は日清戦争後に日本の一部になるけれど、「日本の内地ですらまだまだ発展は遅れているのに、そんな土地もらってどうするんだ・・・」という声は政府の中にあったらしい。なんと台湾をフランスに売却しようという話まで持ち上がっていた。
それでも当時この土地を欲したのは海軍だった。行動範囲が広がれば船が補給をするための港や長距離無線通信を行う基地が必要になる、台湾をその拠点にしたいと考えた。そういった歴史の流れを伺えるのがこの場所だ。

ここは単に日本海軍が作った施設、というだけじゃなくて、今に至るまでの歴史がのこる場所でもある 。2.28事件以降、国民党に弾圧された市民が収容された場所でもあるからだ。
2.28事件というのは、台湾の戦後、現代史を語る上で欠かせない出来事の一つ。それまでの流れは、日本の歴史が大きく関係してくるし、台湾に観光するなら是非知っておくべきだと思う。

そのことについて書きたい。

まず、1937年にはじまった日中戦争という戦争がある。これは文字通り日本と中国が戦った戦争で、1945年に日本が負ける。
すると今度は、中国の中で国民党と共産党の闘いがはじまる。それまでは日本という共通の敵がいたことで、「まずは日本を倒そう!」と協力していた。だけどもう共通の敵は存在しなくなると、もともと闘っていた2つの党の内戦が再開された。そしてこの内戦で国民党はどんどん劣勢になっていき、追い詰められ、逃れた先が台湾というわけだ。

台湾は敗戦の1945年まで日本が統治していたことはこのブログでも何度も触れてきた。
それが戦後、今度はやってきた国民党が統治する時代になった。「犬が去って豚が来た」という言葉は当時の台湾人の心境をとてもストレートに表している。犬とは日本のこと、犬はワンワンよく吠えてうるさいけど、番犬にはなるから自分たちを守ってくれる。だけど豚(国民党を指す)はただそこにある飯を食べ散らかすだけで、何の役にも立たない。そんな風に揶揄する意味合いでこの言葉は使われる。

そして1947年、国民党のやり方に反対する市民のデモを、党は武力で鎮圧した。これが2.28事件だ。この鳳山の無線送信所は戦後、党が市民を拘束する施設として使われていたんだ。そんな暗い歴史も持っている。

僕はこの話を引用して「日本の統治時代は良かった」と手放しで言いたいわけじゃない。実際に日本統治時代に生まれて日本語で教育を受けていた日本語世代のおじいさんと話したことがあるけど、当時のイメージというのは人によって千差万別だし、決して一言では語れないと言っていた。何となく苦い表情をしていたのが忘れられない。

台湾が日本によって発展、近代化したのは事実だろう。だけど、はじめは現地人の抵抗運動は激しかった。日本はまず多くの兵力を国内から注ぎ込んで抵抗運動を鎮圧した。この時物資を運ぶために作られた軍事軽便鉄道はのちの南北を結ぶ縦貫鉄道の建設に繋がっていく。
制圧と開発は表裏一体で進む。それは当時の歴史を俯瞰してみれば世界共通の流れなのだろう。

高雄(たかお)という名前も日本が京都の地名にあやかってつけたものだ。
もともとは打狗と書いてタアカオと呼んでいたのを、「犬を打つ」とはひどい地名だ!と日本人が元々の音を拾って高雄と当てた。
それが戦後に漢字だけ残って、現地の人は中国語読みでカオションと呼ぶ。地名の名残というのはなんとも面白い。

送信所内部 意外と物は片づけられていた

なぜか壁に描かれたブルース・リーの落書き 「友よ、水になれ」


台湾が親日というのは確かだ。みな優しいし、博物館に行けば日本統治時代は好意的に描かれている側面が多い。
それとは対照的に国民党時代の初期は暗く描かれている。つまり、戦後の混乱と弾圧に比べればかつて日本だった時代はまだ良かったよね、という比較の問題ではないかと僕は思う。だからノスタルジックな雰囲気を持って在りし日の台湾は描かれるんじゃないだろうか。今回の旅で実際にそういった展示を確認できたのはよかった。
それでも、彼らがいかに日本が好きとは言え、歴史を振り返ればそこには複雑な心境がある事は心にとめておく必要があると思う。
僕たちが「台湾は親日だから良いよね」と気軽にいう時、そういった過去の事はあまり問題にされていない、というかそもそも良く知らないという人が多いと思う。

どういう事があったのか、気軽に知ってもらえる機会があれば、アジアとのつながりはもっと深まる。歴史建築は純粋に目で見て楽しい、美しい。そしてそれが今残っていることも一つの歴史だ。

今回は、台湾に残る日本の面影をたどりながら、自分たちの歴史について考えてみた。

#台湾 #高雄 #旅 #建築 #歴史

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