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【大江健三郎『万延元年のフットボール』】「本当の事」は何より痛い【読書記録】

夏期休暇中、腰を据えて読みたい本があった。
それは大江健三郎の『万延元年のフットボール』。
わたしのあまりに貧弱な純文学経験では、片手間では太刀打ちできないだろうことがわかっていたから。

実際、最初はただただ辛かった。
目が滑る。文字を確かに追っているはずなのに、内容が全く入ってこない。書かれている日本語が理解できない。
でも、ある一点を超えると一気呵成。
物語が動き始めると同時に、わたしのシナプスが大江健三郎に順応し始めた感覚があった。
もしかしたら、それは何としても結末を見届けてやるという執念だったのかもしれない。
文庫なのに2090円もした、という貧乏性故の執念。

大江健三郎『万延元年のフットボール』

大江健三郎の金字塔と称される本作。
『死者の奢り・飼育』で「なんのはなしですか」と天を仰ぎ、もう読むことはないのではと思っていたのに。
なんらかの引力がはたらいたとしか思えない。
というのも、『個人的な体験』に手を出してしまったのだ。『個人的な体験』を読んだら、二年の沈黙を経て書かれた次作である『万延元年のフットボール』に手を伸ばすのは必然。
わたしは知りたかったのだと思う。
作家・大江健三郎が「命」とどう向き合ってきたのかを。沈黙していた間に、どんな結論に至ったのかを。
出逢えて、読めて、よかったと今心から思う。

頭部に障害を負って生まれてきた新生児、その子を産んだ女、我が子が畸形であるという事実に倦んだ話者、と『個人的な体験』と共通するモチーフが多い。
それはまさに筆者の「個人的な体験」に基づいて生まれたもので、小説として書くことで我が子の受けた生のかたちと向き合うことにしたのだろうと思う。
モチーフに共通点の多い二作だけれど、『万延元年のフットボール』は前作をより詩的な領域にまで高めた作品だと感じた。
寓話的でもあり、叙事詩のように壮大。
それは、本作が現代である1960年(それでも現在から見ると六十年以上も前!)と、1860年(万延元年)を行き来する構成になっているからだろう。
その二つの時間軸をたどり、四国の山村で起きた「一揆」の顛末を見守ることになる。

わたしが読んでいて強く感じたのは、「行き過ぎた自己実現欲求の怖さ」。
「こうありたい」という自意識があまりに強いと、人はいとも容易く自分自身にコントロール、洗脳されてしまうのだ。
自意識によって破滅していく様はあまりに壮絶で、読書ノートを素面で書くことができず、アルコールの力を借りることになった。
自らの破滅さえ台本を描いてその通りになるよう仕向けていく、そんな強い陶酔、倒錯に当てられたのだと思う。
願う通りの自分になった彼は幸せだったのだろうか。
それとも間際に叫んだ「本当の事」を悔やみ、夜ごとに懺悔していたのだろうか。
わたしには明確な答えを出すことはできなかったけれど、次の大江作品を手に取るには十分な動機となった。

認めざるを得ない。
わたしはここに来て大江健三郎に絡め取られている。
いいとこ取りをしたくて、岩波文庫の大江健三郎自選短篇を買ってしまった。
848ページで1518円。岩波はお財布に優しい。

#どうでもいいか

「ハマる人にはハマる」って言葉がこれ以上しっくりくることある?


序盤は確かにしんどい。投げ出しそうになるのはとてもよくわかる。
とりあえず、「6 百年後のフットボール」まで頑張ってみてほしい。講談社文芸文庫でいうと173ページ。
そこから舞台が動き始める。どうなっていくのか、見届けたくなるはずだから。
わたしは「表現を追う」ことよりも、断然物語の顛末が気になる。
#なんのはなしですか


#読書
#読書記録
#読書感想文















おまけ

死ぬまでに1回でいいから可愛い声で喋ってみたい

#スタエフ








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