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その1.アートは役に立つのか?

しかし「アートが役に立つのか?」などというタイトルでは、アーティスト連中に喧嘩売っているようなもんだな。コロナ禍の中で、政府から「不要不急の外出は控えろ」と言われて、あらゆるコンサートや劇場、美術館などでのイベントが中止に追い込まれ、多くのアーティストたちは、自分の存在意義まで見失ってしまっていた。芸術活動は、社会にとって実は不要不急だったのかと・・・
洋の東西に関わらず、芸術が花開くのは裕福で芸術に理解があるパトロンが存在しているからだ。社会が豊かでないと、娯楽や芸術にまでお金が回ってこないのは確かだろう。ハプスブルグ家の庇護がなかったら、モーツアルトやベートーベンたちの偉大な交響曲は生まれなかったし、茶会を茶道として大成させた千利休は天下人である豊臣秀吉の側近だったからだ。
しかしハプスブルク家がフランス革命によって滅亡してもクラシック音楽は未だに活況で、豊臣家が没しても茶道は連綿と引き継がれている。一度誕生した芸術は、たとえ直接何かの役に立たなくても、数世紀もの間生き永らえることができるのだ。なぜだ?美意識か?

日本は、いつのまにか先進国の中でも貧乏国に成り下がってきたが、それでも過去の栄華による膨大な資産があるので、伝統文化はまだまだ生き永らえている。時の権力者が好んだ完成された様式美の「能」、大衆が熱狂した変幻自在の「歌舞伎」、世界でも人気の「浮世絵」「大和絵」「着物」等など。第二次世界大戦に敗れて、日本中が焼け野原になり、国民の大半が飢餓状態になっても、伝統文化・芸能はしぶとく生き残った・・・。

そもそも、「役に立つ」ものだけが残り「役に立たない」ものは消える、という前提が間違っている?それとも芸術・アートは「役に立つ」ものなのか?はたまた、役に立つ/立たない、という単純な2項対立という設定、現代人の悪癖が悪いのだろうか。

役に立つ=有用性=功利(utility)だが、19世紀の学者ベンサムの学説・功利主義(utilitarianism)では、人間の行為の善悪は、その行為の結果としてもたらされる功利によって決定される、と説いた。イギリスの社会思想家ジョン・スチュアート・ミルは、功利主義における幸福や快楽とは、肉体的・即物的快楽だけではなく精神的・知性的な効用のことも含めて「快楽」とした。これが、まあ俗にいう「太った豚よりも痩せたソクラテスになれ」という言葉になるのだが。

最初の話から横道に逸れてきてはいるが、「役に立つ=有用性」には昔から精神性も含まれていると考えられているようだ。この学説に従うと、「アート・芸術は人々に精神的豊かさを与えてくれるので役に立つ」ということになるな。まぁ健全な考え方だが、日本語で「功利主義」と言ってしまうと、徹底した即物的利益の追求のように聞こえてしまう。特に現代の「出来るビジネスパーソン」は、物事の価値判断を「経済的価値」という単純な価値基準でしか判断しないので、経済的価値のないアート・芸術は役に立たない、となってしまう。特にどこの馬の骨か分からないような新人作家のモダンアートなんぞに、価値があるとは思わないだろう。しかし高名な評論家や画廊が推薦したとたんに、市場価格を勘案した取引価格で扱うはずだ。モダンアートの価値は、誰がどんな人物が描いたか、誰が推薦したか、どんな賞を受賞しているのか、人気があるかなどで決まり、作品そのものが内在しているはずの美的価値とは無関係なのだ。
しかし自分で書いていて、実に情けない考え方だと思うのだが、現実にはこんなもんだろう。アーティストは霞を食って生きているわけではないので、どうしても自分のアート作品をマーケットで売らなければならない。このためマーケットが望む嗜好に寄り添うことになり、似たようなポップなカラーのアニメ調イラストが増殖していく。やがて「Midjourney」「DALL-E 2」のような画像生成AIの普及によって、アニメ調のポップアートが大量生産・大量消費され、イラストレーターという職業は消滅していく・・?

【続く】

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