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「エンドオブライフについての論考」①

近年、日本では「終活」という言葉が流行っています。言葉としてすでに定着したと言えるでしょう。この終活の一般化の背景には、死が従来の「家や地域」から、核家族化や独居高齢者の増加などで「個人」に移ることにより、高齢者に老後の不安が高まっていることが背景にあると考えられます。
この終活では、介護サービスの選択、葬儀や墓の準備、相続の準備として遺言書の作成、生前整理などを、まだ元気のうちに行います。最近では、「デジタル終活」としてデジタル遺品の破棄、つまりFacebookやTwitterのようなSNS会員の登録抹消などを行う人もいるようです。
それでは避けることが出来ない「死」を迎えるにあたって、人々はどのように考えているのでしょうか。宗教・哲学・科学など様々な観点から考察してみたいと思います。

■釈迦の死生観
仏教の開祖である釈迦は、優れた思想家でした。紀元前5世紀に、西洋のキリスト教やイスラム教とは全く異なる死生観を唱えています。西洋では、人生は神から与えられた良いものとされ、その喪失である死は悪いことであり、したがって人生はできる限り有意義に過ごすべきだ、という教えです。しかし釈迦は、人生は苦であり、その苦を喪失することは悪いことではない、と説いています。

仏典には、「四諦八正道(したいはっしょうどう)」という真理があります。この「四諦」とは、苦諦・集諦・滅諦・道諦の4つを言い、諦とは真理という意味です。


苦諦(くたい)とは、人生は苦であるという真理です。苦とは生老病死などのことで「四苦八苦する」の語源となっています。
集諦(じったい)とは、人生の苦しみ(苦諦)の原因に関する真理です。人間は、自分の不幸や苦しみを社会や他人の責任にすることがあります。しかし、苦しみの原因を突き詰めて考えてみると、自分自身にあるということに気付きます。様々な煩悩や欲望、執着が苦しみの原因をつくっているのです。
滅諦(めったい)とは、苦の滅した状態です。一切の欲望・煩悩を断じ滅して、それから解放されれば、悟りの境地に達することができます。これが涅槃(覚り)の境地です。
道諦(どうたい)とは、苦を滅する方法の真理です。苦を滅するため、正しい考えや正しい努力をするなど、8つの実践方法・八正道(はっしょうどう)を説いています。この八正道の実践によって、苦を滅し悟りの境地に到ることができるのです。
己の欲望こそが、すべての苦しみの原因であり、その欲望を解放することで苦しみを脱することができる、という考え方が仏典の真髄にあります。
さらに生死一如(しょうじいちにょ)、生と死とは一つの如し、という言葉があります。生と死は切っても切り離せない関係にあり、避けられない死を見つめることが今ある生を見つめることになる、という教えです。

世俗の人なら、「死は怖く不安だ。死後も存在できる魂はあって欲しい」などと漠然と思っています。しかし釈迦の教えにあるように、避けられない己の死をよく見つめ、苦しみの原因は己の「欲」であることに気がつくことで、その苦しみ(スピリチュアル・ペイン)から解放されるのではないでしょうか。

「エンドオブライフについての論考」②



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