④ 私達は何をもってして大人となるのか
はじめに
こんばんは、せーさんです。
今日は表題のとおり、「大人になる」ということについて私の考えを綴ります。
私達がこの社会に産み落とされて、どうやって生きていくのか、その先を思ってみました。
ゆるくいくので、肩の力抜いて読んでください
では本題にいきましょう!
大人になる儀式
さて、
皆さんはいつ、大人になりましたか?
成人式ですか?
高校や専門学校、大学を卒業した時ですか?
私にはどうも、自分が劇的に大人へと変化した瞬間は一回もなかったように思うんです。
では私達は何をもってして「大人になる」のでしょうか?
私は現在、社会人になって三年目、
実家を離れて一年。
保護者と呼べる人はいよいよいなくなりました。
社会人としても「まだ若いし」が言い訳にならなくなってきて、ちょっとだけわかってきたことがあります。
それは、
「大人になるとは、きっとこういうことではない」ということの定義です。
少し伝わりにくい言い方になりましたかね(笑)
「こんなのは大人じゃないよ」というイメージがある。そういう、「大人の逆」が見えていれば、私達は「大人」に向かっていけるのではないか、ということです。
「大人になる」の逆を定義する
私達がこれまでの人生で必死に身につけてきた技術とか知識とかは確かに大切です。
でも、結局は細かくて密なコミュニケーションとか、コミュニケーションをとりにいくべき理由とか、どんな相手でも関わりにいくためのほんのちょびっとの勇気とか、そういう「大人になる前は備わってたはずの感覚」を失っていないことが大切なのではないか、と思ったわけです。
そういう座学で身につける以外で感じ取ってきた、人として備えておくべき部分がない人を、私は「大人」だと思えません。
ただ神様の気まぐれで私達より何年か早く生まれただけの人達が、在職年数だけで能力と釣り合わない席に座り、機能停止している組織はいくらでもありますよね。
たった三年働いただけで、知識と経験を重ねれば重ねるほど、知識と経験を発揮しなくていい立場に就きやすくなる矛盾もよく理解できました。
いつの間にか働くことが手段から目的になって、休暇を取ったり定時で帰るだけで「すみません」と言うようになって、
そういう当たり前の部分にどんどん気づけなくなって、しんどくなってどこかで考えるのをやめてしまう。
「若い芽を摘む」というのは、きっとそういうことを指すのだと思います。
「大人になる」というのは、そういうことではありません。
私達は大人であるために、絶対に「そっち側」に堕ちてはならないのです。
最後に
今日は正解のない問題について話してみました。ここまでお読みただき、ありがとうございます。
嬉しいことに、私の記事は様々な年代の方に届いているみたいです。
私の記事を読んだ皆さんが、自分の若い頃や今ドキの若者のエネルギーを感じていただければ本望です。
一つ前の記事では、上に立つ人間に求められる資質を追求してみました。反響が良かったようなので、もしよければご一読ください。
今日はここまで、それでは!
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