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『救いの成就と滅び』

2024年6月9日

 今日はかなり難しい問題を考えてみたいと思います。
現在のパレスチナで起こっているイスラエルとハマスの激しい戦いで多くの命が失われていることについてどう考えるかということです。聖書で言えばカナンの地はイスラエルの所有ということになります。
キリスト教会はユダヤ人対アラブ人という図式においてユダヤ人を支援する傾向が強いかもしれません。しかし、客観的な見方ではイスラエルはパレスチナ人を殺戮、排除しようとしていると見られており、徐々に国際世論もパレスチナよりに傾いてきているように思います。

ここで出エジプトの話をさせていただきますが、40年の荒野の放浪の終盤、イスラエルの民を導くリーダはモーセからヨシュアへ引き継がれます。 そして、ヨルダン川を渡りカナンの地に入ったヨシュアたちはエリコの街を攻めました。先日もお話しさせていただいたようにエリコの街の人々はイスラエルを恐れるあまり戦いを避け、非常に堅固な城壁のなかに立てこもったのです。この城壁は神の助けによって崩れ、イスラエルはエリコの住人すべてを殺戮、家畜などの財産もすべて処分されたのです。

■ヨシュア6:20~21
角笛が鳴り渡ると、民は鬨の声をあげた。民が角笛の音を聞いて、一斉に鬨の声をあげると、城壁が崩れ落ち、民はそれぞれ、その場から町に突入し、この町を占領した。彼らは、男も女も、若者も老人も、また牛、羊、ろばに至るまで町にあるものはことごとく剣にかけて滅ぼし尽くした。

この時にエリコの街で一部の財産を隠して私物化したアカンによって罪を犯したため、次のアイの街ではイスラエルが大敗を喫しますが(ヨシュア7:1~26)、最終的にはアイの街の全住人がすべて殺されました。

■ヨシュア8:24~26
イスラエルは、追って来たアイの全住民を野原や荒れ野で殺し、一人残らず剣にかけて倒した。全イスラエルはアイにとって返し、その町を剣にかけて撃った。その日の敵の死者は男女合わせて一万二千人、アイの全住民であった。ヨシュアはアイの住民をことごとく滅ぼし尽くすまで投げ槍を差し伸べた手を引っ込めなかった。

野原や荒れ野で殺したということは街から逃げていた無抵抗な人までも殺戮したということになります。
これがキリスト教会でいわれるところの「聖絶」といわれている扱いの難しい話です。

現在のイスラエルも神に与えられた約束の地であるから、そこに住むパレスチナ人がどれほど命を失おうがかまわないという考えが根底にあるように思えます。現在のイスラエルが「聖絶」という言葉を口にしたとしたら、キリスト教会はこれをどうとらえるべきなのでしょうか。
私は正直、「聖絶」という言葉が嫌いです。ヨシュア記の殺戮はそんなに簡単な言葉で片づけて、ごまかせる問題ではないからです。

皆さんはどうおもわれるでしょうか。


【まとめ】


出エジプトの話をはじめた以上、ヨシュア記のこの殺戮の問題を避けて通ることはできません。
本題に入る前にもう少し現在のイスラエルを取り巻く環境についてお話しさせていただきます。アメリカはイスラエル寄りの姿勢を隠そうとしていませんが、これには政治の影響が強くアメリカ国内のユダヤ人コミュニティの影響力が強く無視できないためであることは皆さん知っての通りです。しかし、一般のアメリカ人のなかにはユダヤ人を嫌う人が少なくないようで欧州でもそういう傾向があるようです。ただ、教会はアメリカに限らずどうしても聖書の預言を信じたくなってしまうのでイスラエルを支援したくなってしまうのかもしれません。
それに対してイスラエルのユダヤ人はすべてではないのですがキリスト教会に対しても攻撃的な人がおり、イスラエルのキリスト教会もたいへんな忍耐を強いられているようです。でも、そのようなことは報道されず、イスラエルはアメリカなどを上手に利用しているように思えます。国際世論はというと報道される内容によって左右されて感情的にものをいうばかりになっているのではないでしょか。

この状況を正しく捉えるのは非常に難しいと思います。私もわかりませんが、頭を悩ませながらヨシュア記をいったり、きたり読んでいて少し気になったところがありました。

■ヨシュア5:10~15
イスラエルの人々はギルガルに宿営していたが、その月の十四日の夕刻、エリコの平野で過越祭を祝った。過越祭の翌日、その日のうちに彼らは土地の産物を、酵母を入れないパンや炒り麦にして食べた。彼らが土地の産物を食べ始めたその日以来、マナは絶え、イスラエルの人々に、もはやマナはなくなった。彼らは、その年にカナンの土地で取れた収穫物を食べた。ヨシュアがエリコのそばにいたときのことである。彼が目を上げて、見ると、前方に抜き身の剣を手にした一人の男がこちらに向かって立っていた。ヨシュアが歩み寄って、「あなたは味方か、それとも敵か」と問いかけると、彼は答えた。「いや。わたしは主の軍の将軍である。今、着いたところだ。」ヨシュアは地にひれ伏して拝し、彼に、「わが主は、この僕に何をお言いつけになるのですか」と言うと、主の軍の将軍はヨシュアに言った。「あなたの足から履物を脱げ。あなたの立っている場所は聖なる所である。」ヨシュアはそのとおりにした。

エリコの街を攻める直前、過越の祭をカナンの地の産物で祝った時の話です。この時、約40年に渡って天から与えられてきたマナが止んだとあります。そして、抜き身の剣を手にした物騒な男が近づいてくるのですが、この男は「主の軍の将軍」と名乗り、「今、着いた」と言います。ところが、ヨシュアの質問には答えず、履物を脱げと、ちょうどモーセが燃える柴を見た時と同じようなやり取りがあるのですが、そこで話が終わってしまっていて以降、この男はヨシュア記に出てきません。何だったのでしょう?
「主の軍の将軍」については「受肉前のキリスト」という解釈が多いようなのですが何故、そうなのかはっきりとした説明がありません。

カナンは神の御国の写し絵であるとお話してきましたが、そこからヨシュア記を考えるとヨシュア記全体が救いの成就を示唆したものになります。それはキリストの十字架によっての贖いです。
けれども、十字架によっての贖いが示すのは「救い」だけではありません。

■1コリント1:18
十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者には神の力です。

「救い」があるということは「滅び」があるということで、十字架の救いが成就したということは永遠の滅びも確定したということでもあるのです。

■マタイ10:34~35
わたしが来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ。わたしは敵対させるために来たからである。

キリストの言葉とは思えないかもしれませんが、これが抜き身の剣を手にした男とヨシュア記に書かれたキリストではないかと思います。
主の軍の将軍であるキリストはイスラエルの前にあって自らエリコの街、アイの街を滅ぼしたのです。これは人による殺戮ではなく神による裁きであるということを示すためではないかと思います。キリストがそんなことする筈がないと違和感を覚える方もいるのではないでしょうか。
しかし、実際にキリストによらないものは十字架によって永遠の滅びに定められたというのも無視できない事実です。

では、神はエリコの街、アイの街を憐れまなかったのでしょうか。
ヨシュア記はイスラエル目線でしか書かれていませんのでエリコの街、アイの街と父なる神の間で起こっていたことを私たちはしりません。カナンの地の悪が満ちるまで神はただ待っていただけではないのです。

話が飛びますが紀元前722年、北イスラエルはアッシリアによって滅ぼされてしまいます。アッシリア軍は非常に獰猛で残虐、その首都であったニネベには悪が満ちていました。そこに予言者ヨナが敵の街でもあるニネベへ遣わされる話がヨナ書に記されています。
ヨナは孤独ななかで務めを全うしニネベは救われるのですが、実はヨナがニネベに行く前に神はご自身の存在をアッシリアのセンナケリブ王に示されていました。ヨナは知らなかったのではないかと思いますが、センナケリブ王は南ユダを攻めた時に神の使いによって18万5000人ものアッシリア兵が滅ぼされるという経験をしていたのです。ですから、ヨナの呼びかけにセンナケリブ王は素直に応じ、悔い改めたのです。こうして神はニネベを滅ぼすことを思い返されました。
神は一方的に人を滅ぼされるということはしません。滅ぼされた民にも幾度となく救いのチャンスはあった筈なのです。ヨナは敵であるアッシリアが滅ぼされることを望んでいたのですが、神が思い返されたことを怒り、すねた子供のような態度をとります。

■ヨナ4:10~11
お前は、自分で労することも育てることもなく、一夜にして生じ、一夜にして滅びたこのとうごまの木さえ惜しんでいる。それならば、どうしてわたしが、この大いなる都ニネベを惜しまずにいられるだろうか。そこには、十二万人以上の右も左もわきまえぬ人間と、無数の家畜がいるのだから。

ヨナ書には滅ぼされる側への神のアプローチが書かれているのです。

キリストが十字架を前に「この杯をわたしから取りのけてください」(マルコ14:36)と言ったのは十字架の刑の苦痛ゆえにではなく、愛する者を滅びに定めなければならない、神にしか理解することができない苦しみによるものだったのではないかと私は思います。

ですから、今、パレスチナで起こっていることは神のみ旨による計画ではなく、人間の愚かさによって引き起こされているのではないかと私は思います。もし、神の計画であれば滅びがあるとしても、救いの道も必ず用意されている筈だと私は信じるからです。
神がイスラエルを本当に回復されるとしたら、他の民を拒絶するのではなく救いの道が開かれるのではないでしょうか。

誰が正しいかなどという議論は無意味です。
愛する者が滅びていくことに血の汗を流されたキリストの苦しみを考え、本当の神の平和の計画がどこにあるのか探るべきなのではないでしょうか。

■エゼキエル36:22~26
それゆえ、あなたはイスラエルの家に言え。主なる神はこう言われる、イスラエルの家よ、わたしがすることはあなたがたのためではない。それはあなたがたが行った諸国民の中で汚した、わが聖なる名のためである。わたしは諸国民の中で汚されたもの、すなわち、あなたがたが彼らの中で汚した、わが大いなる名の聖なることを示す。わたしがあなたがたによって、彼らの目の前に、わたしの聖なることを示す時、諸国民はわたしが主であることを悟ると、主なる神は言われる。わたしはあなたがたを諸国民の中から導き出し、万国から集めて、あなたがたの国に行かせる。わたしは清い水をあなたがたに注いで、すべての汚れから清め、またあなたがたを、すべての偶像から清める。わたしは新しい心をあなたがたに与え、新しい霊をあなたがたの内に授け、あなたがたの肉から、石の心を除いて、肉の心を与える。

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