セロ弾きのゴーシュとかぐや姫から観る学びの構造
学ぶことで自由と不自由を得る
「学ぶことで自由と不自由を得る。」これは、以前収録したpodcastで「なぜ勉強するのか」というテーマで話しをした際に出てきた命題でした。
これは、女の子が馬を描く話の流れから出てきました。女の子は馬を馬だとは知らずにただ綺麗だからという理由で馬を書いていたのですが、それを馬というものだと教えられた日からうまく描けなくなってしまったというお話でした。とても身に覚えのある話です。
生まれた時は自由である私たちだが、生きるためには勉強が必要でそのために不自由にはなるが、その先には不自由を知る自由になるための学びがあるのだと、その時は考えていました。
しかし、最近、高畑勲監督による宮沢賢治原作の「セロ弾きのゴーシュ」を観て、上の命題に対して疑問を覚えたのです。
自由な学びを描くセロ弾きのゴーシュ
セロ弾きのゴーシュは宮沢賢治が亡くなる直前まで推敲されていた作品であり、宮沢賢治最後の作品と考えられています。
物語としては、町の活動写真館の楽団「金星音楽団」でセロ(チェロ)を弾くゴーシュが、動物たちとの交流により演奏うまくなる姿を描いた作品です。
物語は音楽団の練習のシーンから始まり、ゴーシュは楽長に名指しで「音が遅れた」「糸が合っていない」「感情が出ない」と厳しく指摘され、他のメンバーが帰った後に一人で泣いてしまいます。
演奏会が迫る中、毎日夜遅くまで演奏の練習をしているゴーシュが住む裕福とは言えないような家に動物たちが尋ねてきます。
猫、カッコウ、狸、野鼠が連日連夜、ゴーシュに演奏を頼みます。初めこそ、ゴーシュは動物に対して、「こんな馬鹿な真似に構っている暇はない」と厳しい態度をとっていたのですが、動物たちと関わる中で動物たちのことも受け入れるようになっていきます。
そして、いよいよ演奏会ではソロ演奏をし、観客をはじめメンバーや楽長に賞賛されます。
最後は、美しい夕日の中にカッコウが飛んでいるところを見ながら、「ああかっこう。あのときはすまなかったなあ。おれは怒ったんじゃなかったんだ。」とゴーシュが言いました。
ゴーシュは動物たちからチェロの演奏を学びましたが、このゴーシュの学びには自由のみが感じられ不自由さを全く感じませんでした。この物語の後も、おそらくゴーシュは動物たちを感じながらセロの演奏を楽しむのではないかと思うのです。
不自由な学びを描くかぐや姫
一方で動物たちに導かれ自由な学びを描いたセロ弾きのゴーシュとは対照的に、不自由な成長を描いた高畑勲の作品がかぐや姫だと思います。
物語の最初の数十分、竹から拾われたかぐや姫は野山に囲まれた環境で「竹の子」と呼ばれながら物凄い成長を見せます。これとうまく対比するように物語の後半でのかぐや姫の都での生活ではかぐや姫の鬱屈とした成長が描かれます。
竹から生まれ、野山で育ったかぐや姫は、翁と媼に連れられて都の立派な邸宅に住むことになりました。そこでの暮らしはとても裕福で煌びやかなものでしたが、自然の中のような伸びやかな魂の運動は阻害され、かぐや姫は社会の枠組みに窮屈さを感じ、遂には月に帰りたいと願ってしまうのです。「私は生きるために生まれてきたのに、鳥や獣のように。帰りたくない。」かぐや姫は月へ帰ることを心から後悔しながら言いました。
野山での暮らしでは、蛙の飛び方を真似したりキジを追いかけたりと、イキイキとした学びが描かれいているのですが、都での暮らしでは貴族文化の中で化粧や作法などをイヤイヤ学ぶ姿が描かれています。
都でのかぐや姫の学びが、馬を描く少女が感じたであろう不自由さだったのではないだろうか、と僕は思うのです。
この不自由さの正体は何なのでしょう。
創られながら、創っていく
セロ弾きのゴーシュの原作者である宮沢賢治は童話集「注文の多い料理店」の序文で以下のように書いています。
賢治は物語りをゼロから構築したのではなく、風を食べ光を飲むことで賢治の身体がつくられ、賢治の物語はその身体から湧き出てきたものなのです。
真木悠介は鳥山敏子との対談で、普通の旅行が創る旅行であるのに対して、自身のインドの旅が途方に暮れるところから始まる旅だったことを思い出し、その超えられること、創られるという体験があって初めて超えること創ることができるのだと述べました。
また対談中に真木は、バタイユのエロティシズムの本質は本当の他者と出会うことである、とも述べます。主体のあらゆる予想を裏切る本当の他者との出会いによる驚きにより、自分が解体される経験というものがエロティックの本質だと。
私も長期の旅をしている際は、この解体される経験を望んでいたように思える。旅の行き先はできるだけ自分が予想できないところに行こうとした結果、インターネットでも情報があまり出てこない、英語も通じない西アフリカを旅していた。まさにそこでの体験は自分の予想できないことの連続であり、生きている実感がありました。
このような自分を解体してくれたもの、つくってくれたものを通した学びこそが自由な学びになりうるのではないでしょうか。逆に自分をつくっていないけれども、押しつけられるイメージのようなものこそが不自由さの正体なのだと思います。
では、創られるという学ぶプロセスはどのようなものなのでしょうか。
ドーナッツ理論
佐伯胖は「学ぶということの意味」という本で、ドーナッツ理論というものを提唱しました。
図のように1人称的な自己としての「I」、2人称的な自己もしくは他者としての「YOU」、3人称的な他者を「THEY」として表します。特に大切なのが自己と他者の間にある存在のYOUでしょう。これは、「なってみたいもうひとりの私」という自分の中にある他者であり、信頼のできる他者や道具である。そしてこの2人称的な存在(YOU)を通して自己(I)と世界(THEY)が深く繋がっていくというモデルである。
このモデルから考えると、創られるということはTHEY的な存在がYOU的な存在として現れることで自己(I)に変化を及ぼすことだと考えられます。
かぐや姫は貴族文化の作法や習わしをYOU的な存在として自分の中に置くことはできなかったのでしょう。それは、かぐや姫をもののように扱うように感じられ、鳥や獣のように生きたいと願うかぐや姫のなりたい自分と反対に位置することだったのだと考えられます。
しかし、かぐや姫の都での暮らしのように、近代社会はYOU的世界がTHEY化していると言えます。
相手の身になって共感的に理解することなしに、「みんなと同じ」を強要する権力主義や個人が剥き出しになった個人主義のように振る舞います。理解するということが、情報を受け取る以上のものでなくなり、「なってみたい私」を探す旅が始まる前に、「こうなればいい」というイメージを押し付けれられるが故に、自由な学びを見失ってしまうのではないでしょうか。
今こそ、からだの内に他者を置くYOU的存在を通じた、創られながら創っていくような学びが必要とされているのだと僕は強く感じます。
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