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「なんとなくで世の中は良くならない」

2024年7月7日は東京都知事選挙の投票日である。
成人のみなさんはちゃんと選挙に行きましょうね。

小池百合子か。
齊藤蓮舫か。
石丸伸二か。
ドクター・中松か。
果たして、誰が当選するんでしょうね。

毎度のことながら、選挙の話になると異様に熱が入る人々が出現するので辟易してしまう。
「日本は表立って政治の話ができない!」と言う人がいるけれど、大抵の日本人は「自分の意見」と「みんなの意見」と「党派性/属性」と「権威」を全てごちゃ混ぜにしている上、それを人格と切り分けて討論する訓練を受けていない。
なので、一個でも気に入らないことがあればすぐに人格否定をする方向になりがちである。ほぼ全員が「そういう考え方もあるか」と言えるだけの準備ができていなければ、喧嘩になってしまうのは当然だ。

僕自身、2020年の選挙があまりにも残念だったので、政治の話からはなるべく距離を置いておきたいと思っていたのだが、先日友達から聞かせてもらった都知事選の見方がなかなかに興味深く面白かったので、それをさらに詳しく聞いてまとめさせてもらうことにした。
選挙当日を迎える前に、今の状況を整理できたのは幸いである。


過去の都知事を振り返り

巨大政権・石原慎太郎

まず、友人曰く「何故、小池百合子が当選し続けているか」を考えるためには、過去の歴史を少し振り返る必要があるという。
多くの人はもう忘れているかもしれないが、この4半世紀で東京都知事はたったの4人しかいない。そして、その中でも一番の長期政権を維持した政治家が石原慎太郎である。

弱冠24歳で作家として芥川賞を受賞。その後は政治家へ転向して、参議院議員や衆議院議員、国務大臣も経験し、1999年に東京都知事に初当選してから2012年まで4回の都知事選を勝ち抜いてその座に君臨していた人物だ。

経歴だけ見ても相当すごいが、何よりも人を惹きつけたのはそのカリスマ性だ。
動画などを見ても分かるが、石原慎太郎は“今だったら”ほとんど暴言と言われるほど言葉が強い。しかし、言葉の端々などから滲み出る知識人としての知性、人からの評価を一切恐れない態度、そして、必要があると判断した際には(それが賛同されるにしろ批判されるにしろ)強引とも言えるほどの勢いで行動に移す実行力がある。それが、東京都という巨大な都市を牽引する強いリーダー像として評価されたらしい。

かつて、2010年に漫画やアニメの「不健全」と思われる表現を規制しようとする条例案が提出され、石原慎太郎もこれを推進していた。公権力によって表現の自由が侵害されかねない、各方面に非常に大きな影響を及ぼす条例案だったため、各業界からも猛反発が巻き起こった。
(詳しい経緯は『マンガで振り返る「東京都の表現規制」、だから都議会は重要だ』を参照されたし)

しかし、これほど大きな対立が起こっても、石原慎太郎の人気は衰えることはなかった。
東日本大震災の直後に行われた都知事選では、約170万票を得た東国原英夫に対し、石原慎太郎は約260万票を得て4選を果たしている。
靖国神社への参拝や、震災の瓦礫問題「東京都が尖閣諸島を買う」と言い放った一連の騒動も、「一部の反発を招こうとも決してブレない」という強い姿勢を世間に示したことは間違いがないだろう。
そして、国政に復帰するため2012年に自ら辞職するまで、石原政権は続いたのである。

スピード辞任・猪瀬直樹

石原から後継指名を受け、次の東京都知事に当選したのは猪瀬直樹である。猪瀬は、石原政権下の2007年から石原が辞職する2012年まで副知事を務めており、史上最多の433万票を得て当選を果たした。
しかし、猪瀬政権はたったの1年で終焉を迎える。
猪瀬が、選挙の際に医療法人の徳洲会から5000万円を内密に受け取ったとされ、これが賄賂ではないかと疑惑が上がったのである(本人は「借りた」と弁明した)。

この5000万円問題は、猪瀬直樹を想起させるのに一番分かりやすい表現となってしまった。「現金を受け取った」とされていたのに、実際の鞄に5000万円が入らなかったというのも、もはや嘘を象徴しているかのような光景であった。

この事件の具体的な問題点や違法性を検討すると、なかなか難しい。
選挙でお金を借りるなんてことは政治家は誰でもやっているし、お金を借りること自体は一般市民だって当たり前にする。
ここで問題となったのは、“収支報告書”のような、選挙のルールとして決められたものにその巨額のお金を記載していなかった、ということだ。
しかし、法律など分からない一般市民の目からすると、
「何かルールを破って、こっそりお金をもらったんだ」
「5000万円ものお金を隠していたんだ」
「都民を騙して自分だけ5000万円ももらってズルい」

という漠然とした悪いイメージしか抱かれず、テレビなどに映った気の弱そうな猪瀬の答弁も、このイメージをさらに増幅した。
これによって、各方面から支持を失った猪瀬は、2013年のXmasに東京都知事を辞職した。

公私混同で差をつけろ・舛添要一

猪瀬の辞職後、2014年の東京都知事選を制したのは、元・自民党の参議院議員であり厚生労働大臣も務めた舛添要一だ。
2010年頃から自民党と仲違いをして除名処分を受けるなど、様々な変遷を経てはいたが、都知事選では他の候補に100万票もの差をつけ当選を果たした。

しかし、この舛添も2年4か月で都知事の職を辞することになる。
公用車の私的利用や、高額な出張費や宿泊費、家族旅行の費用を政治資金から支出するなど、数々の公私混同をしていると疑惑が上がったのである。

この疑惑が上がってからというもの、舛添は連日のように議会で追及を受け、辞職を迫られることになった。
弁護士ら第三者によってもこの資金の使い方については調査がなされたが、その評価は「不適切であるが違法ではない」というものであり、舛添は当初、このまま知事を継続する意思を示していた。

ここでも、市民の反発を招いたポイントは「なんらかの法律に違反しているか」ということではなく「知事という立場を使って私腹を肥やしていたか」ということにあった。
実際、政治資金で良い想いをしていたのは間違いなかっただろう。
さらに、政治資金から支出したものに、そば打ちやピザの本、『クレヨンしんちゃん』の原作本など、とても政治的とは言い難い庶民的なもの含まれていたことも、顰蹙を買ったポイントだった可能性がある。
自分が苦労している中、誰かが仕事をサボって漫画本を経費で買って読んでいたら「ズルい!」と腹が立つだろう。それと同じだ。

最終的に、明確な説明責任を果たすことがないまま、舛添は東京都知事の職を辞した。
ここまでが過去の都知事についての振り返りである。

第二の巨像・小池百合子

石原慎太郎との違い

舛添の後任を決める2016年の都知事選に、小池百合子は突如として出馬を表明した。
この動きは、当時小池が所属していた自民党にも衝撃だったらしく、完全に小池百合子の独断の行動であった。
しかし、巧みな言葉のセンスと戦略で「たとえ孤独でも、腐敗した組織を脱し、都民のために自らを捧げる女性」というイメージを作り上げ、他候補の2倍近くの約290万票を得て当選を果たす。
小池百合子は初の女性都知事としてその座に就き、石原慎太郎に次ぐ、実に8年の長期政権を実現したのである。

石原慎太郎と小池百合子、この二人は明らかにタイプの異なる政治家だ。
石原慎太郎をズケズケと思ったことを口にして前進していく行動派とすれば、小池百合子はニコニコと笑いながら聞きやすく整理された言葉を話す穏健派に見える(実際にそうであるかどうかは別として)

どうしてここまで対局的な政治家が、二つ目の長期政権を樹立できたのか。
友人の話では「石原の頃と違って、今は世の中に強い態度の人が求められていないから」だという。

先程、石原の言葉の強さについて、「“今だったら”ほとんど暴言と言われる」と書いた。その言葉をいくつか例として紹介する。

「誰が言ったか知らないけれども、バカな質問しない方がいいよ。恥ずかしくねーか本当に。聞いてる方が恥ずかしいよ」

「夫婦の性生活みたいなのを漫画に描くことが子供たちに無害だっていうなら、バカだね、そいつら。『頭冷やしてこい』と言っといてくれ」

「どこの国が嫌がろうと、日本人が日本の国土を守る、島を取得するのに何か文句がありますか」

「菅(直人)って人間って一体どこの人間かと思うぐらいね、彼の金銭の関係で北鮮系の連中との関わりを見てもね、あんなに怪しい政治家が総理大臣になったというのは、私は驚きだね」

過激である。今時だったら炎上どころでは済みそうもない。
何故これが許されていたのかと言えば、昔は市民がこのくらいの発言を当たり前に交わしていたからである。
石原が当選した1999年はまだそういう世相だっただろうし、その態度を維持したまま2012年まで都知事を務めたため、世間も「いつも通りの石原だ」と思って違和感を感じていなかったのだろう。

一方で、小池百合子からこうした過激な発言が飛び出したことはほとんどない。選挙戦でも丁寧に言葉を選び、明るい展望が抱けるような話しぶりで、他の候補者を鋭くこき下ろしたりすることはない。
僕ですら、今見ても「小池百合子は選挙演説が上手いな」と思ってしまう。

こうした態度は、この十数年の間にSNSなどのツールが一般に普及し、それによって政治家だけでない普く全ての人々の発言が、後々まで記録され、監視されるようになったことと無関係ではないだろう。
現に「炎上」という言葉が一般的に使われ始めたのも、スマートフォンやTwitter(現:X)やFacebookが市民権を獲得し始めた2011年頃からだという。
過激な批判は支持者の共感を得やすく心地良いが、反面、同じ刃で自分も切られる可能性も相当高い。
今の時代は、一体いつどこから「コイツは前にこんなことを言っていた!」と批判を受けるのか分からない。そのため、人々も徐々に徐々に「これを言うのはやめておこう」と行き過ぎた言葉からは距離を置くようになってきた。
「小池百合子の態度は、そんな世間の温度感をそっくりそのまま反映しているようだ」と友人は言う。

何故、当選し続けるか

小池百合子を批判をしようとするならば、インタネッツからいくらでもその論は引っ張ってくることができる。

今回の選挙では、「明治神宮の外苑開発」問題だとか「プロジェクションマッピング48億円」問題などがよく取り沙汰されている。
「この8年で公約を実現していないじゃないか!」という声も多い。

公約に掲げられた「7つのゼロ」を並べてみると、
・ペット殺処分ゼロ
・待機児童ゼロ
・介護離職ゼロ
・都道電柱ゼロ
・満員電車ゼロ
・残業ゼロ
・多摩格差ゼロ

というものになる。
他にも「花粉症ゼロ」も公約であるらしいので、そこに加えてもいい。
このうち、ゼロになったと評価されているのは、ペット殺処分ゼロだけである(そのカウント方法にもカラクリがあるが)

公約の達成度で見たら、確かに小池百合子は仕事をしていない。そのため、知事としては無能であり、すぐに降ろすべき。
そのように考えそうなものだ。
そうだとしたら、何故、小池百合子は当選し続けるのだろうか。

ところで、この「7つのゼロ」について聞かれた時、その詳しい内容をパッと答えられて、その進捗を日々気にしている人はいるだろうか。
僕などは友人に言われるまで、この「7つのゼロ」が何なのかもあまり詳しく知らなかった。

当たり前だが、多くの人は、政治という大きな運動どころか「周囲の人がどのように生活しているか」という身近なことすらロクに気にしてはいない。気にしているのはほとんど全てが自分の生活のことである。
自分の日々の仕事、給料、生活、健康、人間関係、将来。
そうした自分ごとの中に「待機児童」や「介護離職」や「満員電車」があり、それが市井の人々の共通の問題として集まった時、偶然に政治的な公約となるだけだ。

例えば、花粉症に苦しんでいない人は「花粉症ゼロ」の公約が守られているかなど日頃から気にしてはいない。
子供の命を預からない者は待機児童の数に無関心であり、電車に乗らない者は満員電車へ思いを巡らせることに時間を使うことはない。
自分自身の生活が目に見えて悪くなっていない限り、人は政治がなんとか最低限はうまく回っていると考える。

そういった態度を「人への思いやりがない!」と思うだろうか。しかし、そのこと自体は素朴な感情を持つ市民として生きていれば当たり前の感覚だ。そして、現代を忙しく生きる人々はこの素朴な感情の市民が大半なのだ。

改めて「何故、小池百合子は勝ち続けているか」という話に戻るが、小池百合子は結果を出すことを目的としていない。常に世間が求めるイメージとタイミングを優先し、そのように演じているのである。

「7つのゼロ」について言えば、「達成しなければ辞任します!」とでも言わない限り、取り組んでいる姿勢さえ見せておけばイメージが悪くなることはない。何故なら、こうした諸々の問題が簡単に解決できることではないことは、大人は全員知っているからである。
そして、個々の公約は「ゼロ」というキーワードでまとめられているが、実際は互いに関係しあっていない、それぞれ別個の問題である。
7つの公約はさしずめ「7つの密室」だ。この問題全てについて日々実感を持っている人などほとんどいない。自分の気にする公約が守られなくても「他の公約では、ゼロではないにしても結果が出ているのでは?」と思う人がいてもなんら不思議ではない。

友人からしたら、小池百合子が答弁拒否を繰り返すのもそれが理由なのだという。
下手に誠実に答えて何らかのボロを出したりアラを探されたりするのであれば、限界まで質問に答えないでおくことで、その答えを曖昧にしておくことができる。そうすれば、質問者は小池が「回答しない」ことに対する批判に躍起になり、肝心の答えを聞き出すことには目が向かなくなるというのだ。答えが出なければ、小池の「なんとなくやってくれそう」な印象はそのまま維持される。

老朽化した築地市場を豊洲市場へ移転させる問題も、その点では分かりやすい出来事だった。
2017年当時、この問題は「築地を残すのか」「豊洲へ移転させるか」ということで選択を迫られ、全国から非常に注目されていた。そんな中で、小池は「一度豊洲に移転し、5年後再び築地に戻す」と宣言し、どちらの顔色も窺った第三の選択を行った。
そして、ほとぼりが冷めて世間の注目が他に向くと、今度は「都として築地に卸売市場を整備することはない」と態度を翻したのである。

小池百合子の政治を語る時、「切り捨てる」「排除する」という言葉がよく使われる。
市場の移転問題についても、「小池百合子は築地市場を切り捨てた」と表現することもできなくはない。
しかし、築地市場を気にかけて命を懸けているという程の東京都民は、果たしてどれくらいの数になるのだろうか。
僕は東京に住んで10年以上になるが、あいにく築地市場に足を運んだことはない。観光地として有名であり、外国人にも人気だということは知っていた。しかし、それは長期に渡る築地・豊洲問題がニュースで取り上げられ、付随的に知ったからである。
築地にしても豊洲にしても、東京という巨大都市のほんの一角に過ぎない。そして小池は、次の選挙戦において「ここから支持を得られなくても大して印象は悪くならない」と判断した、ということである。

プロジェクションマッピングの支出についても、そうだ。
「そんなものに50億円も使うなんて!」という声は、意見としては至極真っ当だ。
しかし、このお金は東京都による“仕事”として支出されており、この仕事を請け負った事業者(電通)が存在し、その結果はしっかりと成果物として披露されている。決して、小池百合子がポケットマネーとしてネコババしたものではない。
そして、東京都の一般会計の総額は8兆4530億円であり、50億円はそのうちのたった0.059%に過ぎない。
「この事業のために子供の給食費が減らされた」というような明らかなストーリーがあれば都民も怒り狂うだろうが、結局これは「怪しいんじゃない?」程度の指摘にしかなっておらず、都民がそのことに関心を抱くことはほぼない。細かな会計の荒探しにエネルギーを注げるほど余裕がある者は多くない。
つまり、「この事業を通じて明らかに都民が迷惑を被った」という印象を抱かれない限り、多くの都民にはプロジェクションマッピングの費用がどれだけ高額であろうと関係ないということを、小池百合子は重々承知していたのである。

なんとなく安全な場所

「でも切り捨てたり騙したりってのは酷いよね」と言うと、友人は「それに怒る人は4年遅いんじゃない?」と鋭い指摘をしてきた。

その通りである。
小池は、2020年の知事選で他の候補者から数倍差の360万票を得て、圧勝している。コロナ禍に突入した混乱期だったとはいえ、4年間の小池都政に対して都民がお墨付きを与えてしまった。「このままの政治で良いのだ」と。

僕も友人も、恐らく今回の都知事選も小池百合子が勝利するだろうと考えている。それは、小池百合子が良い政治家だからではない。小池が何も明確な答えを出さず、都民もその空白の解答欄を自分の想像で勝手に埋めたいからだ。

2024年の選挙候補たちも、支持者たちも、皆それぞれに好き勝手なことを言うだろう。とりわけ、人間性をアピールする。
「○○さんは清廉潔白で誠実です」
「○○は、小池よりも都民に寄りそうことができる」
「人格者であり、常識がある。都知事に相応しい」

しかし、東京都知事に求められているのは人格者ではない。
もし本当に人格者が求められているのなら、宇都宮健児が2020年にすでに勝利しているはずである。
実際、今の有力候補者の大半が「清廉潔白」だの「嘘をつかない」だの言った一方で、直近の違反行為や失策や不鮮明な資金の流れを指摘されている。
同じ嘘なら、すでに8年務めた実績があり、現状維持の小池の方が必然的に“安全牌”となってしまう。

「小池都政はこんなインチキをしている!」
「小池都政はこんなに悪いことを計画している!」
「小池はこんな嘘を言っている!」

確かにそうかもしれない。しかし、批判したからといって、その批判した候補が信用できるかどうかは別だ。
新たな都知事が同じようなインチキや不正をしないとどうして言えるだろうか。それを信じられるだけの材料を、小池陣営以上に有権者へアピールできているだろうか。
不正を明らかにすることでそれを改善するというのであれば、それこそ「暇空茜を支持する」という選択をした人々にも道理があることになるだろう。

「なんでこんなやつを支持するんだ! これが正しいのだから従え!」と宣う理屈は決して通らない。
それは「正しさ」の安全圏から一方的に発せられた言葉だ。その「正しさ」に関わりを持たない人には何にも響かない。小池都政を支持している層も「なんとなく安全な場所」にいて、そこから変えることを望まないだろう。

もし本当に政治を変えたいのなら、自分の仕事や学業や生活など、日常の多くを投げ打って、そのエネルギーを政治に注がなければならない。
他人の生活に関わり、リアルな苦しみを知り、資料や情報から正確な実情を捉え、改善のために話し合い、伝えていかなければならない。
そうまでしてやっと、「なんとなく安全な場所」にいる人の心にも訴えることができるからだ。

「そんなこと、私のすることではない」と思わなかっただろうか。
現状維持を望む多くの人々もそう思っている。自分の生活が苦しいのに、他の困っている人のために労力を使ってなどいられない、と。
だが、世の中を良くするというのはそういうことだ。
そこまでの覚悟をしなければ、政治も世の中も自分の人生も、何も良い方向に変えることはできないだろう。

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