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アタック25の話(6)

2022年4月10日、大阪市某所。予選会は午後からだった。 私は近鉄特急「ひのとり」で名古屋から移動したが、途中降りる駅を間違えてしまい、予選会にはやや余裕のない到着だった。そのため、直前の勉強はあまりできなかったが、予選会には地上波時代から参加していて、問題の傾向はあまり変わらないと読み(願望含む)、時事問題中心に事前勉強はしていた。 (2)でも書いたが、予選会は記述式の問題が30問ほど(問題数自信なし)があり、内容は時事・いわゆるベタ問(定番問題)が半々。定番問題は今

    • アタック25の話(5)

      筆記試験は通過したものの、合格通知は届かない。それが何度か続いた。やがて、クイズに対する情熱も薄れ始め、気づけば予選に参加することすらなくなっていた。 月日はさらに流れ2021年。「パネルクイズアタック25」は9月26日、46年の歴史に幕を下ろした。残念な気持ちは当然あったが、参加できなかったことを悔しがることもなくなっていた。「あの場所は自分が立つ場所ではない」という思いがあったからなのかもしれない。 しかし、夢は終わりではなかった。そう、BSJapanextに舞台を移

      • アタック25の話(4)

        祖母を亡くしてからはクイズのことは何も考えられなかった。月一回くらいゲームセンターでクイズゲームをするくらいで、約束(アタック25と僕(3)参照)を守れなかったという思いは「もう勉強してもしょうがない」という悪い方向へ向いてしまっていた。 と同時に、この時期はクイズどころではなかった。転職したためである。祖母に何もしてやれなかったという思いから、介護職の道に進むことにしたのだ。年齢的にリスクの低くない行動ではあったが、これから必要にされる仕事なのは間違いないと思い決断した。

        • アタック25の話(3)

          予選初参加から年月が流れた。それからも、予選への挑戦は続けた。筆記試験は通過の方が多く、面談と合わせた結果、合格通知も2度いただいた。もしかしたら…という思いは常に心の中にあった。 しかし、2度とも合格通知から1年経っても連絡が来ることはなかった。やはり狭き門、理解はしていたつもりだったが、この頃から徐々にアタックへの情熱は薄れていった。 それから月日は流れ、2013年秋。父親から届いた1通のメールに僕は大きなショックを受けることになる。 「おばあちゃんがすい臓がんで余

        アタック25の話(6)

          アタック25の話(2)

          第一章〜予選初参加 ある日届いた一通のハガキ。パネルクイズアタック25(以下アタック)の予選参加の案内だった。何でも、ハガキが届いた時点で選ばれた者らしく、全員が全員参加できるわけではないらしい。と、喜びたいところではあったが、予選の日はハガキ到着から僅か1週間(くらいだったはず)後。短期間で対策をしなければならない。 ここで取った行動は2つ。まずは時事問題対策。ネットで予選参加された方々の体験記を読んでいったところ、予選の問題の約半分は時事ということで、これを勉強しない

          アタック25の話(2)

          アタック25の話(1)

          序章〜クイズとの出会い〜 パネルクイズアタック25(以下)。初めてその番組を観たのは小学生の時だった。クイズ番組好きだった祖母と共に。4色のパネルが目まぐるしく変わる様は、クイズが全く分からなくても観ていて楽しいものだった。 しかし、それから社会人に至るまで、クイズに関してはアタッククイズ番組を観る程度(アメリカ横断ウルトラクイズ)で、自分の関心は音楽かゲームに強く向いていた。それでも、中学生の時には地元の祭りで行われたクイズ大会で準優勝して賞品をいただいたり、高校生の時

          アタック25の話(1)