見出し画像

価値基準に囚われないようにしよう

【最終更新:2020.11.8】

うつからの回復を機に強く思うようになったことのひとつが

「人は、価値基準に囚われてしまうと不幸になる」

ということだ。


私がうつから回復して一番気付かされたことは「今までどれだけ、自分や他人の価値基準に縛られ、囚われていたのだろう」ということだった。

「良い/悪い」「すべき/すべきでない」などの様々な価値基準を時々は一旦脇に置くことで、私は生きることがとても楽になったような気がする。


本稿では、「何故人は、価値基準に囚われてしまうのか?」を考察するとともに、「価値基準に囚われるとどうなってしまうのか」を述べていきたい。

何故人は、価値基準に囚われてしまうのか?

私達は、しばしば何がしかの目標や理想、道徳や思想、理論や方法論といったものを、何がしかの価値基準と捉えて、そこに惹かれがちだ。

実のところそれら自体は、ただの概念や理論や方法でしかないのだけど、私達は常に無意識のうちにそれらに良し悪しの判断をつけて、何がしかの価値基準として受け止める。

何故、そのようになってしまうのか?


まず言えるのは「人間は弱い生き物だ」ということだ。
私達は自他の因によらず、物事が思うようにうまくいかなかったときには少なからずストレスを感じるし、思い入れの深い物事ほど、うまくいかなかったときの心理的ダメージは甚大なものとなる。

悲しみや怒り、失望や絶望などといった心の痛み自体がとても辛いものだし、そこから立ち直るにも時間とエネルギーを要する。

物事の判断や行動を色々と間違えてしまえば、耐え難い痛みが生じる
だからこそ人は無意識のうちに、常に安心感と保証を与えてくれる「間違いのない正しい答え」を求めてしまうのだ。
そして、自分が正しいと捉えたものを価値基準にして縋り、そこに囚われてしまう……というわけだ。


次に言えるのは、人は理想や期待を抱く生き物である…ということだ。
私達は「こうなりたい」「こうなってほしい」「こうあってほしい」と望むが故に、その成否が価値基準となり、そこに囚われることがあるのだ。


さらに私達は、何かの価値基準とされる物事に自分を当てはめることを「学び」や「教育」と考えがちだ。

少なからぬ人々が「まずは自分を脇に置いて、正しいとされる物事に従うようにしなさい」という考えを持っている。(※1)

「正しい価値観・正しい答えに従いなさい」という社会的な不文律は、人が価値基準に囚われてしまう背景となっている


では、人が価値基準に囚われると、どういうことが起こるのか。



価値基準に囚われると二元論にハマり、現実をひとつの視点でしか見られなくなる

人が何かの価値基準に囚われると、様々な人や物事に対して「良い/悪い」「正しい/間違っている」とジャッジするようになる。
その価値基準に当てはまっているものが良くて、外れているものは間違っている…と、短絡的に判断してしまうのである。

つまり、物事を良し悪しでしか見ることのできない「二元論」に嵌ってしまうのだ。

しかし、事実も現実も、単純に良し悪しで割り切れるほど単純ではない。
人にはそれぞれの理由や事情があるし、物事には様々な面があるのだ。

価値基準に囚われると、良し悪しばかりが気になってしまい、人や物事を色んな視点から見ることができなくなってしまう。



価値基準に囚われると、過度に批判的・攻撃的になる

物事の良し悪しばかりが気になってしまうと、自分の信条や価値観にそぐわない人や物事を許容できなくなり、強い怒りや失望を覚える。
そして、許容できない対象を強く批判したり、攻撃したりするようになる。

関心を持ったものが自分の価値基準に当てはまっているかどうかを気にするあまり、何かにつけて批判的に人や物事をジャッジするようになる。
その結果、過度に批判的・攻撃的になってしまう…という寸法だ。

いわゆる「正義感の暴走」というのもこれにあたる。
元々持っている善意や正義感と、特定の価値基準で人や物事を攻撃的に裁くのが相まって、やらかした人をめくらめっぽう攻撃してしまうのだ。

個人間の話にとどまらず、ネット中傷のように不特定多数で個人を攻撃したり、社会運動として他を攻撃したりする例も山のようにある。
むしろ社会運動のうち何割かは、価値基準に囚われているが故に、他を排撃すること自体を目的に行われている…と私は思っている。



価値基準に囚われると、かえって迷い混乱する

価値基準に囚われると「何が正しくて何が間違ってるのか?」を過剰に気にするあまり、それに振り回されてしまい、迷って物事を判断できなくなる

良いものや正しいものを求めるあまり、色んなものが正しく見えて目移りしてしまったり、逆に全てが間違って見えたりするのである。



価値基準に囚われると、自らを責めてしまう

価値基準に囚われると、そこに満たない自分自身を責めてしまうことが往々にして起こる。

私達は往々にして、自らの「こうありたい」という理想や、誰かの「幸せに生きるためにはこうすべきだ・こう考えるべきだ」という思想や方法論を価値基準にしがちだ。
しかしそこに囚われてしまうと、何かある度にそんなモノサシで自分を測っては、「足りない自分」「至らない自分」に失望して、自らを責め苛んでしまうのだ。

これは私自身、すごく身に覚えがあり、そしてとても苦しかったことでもある。



モノサシを脇に置く知恵と勇気を!

このように、私達はその弱さ故に間違いのない正しいものを求め、また理想や期待を強く抱くことで、価値基準に囚われてしまうのである。
ある特定の鋳型に嵌ることを良しとする教育や社会風土も、その背景にある。

そして、価値基準に囚われると、物事を一面的にしか見られなくなったり、迷いと混乱を来したり、自他を許容できなくなったりする。
それが個人の人生においても、社会においても、様々な問題を生んでいる。


だから私は、時々は持っている価値基準を手放して、一旦脇に置くことを提案したい。(※2)

そして、一歩立ち止まって色んな視点から人や物事を見るよう心掛けたり、自分や他人をちょっとだけ許してあげたりしよう。


もちろん、判断の基準としての価値基準を持つのは、とても大切なことだし必要なことだ。

でもそこに囚われると、偏見と無明に陥ったり、自分や他人を傷つけたりしてしまう。
そして社会活動であれば、際限なき闘争に陥ってしまう。

それらは辛く悲しく心が痛むことであり、また何の生産性もない。
一言で言えば「不幸」ではないかと思うのだ。


私達がそれぞれの価値基準を持つことは必要なことであり、大切なことであり、尊いことであると思う。

また、自分の持つ価値基準を脇に置くこと自体、人によってはとても難しいことであるのも分かっている。

それでもなお……
それに囚われ拘泥することが、どれだけ好ましくない結果、痛ましい結果を引き起こすかを、皆に知っておいてもらいたいと思う次第である。

そして本稿を読んで頂いているあなたに、持っている価値基準を時々脇に置ける人であってほしい、そのための知恵と勇気を備えてほしい……と願ってやまない。(※3)



※脚注

(※1)読み書きそろばんなどの知識や技術の習得、学校や職場などでのルールの遵守といった場面では、それは全く正しい。
しかし、こと人生における学びにおいては「何かの価値基準に自分を沿わせる」ことは必ずしも有効とはいえず、かえって遠回りになるケースも多い。

(※2)念の為述べておくが、私にはあなたの持っている価値基準を「捨てろ」と押し付ける意図はない。
私が本稿を書いているのも、まさに「価値基準の提示」であるし、そんなことを言える義理も道理もない。

(※3)私自身も、自らの価値基準に囚われることのないよう、いっそうの注意と努力を払いたいと思う。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?