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「精神至上主義」のここが問題だ

【最終更新:2021.7.4 細部の修正】

私は、ザインでの体験やその後の人生経験から「心で思ったことや感じたことを現実よりも優先するのは危険だ」と考えるに至った。


特にザインをやめて10年以上経ってから、うつになって、食事を変えたことによってそこから回復したことで

心よりも深いところから力が湧き上がって、
結果、心のありようも変わった

という経験が大きい。


それまでの私は「心のあり方」を大切なものと考え、ザインをやめた後も自己啓発やスピリチュアルから学ぶ努力をしていたが、うつからの回復を機に

「実は、心のあり方にこだわることに、さほど意味はないんじゃないか?」

と考えるようになった。

この記事では、心を過大に重視する「精神至上主義」の問題点を指摘する。

精神至上主義とは?

ここで私が問題提起する「精神至上主義」とは、心を意識し大切にすることに大きな価値を置くあまり

「心のあり方を変えれば、物事を変えられる」
「心で感じたことが全て正しい」

と主張したり

「心のあり方を価値基準にして、人や物事をジャッジする」

思想全般のことを指している。


●宗教カルトは言うに及ばず
●殆どのスピリチュアル
●大半の自己啓発

といったものが、これに当てはまるだろう。

「引き寄せの法則」「鏡の法則」「思考は現実化する」など、精神至上主義をベースにした言説は枚挙に暇がない。


そして、宗教・スピリチュアル・自己啓発といった一部の界隈のみならず、精神至上主義が肯定される空気はこの国の社会全体に存在している。
克己心や向上心、謙虚さといったものを美徳とする国民性がそのベースにあるように思う。

「心のあり方が大切だ」というのは、一見とても正しい考え方で、そこにツッコミどころを見出すのは難しいように思える。
実際、心のあり方を意識することで自身が成長したり、現実が好転するケースも少なからずあるのは間違いなく、私自身も「ある一面においてはとても正しい」と考えている。


それでも私は、精神至上主義には目を逸らしてはいけない問題点があると考えている。

私の考える「精神至上主義」の問題点は、以下の4点である。

●主観的・個人的なものを、絶対のものとして扱う
●自他問わず、人を許容せず裁く
●憐れみの欠如
●他者理解と尊重の欠如

ひとつひとつ説明していこう。



問題点1.主観的・個人的なものを、絶対のものとして扱う

心とは、あくまでも自身の思いや感情であり、それはとても主観的かつ個人的なものである。
心を絶対のものとして扱う…ということは、言い換えれば「個人の主観を絶対のものとして扱う」ということに他ならない。

心を最重要視する人々は、実際の事実や出来事よりも、見えないし手に取ることもできない心に真実性を見出して高い価値を置き、感じたことを過大に捉えたり受け止めたりする。
そしてしばしば、心をかき乱す周りの声や情報を「雑音」として扱い、それらをシャットアウトしがちだ。

それは即ち「現実の無視」「客観性の喪失」につながる。
個人的に感じたことをあまりにも重視するあまり「実際のところはどうなのだろうか」「自分以外の人はどうだろうか」「別の視点はないだろうか」といったことを考えなくなる。
つまり、広く現実を認識することから遠ざかり、客観性に価値を置かなくなってしまうのである。


現実を無視すると、一方的・一面的な視点で人や物事を決め付けて、事実や実際の出来事を軽んじるようになる
そうなると、事実を重んずる常識的な人々や、価値観や感覚が違う人々とギャップができ、相互理解やコミュニケーションが困難になってしまう。


また、個人の主観を重視して客観性を失うと、あくまでも個人的な体験・気付き・感覚に過ぎないものを「万人に当てはまる絶対的な真理や本質」として提示したり、押し付けたりしがちになってしまう

人にはそれぞれの人生がある。
すなわち、それぞれの心があり、価値観があり、歩みがある。
それらを理解・尊重することなく他者に押し付ければ、当然の帰結として相手を不快にさせたり、トラブルになったりするのである。



問題点2.自他問わず、人を許容せず裁く

「心のあり方を大切にすること」自体はとてもまっとうで正しいけれども、それゆえにひとつの大きな価値基準にもなっている。

「心のあり方」にフォーカスし続ける精神至上主義にハマると、例えば

「法則」
「真理」
「本質」
「善悪」

といった概念を価値基準にするようになる。

これらが絶対のものであるかのように考え、吹聴したりするようになる。


そして何よりの弊害は、これらを「そう思わなければいけない」「そう考えなければいけない」絶対的なルールやモノサシとして受け止めることにより、しばしば自分や他人の心のあり方をジャッジするようになることである。


ジャッジが自分に向けられると、良い心の状態・良い思考の状態になれない自分を責めてしまう

例えば「鏡の法則」では、「全ての現実は自らの心の投影である」と説いている。
これを深刻に受け止めてしまう人であれば、自分の心を逐一ジャッジするようになり、「こんな風に思うから、私にはこんなにも辛い現実しか訪れないんだ」と考えて、自分を追い詰めてしまうのだ。
(これは、私がうつになったときに実際に陥ったことでもある)


ジャッジが他人に向けられると、他者への寛容さが失われる
不快感を感じさせる他人に対して、無思慮に批判したり攻撃したりする

カルト宗教が良く言う「心が汚いから地獄に落ちる」なんてのはその最たるものであるけれども、そもそも他人の心をジャッジすることは因果応報とつながり「心ない奴は酷い目に遭うべきだ」と短絡的に考えて他者を攻撃する行為に直結する。


と、このように精神至上主義にハマると、その価値基準軸で自分や他人を逐一ジャッジするようになり、至らないところや過ちを許容できなくなってしまうのである。(※1)

元々は幸せに生きるための知識や知恵であったはずのものが、それぞれの内面においてモノサシやルールと化して、自分や他人を責めるものに変質してしまう。
結果、幸せに生きるどころか、生きづらさの原因となってしまう。

宗教やスピリチュアル、心理学や自己啓発といった界隈の当事者達は、こうした事象をどれだけ真剣に受け止めているのだろうか?
そもそも、こういうことが起こり得る可能性に思いが及んでいるのだろうか?
私には甚だ疑問である。


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問題点3.憐れみの欠如

精神至上主義は、言ってみれば「思えば思う通りになる」という考え方だ。
それを信じる人は「思いを変えることで思い通りにする」ことに注力するあまり、「思っても思う通りにならない」現実を軽んじてしまう。

それはつまり「思っても思う通りにならない」人の苦しみを軽んじてしまう、ということでもある。


殆どの人にとって、現実とは、人生とは、思い通りにならないものであり、だからこそ人は悩んだり苦しんだりする
それぞれに、苦しみを心に抱えながら生きていたり、様々な過程を経てどうにか乗り越えたりしていく。

物事も、自分自身さえも、思い通りにならない。
それでも人は、それぞれ頑張って日々を生きていく。
そんな自他の姿を確認し、また知ることによって、人は自分や他人にやさしくなれたり、許せたり、するようになる。
そこに憐れみの気持ちが生まれるのだ。

しかし、精神至上主義にハマッてしまうと、そんな憐れみの気持ちなんて湧かなくなってしまう
それどころか「思っても思う通りにならない」人の気持ちを無視し、寄り添おうとしなくなってしまう。


「何でも心のあり方でどうにかしよう」とする精神至上主義は、思い通りにいかない現実に苦しむ人の心に寄り添うことができない
「そういうこともあるよね」と言ってあげられないのが、精神至上主義の限界である。



問題点4.他者理解と尊重の欠如

精神至上主義は「自らの心のあり方」に強くフォーカスする考え方である。
それ故に、自分の価値観や、自分が信ずるものの価値観の枠外にいる他者に意識を向けて理解することが疎かになってしまう

自らの価値観の枠外にいる人に対して、「関心の外側の事象」として無視を決め込んだり、人生を邪魔する雑音と決め付けて排除したり、悪と決め付けて攻撃の対象としたりする。

大変残念なことであるが、違う価値観で生きている他者を理解しようとしないのだから、当然の成り行きとして、そうした他者を尊重することもできなくなってしまう


精神至上主義にハマると、しばしば「本に書かれてること」や「自分に起こったこと」を他者にそのまま当てはめようとしてしまうけれども、実際のところ、人生上の出来事をどう受け止め、どう対処し、どう学んでいくかは人それぞれである。

自分の食べた美味しいご飯が誰かの胃袋に入ることがないように、人生はそれぞれのものだ。

大切なことは一言で言い表せるものかもしれないし、人間は類型化できるかもしれないけれど、それでも人はひとりひとりが、それぞれの人生を生きているのだ。

そこに思いが至ってはじめて他者を尊重できると思うのだけど、精神至上主義にハマッてしまうと、他者や現実を知ろうとすることが疎かになり、「人生とは個別のものだ」ということに気付きにくくなってしまうのである。



精神至上主義は生きづらさの原因であり、トラブル・社会問題の土壌になっている

このように、精神至上主義には様々な問題点、問題となり得る点があることは分かって頂けたことと思う。

理想的な心のあり方を考えること、自省して心を整えること、心で思ったことを大切にすることは、悪いことではないし、それはとても大切なことだ。

目の前の問題を解決するために、物事を自分の中で消化・整理するために、心のあり方に目を向ける…というのなら、むしろ私は大賛成だ。

しかし、精神至上主義に基づく心の教えを金科玉条の如く捉えて、過剰なまでにそこに注力することで、かえって自分の心に枷をはめたり、自分や他者にやさしくなれなくなったり、自分の外側にある現実を蔑ろにしたりしてしまう負の面は、無視していいものではないはずだ。

心を大切にしようとすることが高じて、幸せに生きるどころか、かえって生きづらさをもたらすこともあり得るのだ。


そして、こうした精神至上主義の問題点は、様々なトラブル、ひいては社会問題の土壌になっている点も指摘しておきたい。

他人に対して関心を持たず、不寛容で、自分の外側にある現実に無関心になる…という精神至上主義の弊害は、当然のようにトラブルを引き起こす。

最悪のケースが宗教カルトや、子宮系スピリチュアルといったものであり、個人間のトラブルではもはや収まらず、社会問題にまで発展してしまうのである。(※2)



心を大切にするために、精神至上主義を手放してみようか

精神至上主義が、幸せに生きるどころか、心の足枷となり生きづらさをもたらす…と私は述べてきた。

自分と向き合うことはとても大切だけど、他者や現実と向き合ったり、理解しようとすることも、同じように大切だ。


その為に、精神至上主義がもたらすルールやモノサシが邪魔だったら、それを手放してみるのもいいんじゃないかと思う。

心のあり方に注力するだけが人生ではないのだから。


内向きのベクトルでものを見続ける精神至上主義信奉者は決して言及しないことだけど…

人生のあり方、心のあり方って、もっと自由なはずだし、

目の前の物事と真摯に向き合ってさえいれば、どんな生き方をしようとも気付きや学びは得られるものだ。

目の前の人生、目の前の他人、目の前の現実と真摯に向き合うことは、本に書かれてることをなぞったり、自分の心に意識を向けて良いものにしようともがいたりするよりも、はるかに確かな学びとなる。



最後に

●本稿で私は精神至上主義を批判してきたが、私の意図するところは、既存の宗教、スピリチュアル、自己啓発への問題提起であり、バッシングや否定ではない。
「心のあり方を最上位に置き、心を変えれば現実を変えられる」という考え方や方法論の弊害・問題点を、界隈の当事者にも共有して頂くこと、真摯にそれらの問題と向き合って頂くことを私は希望している。

●そして、本稿も所詮は「私の思うところ」であり、充分に客観性を持つ内容のつもりであっても、絶対に正しく間違いがない…と断言できるものではない。
考慮に入れなければならない別の物事を、もしかしたら見逃しているかもしれない。
もしそうであったら、ご指摘頂けると幸いである。
まっとうなご指摘であれば、ぜひそこから学びたい。



※脚注

(※1)もちろん「自分を許すことが大切だ」という教えも存在するけど、許せないことで自分を責める人も出る始末である。(私自身がそうだった)
「自分を責めない」という教えさえも「ルール」「モノサシ」になってしまうこと自体が問題ではないだろうか。

(※2)本稿で挙げた精神至上主義の問題点は、カルトの特質や問題点ときれいに一致する。

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