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人生の価値について、はした書き(共通テスト1日目に東大会場で起きた事件を受けて)

はじめに

先日ショッキングなニュースを耳にした。

どうやら高校二年生の学生が共通テスト会場に乗り込み、受験生やその場にいた方を刺傷したとのこと。

数年前センター試験を受けたこともあり、被害にあった受験生を思うと自分のことのように感じられ、非常に痛ましい感情に襲われる。

一方で、加害者の肩を持つ訳では一切ないが、その立場に全く感情移入できない訳ではない自分がいる。

受験生は「偏差値が高いか低いか」という一次方程式的な、さらには「合格か不合格か」という0か1かの評価基準の中で生きる。

非常に特殊な環境下で、柔軟とは言えない精神状態が強いられる。

そのような特異なカチコチな状態は、茹でる前のパスタの麺のように、非常に脆く折れやすい。

受験生の時はそうであったし、これからも類似した環境に置かれるだろう。(年収、結婚の有無、仕事の出来、etc...)

そのため精神状態が安定していて茹で上がった麺状態の大学生の今、今後の自分や読む方(もしいらっしゃれば)のお湯になればいいなと思った。

人生についての価値観を殴り書きする。

人生は映画に似ている

「当たり前やんけ」と思う見出しだ。

よく人生はドラマに例えられる。

人生は映画に似ている、と言ってみても100人が100人「だよね」と答える気がする。

ただここで僕が焦点を当てたいのはその評価体系という側面だ。

「これがあれば名作!」という単一的な基準はないということだ。

映画は無数にある。

バトルものがあれば、ヒューマンドラマもあり、喜劇も悲劇もあり、息を飲む展開があるものもないものも、衝撃的なラストがあるものもないものも、ヒットするものもしないものも。

そしてそれぞれに、いい映画・悪い映画が存在する。

その基準は複雑・多様で属人的・主観的である。

映画に関する統一的な評価基準なんて端的具体的に表すことはできないし、数値などで客観的に評価することもできない。

そして映画の評価は最後まで、ずーーーっと全部見ないと不可能だ。

人生も、きっと、そういうものである。



映画のような芸術の好みと、成績や点数のような数値の評価方法は異なる。

人生は前者に当てはまる。

その評価は優れているかどうか、他に優っているかどうかという数値的・競争的なものではない。

もっと全体的で抽象的な好みの領域である。(その上で競争的な映画が好きだ思う人もいる。)


大切なことは映画がよかったかどうかの判断は作品が終わって初めてできるものだということだ。

自分の映画はまだ途中である。


主人公である自分がここからどのようにしたら、自分の好きなイイカンジの映画になるだろうか。


被害に遭われた方の1日も早いご回復と適切なサポートを受けられることを願っております。


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