回避か、変革か
ポプチョン僧侶とキム・スファン枢機卿
ポプチョン僧侶とキム・スファン枢機卿は互いに異なる宗教を持っているにもかかわらず、格別の友情を交わす間柄だったそうです。キム・スファン枢機卿は深い山奥の小屋で淋しく修道生活をするポプチョン僧侶を尊敬し、ポプチョン僧侶は「私は世俗を離れて修道しているが、世俗で共に暮らしながら修道している神父様の方が偉大に思える」といって尊敬したそうです。
このように神聖な求道の生を生きる人々にとって、「世俗」は抜け出したり克服したりしなければならない障害のようなものなのかもしれません。世俗は人々の「欲望」を引き起こしてこそ消費が起こり、消費が起こってこそお金が回っていくところだから、「欲望を勧めるところ」だと言うことができます。宗教においては、この「欲望」が「罪(欲がはらんで罪を生み、...ヤコブ1:15)」やあらゆる「苦痛、一切皆苦」の原因だと規定しているので、宗教的な観点において世俗は「罪を勧めるところ」だとも言えます。
現代の「メディア(Media)」には、知らず知らずにこのような「欲望(罪)」を非常に効果的に刺激して勧めるコンテンツがあふれています。だから、自分の心はそうでなくても、目に見えるものの影響を受けて、瞬間考えが「罪」の方向に回っていったり、罪を犯したりするようになります。だから罪を犯す「考えとその環境」から抜け出すことができてこそ、「心」も「体」も罪を犯さないようになるのです。
インターネットで発信されるコンテンツの重要性
代表的なメディアとして「インターネット」は実に驚くほどの別天地です。お茶一杯を飲むにも足りない60秒の間に、YouTubeには600を超える新しい動画が更新され、70万件に近いフェイスブックの文章が上げられています。このコンテンツの中でも「良い考え」を表わすものよりも、肉的な欲望を刺激する内容の方がはるかに多いでしょう。
しかし、実生活で必須的に使用されているインターネットを完全に切ってしまい、そこから抜け出すのは容易でありません。小雨に服が濡れるように、悪くないように見えるけれど、実際は良い考えと相反する多くのコンテンツが私たちの脳に着実に積み重なり、「罪」も「罪」ではないかのようになってしまうと、これは実に恐ろしい結果を招くことになるでしょう。
まさにこの点において、インターネットで発信されるコンテンツは非常に重要な課題となります。インターネット上で正しい、良い考えを伝えることこそが、非常に意味があり、価値があると言えるはずです。ただ、インターネットはすぐに結果が出るとは限りません。途中で諦め、辞めてしまう人もおいでしょう。しかし、良いコンテンツも小雨に服が濡れるように......そのように着実に人々の脳の中に染み込むと信じて、続けて持続的な努力をしていくべきだと考えます。
何を行なって満足するか
天国で住む家は、自分の肉体が行なった分、受けるようになると言いました。
仏門でも人の心と体の活動、日常生活を意味する言葉で、業という概念を使いますが、この業は、身体が行なう身業、口に由来する口業、心で起こる意業の三種類に分類します。自分の体でする行動、口の言葉、心に抱いている考えで、過去、現在、未来にわたって無限に生死輪廻をするといいます。結局、肉体を使って生きて行なう私たちの「日常」「行ない」がそれほど重要だということです。
この肉体を持って生きながら、ある人は湖で魚を捕ることに満足し、ある人は川で魚を捕ることに満足し、ある人は海で魚を捕ることに満足して生きるます。ある人は「世俗」、「罪」から抜け出すことだけで満足できるでしょうが、またある人は世俗を変える勇敢な挑戦によって次元をより上げようとする人もいることでしょう。どうせならば、多くの人に少しでも良い影響を与えて生きたいものです。